カウンセリングというもの

カウンセリングをお考えの方やカウンセリングについて知りたい方に向けて、カウンセリングとはどういうものなのかをまとめてみました。カウンセリングを始めたいのだけれど不安や疑問があったり、予備知識が欲しいと思っていらっしゃる方も多いと思います。そんな方はご一読ください。

こちらも参考にしてください:カウンセリング方針

1.カウンセリングとはどういうものなのか?(ウォーミングアップ編)

取り敢えず気楽に読み始めてください。

1-1 天動説から地動説に気づくとき。カウンセリングってそんなもの

天動説から地動説に気づくとき。カウンセリングってそんなもの。

自分の全てが自分の内側から動き出す。 他人の眼から自分の眼に変わってくる。

カウンセリングって、眼から鱗。

それは、地動説を発見したときと変わらないほどの衝撃です。

自分は全く変わらないのに、全てが違って見えてくる。 自分仕様に動き出す。自分色に輝きだす。 心底自分を面白がれる。 そういうもの。

1-2 カウンセリングは謎解き、最大のパズルです

人の生き方というか、物の見方や行動の仕方には、その人となりが必ず表れています。 それぞれ、その人本来の視点・軸のようなものといいましょうか、 その人の持って生まれた個性がアンテナとなり、自分の見方、行動を形づくります。

しかし、親や環境あるいは取り巻く大人たちの価値観などの影響力が大きく、本人の気質に影響を与えてしまうと、その視点・軸はぐらつき、 ブレた行動パターンになっていきます。

親に似た他人に敏感に反応しやすく自分を出せなかったり、学校や社会での人間関係が上手くいかなくなったり、周りの価値観が自分の価値観に付着し過ぎると、本来の素を脅かし、ぐらつきやブレが生じて歪みが生じるのです。

カウンセリングとは、そんな過去の環境や境遇を紐解き、本来の自分の素が何なのか、付着がどういうものでどう影響していたのかを解いて、ズレや歪みを正しい位置にはめていくようなものです。

全てのものには因果関係があり、全ての謎は解けます。それはとても奥が深く人生最大のパズル、すべてのパーツがはまる最高の謎解きです。

2.カウンセリングを受けるタイミング

さて、次はカウンセリングをいつどういうタイミングで受けたらいいのかについて書いてあります。長い人生のなかで思い悩んだこと、ずっと気になっていたことがあって、でもカウンセリングを受けるべきなのか迷いますよね。そんな方には参考になると思います。

2-1 カウンセリングを受けるタイミング

人は誰でもが社会の一員です。 社会とは自分と世間(自分以外)の総括です。ですから生きている限りは、誰でもが漏れなく社会の会員です。

さて、生まれて3.4年もすれば大方の人は幼稚園などの共同社会に1人で入会させられます。それは立派な社会人なので、どうしても、否応なく、他人を意識しはじめ比較するのは自然なことです。

勝った負けたの喜びや悔しさ、称賛と蔑み、楽しさや屈辱、それら人と居てこそ味わう感覚は次第に芽吹くもので、自我の中では成長も苦悩も生まれます。

長い人生のなかでは良いことばかりとはいかず、自分の立ち位置を見失い、正しい判断や選択に自信が持てない時もあるでしょう。また、自分を肯定できずに 不安と恐怖に飲み込まれてしまう事もあるでしょう。

学校や会社の人間関係で、或いは予期せぬ病気や事故、または夫婦・家族の中でと、そんな思いに苦悩してしまうこともあるでしょう。また小さい頃からずっと、不安や恐怖感に苛まされて来られた方もいるでしょう。

堪えて頑張ってきた限界、どうしても理解できないこと、他人との比較で自分を恥じたこと。みんなと同じ空間に居られないのは何故か。どうして自分は人と違うのか、そして死にたい、時にそんな気持ちになってしまうこともあるでしょう。

そんな時そんな人に有効なのがカウンセリングです。

そして、そこに何が起きているのかを客観的に知りたいと思った時、或いは、その状態その状況から抜けたいと思った時がカウンセリングを受けるタイミングです。

ひとりで抱えてきたことを自分以外の人に話すこと、それは勇気がいることかも知れません。ですが、自分の為に、自分を幸せに導く為に行動に移して頂きたいのです。

3.カウンセリングとはどういうものか

いよいよカウンセリングとはどういうものなのかについて、細かく書いていきます。

先ずカウンセリングの入り口として「傾聴」「受容」「共感」というものがあります。これらの言葉は色んなサイトでお目にかかっている方も多いと思います。字の如く、自分の話に否定なく耳を傾けられ、受け止められ、そして共に感じるということでしょうか。

実際これを正しく出来る人も多くはないのですが、ここまでなら、勉強と訓練を積めばそこそこ出来る。しかし、ここ止まりでは何も変わらないのが現実です。

カウンセリングを受けるということは、そこからが入り口となって自分の心の奥に入っていけること、導かれることです。そして、ある程度の受容・共感が済んだ段階からその先に進むのには、少しの意識というかコツが必要にもなってきます。

ここからはそれがどういうことか、その為に必要なことは何かなどを書いていきます。

3-1 心の回復とそれに必要なこと

カウンセリングの過程で何を求めるか?

カウンセラーにできるのは、自分の意思で回復或いは脱却したい方への アプローチでしかありません。なので、カウンセラーが治してくれると思っているうちは、理解以上の変化を求めても何も変わりません。欲しいものを求めることは凄くいいこと、ただし受け身でいるうちは 内面からの手応えや変化は起きにくいのです。

少し手厳しいように感じるかも知れませんが、これが真実です。

どの症状にせよ、カウンセラーに相談する時期というのは悩み疲れた時、困ってしまった時、そしてカウンセリングの変化を感じ始めるのは、「自分の問題」だという認識を持ち始めたとき。酷な言い方ですが、そういう自覚がなければ何も気付くことはできないのです。

3-2 カウンセリングは他力では得られない

心理カウンセリングとは、自己受容、自己一致、自分適応、自己発見であり、自力本願、自己治癒、自己修理です。これに記したように、カウンセリングそのものは 他力では成立しません。そしてカウンセラーの役割はナビゲーターです。

また、カウンセリングというものは病院で行われる診断や治療でもない。 強い精神論や体育会系の厳しさや更生・克服が求められるのでもなく、欠点や悪いものを探すことでもありません。

ただ、「諦め」や「卑下」そして「寄生」や「依存」から抜け「自立」を掴みたいと思い始めたときから始まるものです。

自分がなぜそう思い何が引っかかっているのか、どうしたいのかなど自分の考えや気持ちを知っていくこと。そしてその為には、深く自分だけに耳を澄ませ、自分の内なる声の方向に、雑音を振り払い聞きに行くのです。

これが、他力では何も生まれない理由であり、自分の準備が整っていれば色んなことに気づかされるのです。またこの作業を、怖くない・怖がらなくていいというのは嘘になります。なので自分のペースで、恐る恐る、そして一緒に行きましょう。

3-3 カウンセリングで大事なこと

カウンセリングにおいて、今の自分の苦しさや不安を、あの時こうだったからこうなったんだとか、親や環境がああだったからだと解っていくことがあります。

そしてそれはその通りなので、親に当り散らすのは一向に構わない。とことんぶつけて行くのはいいのですが、「親のせい」にしているうちは、これまた何も見えてこない。

大事なのは、じゃあなぜ自分はその時そうしたのか、どういう気持ち、どういう想いでそうしたのかというような、自分の中で感じていたことを深く深く知っていくことこそが大事です。

また、ただただ根っからの自分という人間の本性を知っていく時、思いもかけない自分が見えてくることもあります。自分の優しさや正しさに感嘆するばかりではなく、 未熟さやしたたかさなどに直面し戸惑うこともあります。

それはキレイごとや上っ面のお涙ちょうだい的な美談ではなく、もっと生身の、したたかで執念深い人間の部分に踏み込むことであり、どす黒くもあり、だけども生に対する真っ直ぐに躍動している自分を直視していくことです。

つまり、表向きな人格ではなく、偽らない素の自然体の自分を、責めず否定せずに掘り起こしてあげること。だからそのまんま、気負わず、作らないことが大切です。

また最終的に、それが社会の中でどんなに映ろうと、良くも悪くも「これが自分なんだ」と受け入れるしか、自分のままで生きられる道はありません。それが怖いんだと思われるのでしょうが、逆に言えば、これまでずっと自分を偽ってきたからこそ苦しかった。 ならばそれを辞める他ない、ということです。

カウンセリングの途中では、見えてくる自分に抗い、何度も行きつ戻りつの繰り返し。それを含めて、正に自分との戦いなのです。

時には感情がぶつかり合うことがある。だからこそ、その、誰ともしてこなかった本気な会話を通して、「自分とはどういう人間か」をちゃんと掴めたなら、その人生は少なくともこれまでの苦行からは開放されます。 しかしそうでない限りは、たちまち苦しさが顔を持ち上げてしまうでしょう。

どうですか?カウンセリングのイメージは??怖い、嫌だ、無理、なんて思われた方もいらっしゃると思いますが、もう少し読み進んでみてください。

4.カウンセリングですること

さてここからは、カウンセリングではどういうことをしていくのかについて書いていきます。先ずは「自分の眼と他人の眼」から書き始めます。

4-1 自分の眼と他人の眼

多くの人間は、良くも悪くも自分以外の他者の眼、つまり人の眼を気にしながら比較・判断することで自分の言動を鑑み、選択材料としています。しかし悩める人の特徴としてあるのは、人の眼が過剰に気になってしまい、自分の考えや気持ちが分からず混乱し、どうしたらいいのか分からなくなってしまっています。

なので当然、相手によって自分の言動が変わるのですが、それは人を気にしているようでいて、自分にとても関心があるということ。 が、自分に関心があるイコール自分に自信があるという訳ではなく、又、他人に興味関心があるのではなく、自分の価値評価に関心があるが故に他人を気にしてしまうのです。

また、この状態を「自己不一致」な状態と呼びます。これは自分が自分と一致していない状態のことで、そんな状態では苦しくて当然なんじゃないかということが、なんとなくお分かりでしょうか。

これはある意味、社会適応を求め過ぎた結果で、つまり他人の眼が気になることで自分を見失うほど人に迎合してしまった。だって社会不適応者として弾かれたくない、いつしかそんな恐れに呑み込まれているのです。

カウンセリングでは、こういう、自分の中の眼、つまり自分を形作ってきた価値観について改めて見つめ直し理解してみる。そうしながら苦しみの原因を知ることから始めています。

4-2 自分を見つめるということ

カウンセリングの姿勢として先ず、自分を知ろうとすることが必要なんですが、そのための作業を「自分見つめ」という言い方をします。何故自分を見つめるのかというと、そうしていくことで本来の自分がちゃんとわかる。わかることで自分本来の視点を見つけられ或いは取り戻せ、その視点を意識することで自分主体に納得して生きられるようになるからです。

自分見つめには、今までの人生を振り返ることになるので、それなりの時間はかかります。 しかし、見つめる中で見えてくる自分の姿は、決してダメなものではありません。

その中にこそ自分の眼は息づいています。 その眼からくる視点を取り戻し、自分の視点で自分中心の人生を送る一歩が自分見つめです。

4-3 自分見つめに立ち塞がる自己否定の壁

当初、多くの方は、自分の状態や症状を、普通じゃない・恥ずかしいと認識しているので、治そう・克服しようとし、ある時点で行き詰まり、途方に暮れ絶望しています。

そんな中、自分を見つめろなんていう言葉は、どうにも怖くてたまらない。何故なら絶望している人にとっては、さらに反省しろ・頑張ってやれと言われるように感じてしまう。

これまでに嫌というほど味わってきた自分の劣意識を、更につきつけられる感じがして、更にダメな自分を実感してしまうからですね。

また上手く出来ない自分や、最後まで続かない自分にずっと嫌悪し、そういう自分を醜く汚いと思っているので、振り返るのは怖くて堪らない。

ずっと嫌ってきた自分が、やっぱり本当に救いようのないモンスターだったということが事実で、それを自分が受け入れなければならないと思えば思うほど、自分見つめは怖いと感じてしまうのですね。

あるのは自責の念…でもそれは自分を見つめることとは違うのですよ。

自分見つめの作業は、自分を変えたり評価するものではないので、頑張る必要も努力も要らないのですが、評価に敏感な方ほど自己否定感が強い傾向があるので、自分を見つめ始める当初では、そういう自分を卑下している自分、自己否定の壁が立ちはだかっていることに気づかされます。

さて、ここからどうやって進むのか?結論から言いますと、まるで自己否定の虜にでもなってしまったような自分像は、これまでの1人の世界で作り上げた虚像です。

中途半端・適当・雑・自分勝手…それら、人に許せても自分にはどうでしたか?自己否定はしてきたけど、その奥の心はご存知ないのではないですかね?

自分を見つめることでそれらが分かるのです。

………さて、ここからは少し事例を通して進めてみます………

例えば、みんなと仲良くしなさいと教わった人は、その教え通り誰とでも仲良くしようと試みるのですが、時には自分と意見が違う人や、自分と嗜好の違う人にも出会います。 この時点で、従順な人ほど自分を引っ込め、相手との距離を縮めようと頑張る。

更に、仲良く出来ない子は誰からも相手にされない、善い大人になれないなど、所謂、社会不適応とでも言われそうな価値観に怯えるほど、自分が相手に合わせる事で仲を保つようになります。

こうして無意識に慢性的な自己否定は強まってしまいます。

また逆に自分卑下があることで、自分が相手から利用されているのではないかと疑っても、その猜疑心を裁き抑える事で相手に尽くせる。

或いは興味の湧かない作業でも、自分の怠け根性がいけないのだと処罰すれば、自分の気持ちを感じず作業に向ける。

このように自分を裁きさえすれば、その関係が維持できるのです。

相手にイラついたりムカついたり憎んだり嫌ってしまう感情は押さえ込まれ、その度に自分を処罰し自分を変えようとします。 自分の反応を出して嫌われたくないし不適応者になりたくないので、自分を修正し頑張ります。

こうして自分を裁き卑下し、嫌ってしまうのが自己否定。これが自分見つめをスムーズにさせない最初の関門です。

自己否定の壁は、自分を裁き否定する事で自分の反応を押さえつけ、奥で感じている自分を隠す城壁でもあります。そしてその壁が厚くて強く自分を抑えられるほど、社会に適応できてると思い込めるような錯覚をもたらす。それが自己虐待をしているなどつゆ知らずに、です。

しかし、自分を否定して押さえつけてまでもそこに居る必要性を選択してしまうには訳もあり必然的に作られたものなので、ムリに取り壊そうとしても、勇気を振り絞っても対峙できません。

だからこそ、ここにじっくりと関わっていくことが、実はとても大事なことです。

自分を見つめるということは、自己否定の奥に入り、真意を探っていく作業です。 どう関わりたくて何を訴えたかったのか…

納得は真実を知ることでしか得られません。 他人に認められる生き方ではなく、主体性を回復し、自分が心から納得できる生き方をする為に自分を見つめるのです。

4-4 過去を過去にする

今の苦しさの基を探っていく時、過去の済んでいない想いを、きちんと済ませる必要が出てきます。カウンセリングでは、「気持ちを吐き出すこと」や「感覚を感じなおすこと」をしながら過去を過去にしていきます。ここではそれについて書いていきます。

①吐き出すこと

過去を思い出して、あぁ悲しかった、ひどいな、寂しい、許せないなどの 感情に気づいてくると、当然それを出したくなります。 その気持ち・感情を、どんどん出していくのが吐き出しです。

例えば、親に我慢してきた方には、その抑えていた感情があるでしょう。 あの時はこうだった、こう感じていたのだけれど解ってもらえなかった、これが嫌だった、苦しかったなど、その時にはよく解らなかったことや、我慢していた事、伝わらなかった悲しみなど 押さえ込んでいた感情を、改めて出すことが吐き出し。感じていたことを、ただ、素直に自然に任せ出すということです。

これは、どちらかと言うと、脳の記憶を元に思い出される感情を話していくこと。これをやっていくと、溜まっていたものが出るのですっきりしますし、 楽になっていきます。 これは、お1人でも、誰かに聞いてもらってもできることです。

②感じなおすこと

一方、感じなおすというのは、引っかかりやその時の気持ち、その時の自分の感覚をもう一度振り返り再度感じれることです。 これは、心の奥で感じていたであろう感覚を辿ることで、これをやっていくと、その時の自分のまんまの感覚が カチっとはまる瞬間に出会うことができます。 当時の自分が、奥底の琴線に触れていたときと同じ感覚、まさしくその瞬間と繋がる感覚です。

例えば、肉じゃがを食べた時に、「あっ、これだ!」と、昔の「母の味」が蘇り、その当時の気持ちとどんぴしゃな感覚に触れる。また、沈丁花の香りに昔、別れた時の場面、辛かった心が蘇ったり、懐かしさや当時の空気まで思い出す。そういう感覚に似ています。

あぁ…こういうことだったんだ…というような感じで、それに辿り着けると、漠然とわからないまま揺れていた感情というか、 済んでいない想いが分かるのです。

③感情を流す

さて、吐き出しと感じなおし、どちらも大切で必要な作業です。でもそれだけでは不十分。それらを通して分かった気持ち、繋がった感情を、更に「流してやる」のです。

「流してやる」というと、またそれをしなきゃと思う方もいらっしゃるかも知れませんね。ですが、過去の想いを分かってやることで、これまでずっと止まっていたその気持ちに変化がおきます。感情や感覚が流れ始めるのです。

不思議ですよ。その時の境地が蘇る体感で過去に繋がると、過去の済んでいない気持ちが堰を切ったように流れ始めるのです。これこそカウンセリングの極意とも云うべき体験でしょう。

過去を過去にするというのは、埋まっていなかったピースを埋め、ようやく、少しずつだけど意味のある思い出となれるために必要な、大事な意味のある作業です。

4-5 理解について

人との会話ややりとりをしていく時、双方の理解に食い違いが生じることがありますね。ここでは「理解」していくとはどういうことなのかを改めて書いてみます。

理解するということは、腑に落とすということです

どの会話も、自分がしっくりこない腑に落ちないことは納得できませんね。会社で、上司の命令に心から頷けないと遂行しがたく、不満・不全感は付随するでしょう。自分がいつも不安だったり何かに怯えていたとして、それを人からどう説得どう慰められても、自分が心からそうだよなと感じられなければ、不安は解消されません。 自分が気になっていることを気のせいだと言われても 消えることはありません。

分かり易い例を挙げてみます。心療内科で鬱と診断され投薬されたとする。 鬱は、心や気持ちの苦しさが溢れ出し、身体的症状として表れているもので、投薬で身体的症状が落ち着くことはある。

しかし、医者から鬱という病気の説明をされ鬱の理解ができても、肝心の心や気持ちに対して、どこがどういう風になってしまったか、その人にあわせた説明がなかったり、ピンとくるような腑に落ちる感覚を味わえなければ落ち着いてこない。いつまでたっても、もやもや感が消えず根本解決には至れない。

症状というものは、惹き起こしたきっかけやそれまでの人生をじっくり振り返り、あくまでも自分にとって心から腑に落ち、心から納得して初めて消えるものです。不自然さが取れ、自然に流れると必要なくなるので、消えてくるということです。だから鬱を辿るには、しっくりしない感じや、もやもや、または恐怖感とか漠然とした不安感などが大切な目安なんです。

鬱でなくても、身体症状がなくても、しっくりこない事しっくりこない会話の場合も同じことです。 どうしても腑に落ちないこと、疑いもなく信じているようでも、なんとな~くしっくりこない感じを抱いているならその感覚に耳を澄ませることです。

心の底から、体の中から「ん?」と反応したり、「うん、そうそう」と頷ける、そういうサインが出る方向が理解への道。 自分を理解するのには、思考的理解より感覚的理解が重要です。 そう、考えるより感じろ! 本来なら、誰でもが出来得ることなんですよ。

4-6 事実を知っていく

通常カウンセリングの原則は受容と共感だと言われる。 そりゃ最もなことです。 だけど、「それが気になってるんだね、心配だね」と受容し 不安を受け止めたところで何も変わりはしない。カウンセリングは「本当のことを明らかにしていく」これが必須です。

ですから、不安や恐怖をただ事実として、その中に自分が入れるかどうか。自分の前に立ち、不利なことを否認したり自分自身をも誤魔化してきた段階から過ぎて、言ってみれば、自分から逃げなくていいんだと気づき始めること。

今までなら、親や恋人に対して、「自分は愛されているのか?」という疑念から逃れるために「自分が悪いから辛い目に合わされる」と思い込み、相手の本心から目をそむけ、自分さえ変われば、もっと自分を愛してくれると思ってきた。

しかし、「親(彼)も苦しいんだ」「自分のためにしてるんだ」くらいな誤魔化しは出来ても、根本的な「自分は愛されているのか?」の不安は消えず、渇望が見捨てられ不安となっていく。

こういう積み重ねでは、疑念を無意識に追いやり、「本当のことは聞かない」という認知パターンを作り上げ、自分を押し込めてしまう。 相手の態度や表情などの不確かな情報を推し量り、相手の喜びに貢献しそこに自分を重ね、究極のファンタジーを作り上げたのです。

親が子供に関心などなく、感情のはけ口や八つ当たりをしていたなど、受け入れられる筈はないですからね。

しかし、相手から必要とされることの必要性の獲得に必死になるも、本当に欲しいものはそこにない。だもの埋まる筈はありません。こうして誰に対しても同じようなパターンで対応することになるのです。

頭での整理

事実を知っていくには、当時の事実関係を現在の自分の頭で整理し直すこと。
自分が悪いんだという「思い込み」と「自分の問題と人の問題の区別」がつくと、当時の場面場面での認知のズレに気づかされ、事実とそれに付随する気持ちが湧き上がってきます。

事実は頭で理解し、その時々の感情を吐き出しながら認知を正すのです。愛されることを必要とされることにすり替え、その為に行動する。そして、必要とされたくてやっていた自分の行動が、実は、相手こそ必要とされたくて自分に仕掛けられていたということも理解できるようになります。

人は人に必要とされたいし、誰かの必要でありたい。それは何も悪くないですよ。しかしこの場合、自分の必要性の為に「利用」し、相手からも「利用」されていることに気づいていない。そこに問題が生じる。

このような、愛されているのか?という疑念でなくとも、親の価値観の押し付けや刷り込みが日常無意識的に行なわれると、自分の認知や言動に自信をなくし息苦しくなることはあります。

この辺りまでの流れは、AC(アダルトチルドレン)の概念を使って当てはめても解りやすいのではないかと思います。つまり、頭で認知を正しく理解することで客観的に捉えられ、事実は事実ということと、私は私ということが納得しやすくなります。

そうしていよいよ準備が整うごとに、奥に控えていた自分が顔を出し始めます。

「なぜ自分は、そのような選択をしたのだろうか?」 ここからがカウンセリングの心髄。自分の心との対話です。

心の対話

いよいよ自分と向き合う段階では、自分の感覚が一切の主導権を握り、頭の会話より心の会話へと重点が移っていきます。

自分だって、やすやすと親や誰かの言う通りにしたかった訳じゃなく、そこでは相当な怒りやら強烈な嫉妬や憎悪が渦巻いていたり、意地や欲もある。 時には思い出したくもないイヤ~な感覚をも体感していく訳ですから、頭を使っているうちはおっかなくて出来ない。 生の反応に批判のないことが、安心して感覚に委ねることを許していきます。

先に書いた「感じなおし」や「自分を見つめる」という作業に繋がります。

人間、子供であろうと、その時の自分がその状況下でちゃんと決断してきています。自分の判断をしています。 仕方なくではなく、自分の為の意味・理由によって、行動を選択しています。 自分が自分を知るということは、自分の中に潜む自分の本質に触れ、深く理解し納得できること。そうする毎に、自分が自分と共にいるということだけで安心して生きれるのです。

5.最後に

5-1 カウンセリングで見えてくるもの

お客さん達と話していて思うのは、話や訴えに筋が通っているということです。なんだけど、それについて長いこと確信が持てず、その為に、 自分以外の他者の眼を自発的に気にしてきたように思うのです。

筋というのは、話が道理にあっていること。しかし世間の次元では、筋よりもタテマエや空気の読み合いが重んじられることも多く、時に不可思議で胡散臭い大人の世界に立ち尽くすのみになってしまうのことがあります。

順序よく混乱を解き、自己否定と思い込みを外して紐解き、自分が引っ掛かかっていたものが解れば解るほど、そこに見えてくる自分の根本的な悩みの原因が、『世間は自分が納得できるほど筋の通ったものではない』ということを浮かび上がらせることもあるのです。

苦しみの原因は、その世間に自分が迎合しようとしてきたことであり、迎合できない自分は社会不適応者としてこの世界から弾かれてしまうのではないかという恐れ。

しかし実際は、迎合しようとすればするほどに出来ない自分を感じながら、自分を裁きつつも動けず苦しんでしまった。

そもそも人間は、自分が納得するようにしか生きれないし、そうでしか落ち着けない。 そうでないとそれだけストレスがかかり、息苦しさや違和感を覚え、或いは何らかの身体的症状が現れたり鬱になったりする。

世間に適応しようとして病気になる。 しかしこれがまさしく人間らしい反応の証拠であり、完璧な人間なんだということでもある。そして完璧な人間だからこそ、恨んだり憎んだり、イラついたり悲しんだりする。 そして執着する。

執着の心は決して楽なもんじゃない。でもそこには確かに生きる執念のようなものがある。だからこそ、その執着の真意を読み解き、感じきること。

例えば、憎い相手を許したければ、その前に徹底的に憎まなければ許せない。 黙って許せるほど人間は善人じゃないよ。

赦す為に憎むんじゃなくて自分の為に憎むんだ。これは難しいけども。そして復讐は別の話。

話戻して、カウンセリングでは、今まで気になっていたもの全てを、ひたすら忠実に知っていきます。 自分の納得できるものは、ただ真実でしかないのですから。

5-2 主体性の回復とおまけ

お客さんの中には、霊感や霊が見えたり、そういう特殊能力を持つ方がいらっしゃいます。 ところがカウンセリングが進み自分中心の主体的な行動へと変化していくと、その能力が薄れていくことがあります。

中にはその能力を自分仕様に使い出す方もいますが、多くは、霊に対して自ら断れたり主張したりできることで、霊が離れていったり放っておけるようになっていかれるようです。

つまり、主体性が回復されると、自分の意思で行動することに不安や罪悪を感じにくくなるので、好まないものには振り回されなくなるのです。

また、お客さんの中には、詩や絵画や音楽などの アーチスト系資質に長けている方も多いです。しかし、落ち込んだり深みに嵌っているときに作られていた作品などは、カウンセリングが進行していく中で、書けなくなったり作れなくなることもあります。

主体性が回復され、自分が深く煮詰まらなくなるので、その代償に出来ていたものはなくなり、芸風や作風が変化していくのです。

自分中心の世界観で世の中が回り、自分の歯車が大きく回りだす。能力の有無や善し悪しはともかく、一人の人間として特別な一人になるのです。