カウンセリング

天動説から地動説に気づくとき。カウンセリングってそんなもの。

天動説から地動説に気づくとき。カウンセリングってそんなもの。

自分の全てが自分の内側から動き出す。 他人の眼から自分の眼に変わってくる。 カウンセリングって、眼から鱗。 それは、地動説を発見したときと変わらないほどの衝撃です。

自分は全く変わらないのに、全てが違って見えてくる。 自分仕様に動き出す。自分色に輝きだす。 心底自分を面白がれる。 そういうもの。

カウンセリングは謎解き、最大のパズルです

人の生き方というか、物の見方や行動の仕方には、その人となりが必ず表れています。 それぞれ、その人本来の視点、軸のようなものといいましょうか、 その人の持って生まれた個性がアンテナとなり、自分の見方、行動を形づくります。

しかし、それが他人から影響を受け続けると、その視点・軸がぐらつき、 ブレた行動パターンになっていきます。 その殆どは、幼少時代の家庭環境、繰り返される日常の中から、親の価値観や 家庭にあった空気によって影響されます。 例えば、いつもいい子であった人は、大人になってもそれが行動に表れます。

親の言うことをよく聞くいい子だった人は、親に似た他人に敏感に反応しやすいでしょう。 両親のどちらかが絶対的な権限を握っていたり、暴力、いさかいが絶えなかった家庭に 育てば、世間のそれらのものに敏感に反応するでしょう。 道徳的傾向が強い家庭は、善悪での見方が身に付き、善行、立派な人を 目指すようになるでしょう。

このように、それぞれの行動パターンには、過去に受けた色んな反応が付着していきます。 人間は繊細なデリケートな生き物ですから、非常に敏感に他を察知し、変化します。 その付着が少ないとあまり気にならないのですが、本来の素を脅かしてくると、 ぐらつきやブレが生じて、違和感として認識されます。

カウンセリングでは、本来の自分の素が何なのか、付着がどういうもので、 どう影響していたのかを解いていきます。 とても奥が深く、自分でしかできない、人生最大のパズル。 すべてのパーツがはまる、最高の謎解きです。

カウンセリングの目的

人は誰でもが社会の一員です。 社会とは自分と世間(自分以外)の総括であるので、 生きている限りは誰でもが、漏れなく社会の会員なのです。 だからこそ皆、世間を意識する。自然なことです。 その中で自分の立ち位置を見失い、自分を肯定できずに、 不安と恐怖に飲み込まれてしまった人に有効なのがカウンセリングです。

従ってカウンセリングは、見失った自分を再認識し、 その上で自分のまま、社会の中で生きれること。 決して、世間を批判し、バカにすることで自分を肯定していくことではなく、 自分と自分以外の違いを受け入れることです。

自分を知っていくとき、自分の優しさや正しさに感嘆するばかりではなく、 至らなさや未熟さ、醜さや悪どさなどと直面することがあります。 それが社会の中ではどんな自分に映り、どんな位置であっても、 『それが自分なんだ』と受け入れるしか、自分のままで生きられる道はありません。

逆に言えば、自分を偽ってきたからこそ苦しかった。 ならばそれを辞める他ない、ということです。 カウンセリングの途中では、見えてくる自分に抗(あらが)い、 何度も行きつ戻りつをすることがあります。 それを含めて、正に、自分との戦いなのです。 自分てヤツに出会えたなら、その人生は少なくとも苦しさからは開放されます。 しかしそうでない限りは、たちまち苦しさが顔を持ち上げてしまうでしょう。

カウンセリングの神髄

カウンセリングにおいて、今の自分の苦しさや不安を、 あの時こうだったからこうなったんだとか、 親や環境がああだったからだとか解っていくことがあり、 それはその通りなんだけど、それが一番大事なことじゃなく、 じゃあなぜ自分はその時そうしたのか、 どういう気持ち、どういう想いでそうしてたのかというような、 自分の中で感じていたことを、深く深く知っていくことです。

また、ただただ根っからの、自分という人間の本性を知っていく時、 思いもかけない自分が見えてくるにつけ、 多くの人はショックを受けたり戸惑うこともありますが、 徐々に自分という人間にフィットしていく心地良さに安堵していく。 それは、「素の自分」というより「地の自分」と言った方が解りやすい。

なぜならそれは、キレイごとや、上っ面のお涙ちょうだい的な美談ではなく、 もっと生身の、したたかで執念深い人間の部分に踏み込むことであり、 どす黒くもあり、だけども生に対する真っ直ぐに躍動している自分を直視していくことだからです。

カウンセリングの本髄は、カウンセラーを通して自分を知る、言い換えれば、 クライアントとカウンセラーとの、生身の人間同士のぶつかり合い。 時には感情がぶつかり合うことがある。だからこそ、その、誰ともしてこなかった「ぶつかり合う」ということを通して、 「自分とはどういう人間か」をちゃんと掴め、その上で自分の今までのことが腑に落ち始めるのです。

カウンセリングは他力では得られない

心理カウンセリングとは、自己受容、自己一致、自分適応、自己発見であり、 自力本願、自己治癒、自己修理です。 カウンセラーはナビゲーターですが、カウンセリングそのものは 他力本願では成立しません。

自分を見つめるということは、病院で行われる診断や指導ではなく、治療や習得でもない。 つまり、誰かに助けてもらいたい と思う気持ちが終了したときから始まるもの。 自分のことを知ろう と意識し始めたときの「気づき」からおこるものです。

それは、欠点や悪いものを探すことではなく、自分がなぜそう思い、 何が引っかかっているのか、どうしたいのかを知っていくことです。 そしてその為には、深く自分だけに耳を澄ませ、自分の内なる声の方向に、 雑音を振り払い聞きに行くのです。

自分の準備が整っていれば、それぞれの期間を要して、微妙であるが 大いなる意味のある境地を体感できます。 諦めないで下さい。 そして先ず、自分を知ろうと決意されてください。

カウンセリングで見えてくるもの

お客さん達と話していていつも思うのは、皆さんの話や訴えにはとても筋が通っているということです。 なんだけど、それについて長いこと確信が持てず、その為に、 自分以外の他者の眼を自発的に気にしてきたように思うのです。 筋というのは、話に誤魔化しがなく道理にあっていること。

しかし世間の次元では、筋よりもタテマエや空気の読み合いが重んじられ、自分の筋など入り込める隙はなく、不可思議で胡散臭い大人の世界に立ち尽くすのみになってしまうのです。 しかし順序よく混乱を解き、自己否定と思い込みを外して紐解いていくと、筋の通った言い分が残る。 そして、自分が引っ掛かかっていたものが解れば解るほど、そこに見えてくる自分の根本的な悩みの原因が、『世間は自分が納得できるほど筋の通ったものではない』ということを 浮かび上がらせることとなる。

苦しみの原因は、その世間に自分が迎合しようとしてきたことであり、迎合できない自分は社会不適応者としてこの世界から弾かれてしまうのではないかという恐れです。 しかし実際は、迎合しようとすればするほどに出来ない自分を感じながら、自分を裁きつつも動けず苦しんでしまう。 そこには、揺るぎない意思を感じさせる自分の意地とも思える 生き様のようなものが見えます。 それは、親や大人や世の中の不合理・理不尽に対して、全力で挑んで打ち砕かれ、それでも止まない自分てヤツが、自分に対する尊厳を守り、自分の生き様を貫く為に時期を待っていたようにも感じさせられる。

いつもの繰り返しになりますが、人間は自分が納得するようにしか生きれないし、そうでしか落ち着けない。 そうでないとそれだけストレスがかかり、息苦しさや違和感を覚え、或いは何らかの身体的症状が現れたり鬱になったりする。 世間に適応しようとして病気になる。 しかしこれがまさしく人間らしい反応の証拠であり、自分が完璧な人間なんだということに驚愕させられる。

そして完璧な人間だからこそ、恨んだり憎んだり、イラついたり悲しんだりする。 勿論、笑い、喜び、楽しむ。そして執着する。 そうすることによって、自分が自分の気持ちを十分に感じ切ることで、自分が昇華納得しやすくなる。 だから感情とは、自分が自分の為に、それを噛み砕き理解していくのにとても重要で必要不可欠なものなんだ。 例えば、憎い相手を許したければ、その前に徹底的に憎まなければ許せない。 笑って許せるのは、余程どうでもいいことか、相手を蔑んで見下すこと、もしくは自分を裁いて保っているに過ぎない。 自分の為に憎むということが大切。 だからといって復讐は別の話。

ところで、自分以外の他者の眼、つまり人の眼が気になるというのは、比較・判断することで自分の言動を鑑み、選択材料としている。 ということは相手によって自分の言動が変わるということにもなるが、それは人を気にしているようでいて、自分にとても関心があるということ。 が、自分に関心があるイコール自分に自信があるという訳ではない。 他人に興味関心があるのではなく、自分に関心があるが故に 他人を気にしているのです。 カウンセリングでは、今まで気になっていたもの全てを、ひたすら忠実に知っていきます。 自分の納得できるものは、ただ真実でしかないのですから。

自分を見つめるということ

カウンセリングの姿勢として、先ずは自分を知ろうとすることが先決なんですが、 その為に、なぜ自分を見つめるのか自分の内へ向いていけばいいのかというと、 そうしていくことで自分の視点を見つけられ、 その視点を意識することで自分主体に納得して生きられるようになるからです。

多くの場合、お客さんたちは、今の状態や症状を、普通じゃない、 ダメなこととして認識しているので、治そう、克服しよう、上げようとします。 例えば、今まで上を目指し頑張ってきたり、他人に気遣い、相手を優先させてきたり、 善行を身につけようと努力してきた人は、上手くやれないとき、自分を情けないと 思ったり責めてしまいます。 しかし、自分を責め、更に頑張ろうとしても同じ繰り返しとなるのは、 自分以外に自分を合わせようとするので、どこまで行ってもダメな自分が目に付くし、 自分責めがまとわりつき、自分がブレまくる。

つまり、行動の視点が自分以外にあるので、何をやっても落ち着かず、 いつも不安になるのです。 自分を見つめる過程では、どうして外に合わせてきたのかや、 自分に何が起こっていて、何を感じていたのかなどを慎重に探っていくのです。

当然今までの人生を振り返ることになりますし、それなりの時間はかかります。 過酷な体験や境遇の中では、自分の視点を押し殺さざるを得なかったでしょう。 しかし、その中でも自分の視点は息づいています。 どうぞその視点を取り戻し、自分中心の人生を送られてください。

自分見つめに勇気は要らない

自分を見つめていくのに、本来、勇気は必要ではありません。 ただただ素直にシンプルに自分の心の奥底に入って行き、 自分がどう考え、どう感じ、どう見てきたかなどを確認し、 自分てヤツを正確に知っていく作業です。 それは、自分を変えたり評価するものではないので、頑張る必要も努力も要らないのですが、だから逆に、頑張ってこられた方、評価に敏感に対応されてこられた方は、自分を見つめ始めた時点では、恐怖や不安が伴うことがよくあります。

こういうことです。 例えば、みんなと仲良くしなさい、と教わった人は、その教え通り誰とでも仲良くしようと試みるのですが、時には自分と意見が違う人や、自分と嗜好の違う人にも出会います。 このとき親などから、仲良く出来ない人は誰からも相手にされなくなるとか、善い大人になれないなどといった薄っぺらいが最高に効き目のある呪文を振りかけられると、素直な人ほど信じこみ、その呪縛の虜となってしまい、自分が相手に合わせる事で仲を保つようになります。

しかし、相手にイラついたりムカついたり憎んだり嫌ってしまう感情は繰り返され、その度に自分を処罰し自分を変えようとします。 自分の反応を出して嫌われたくないのと、ヤなヤツになりたくないので自分を修正し頑張ります。 何より人と関わりたいのですから。 しかしながら、自分を見張って抑えても、その奥から出てくる反応に苦しみ、そういう自分を知る自分は、自分を責め、卑下し、嫌って憎んでいきます。

人は、やきもちや嫉妬、コントロールや攻撃性など、多かれ少なかれ持っています。 自分を見つめなおしてみるということは、それに改めて裁きを加えようというのではないのにもかかわらず、自分が自分を醜く汚いと思っているので、振り返るのは怖くて堪らない。 自分を見つめようとすると、先ずはそういう自己否定している自分、自己否定の壁が立ちはだかっていることに気づかされるのです。

自己否定の壁は、自分を裁き否定する事で、自分の反応を押さえつけ、奥で感じている自分を隠す目的の城壁であり、その壁が厚くて強く自分を否定できるほど、反応してしまう自分を抑えられるのです。 例えば、自分が相手から利用されているのではないかと疑っても、その猜疑心を裁き抑える事で、一生懸命にやれる。 或いは興味の湧かない作業でも、自分の怠け根性がいけないのだと処罰すれば、自分の気持ちを感じずに作業が遂行できますからね。

おわかりでしょうか。 自分を裁きさえすれば、その関係が維持できる。 自分を否定して押さえつけてまでも、関わりたい、そこにいたいと感じている。 その必要性を選択されています。 その壁は訳あって、必然的に作られたもの。 ムリに取り壊そうとしても、勇気を振り絞っても対峙できません。

自分を見つめるということは、自己否定の奥に入り、真意を探っていく作業です。 どう関わりたかったのか、何を訴えたかったのか、伝えたかったのか・・。 自分を見つめるということは難しいことではありません。 自分見つめの目的は、自分の今までの言動に対して、 『・・だから私はこうしてきたんだ・・!』と心底納得できる事。 納得は真実を知ることでしか得られません。 他人に認められる生き方ではなく、 自分が心から納得できる生き方をしたいと思いはじめて、自分がそうしたくなって初めて出来るものです。 そう、先ずは、 もうしんどい! ありのまま生きたい!  そう感じて下さい。

吐き出すこと、感じなおすこと

過去を思い出して、あぁ悲しかった、ひどいな、寂しい、許せないなどの 感情に気づいてくると、当然それを出したくなります。 その気持ち・感情を、どんどん出していくのが吐き出しです。

例えば、親に我慢されてこられた方は、その抑えていた感情があるでしょう。 あの時はこうだった、こう感じていたのだけれど解ってもらえなかった、 これが嫌だった、苦しかったなど、 その時にはよく解らなかったことや、我慢していた事、伝わらなかった悲しみなど 押さえ込んでいた感情を、改めて出すことが吐き出し。

感じていたことを、ただ、素直に自然に任せ出すということです。 これをやっていくと、溜まっていたものが出るのですっきりしますし、 楽になっていきます。 これは、お1人でも、誰かに聞いてもらってもできることです。

一方、感じなおすというのは、引っかかりやその時の気持ち、 その時の自分の感覚をもう一度振り返り再度感じてみることで、 これをやっていくと、その時の自分のまんまの感覚が カチっとはまる瞬間に出会うことができます。 当時の自分が、奥底の琴線に触れているときと同じ感覚、 まさしくその瞬間と繋がる感覚に辿りつくことができます。

あぁ…こういうことだったんだ…と感じられ、ようやく揺れていた感情というか、 済んでいない思いが止みはじめます。 解らなかった自分が、まさに、ずっと自分は居た、 自分でよかったんだ!そんな、大事な、意味のある境地に辿りつきます。

感じなおすということは、境地を味わう、体感することなので、お伝えしにくいのですが、 例えば、肉じゃがを食べた時に、「あっ、これだ!」と、昔のお母さんの味がよみがえり、 その当時の気持ちとどんぴしゃな感覚、懐かしさにたどり着く、 当時の空気まで思い出す、そういう感覚に似ています。 ずっと探していたものに巡り合えた、そんな感じです。

不思議ですよ。人間、その境地の体感で過去が終り、 今に生きている自分を感じられるのです。 吐き出しも感じなおしも、過去を過去にするために必要な、 大事な意味のある作業です。 お試しあれ!

主体性の回復とおまけ

お客さんの中には、霊感のような特殊能力の持ち主が結構いる。 ところが、意図せず振り回され恐怖や不安に振り回されていた方でも、 カウンセリングが進むにつれ自分中心の主体的な行動へと変化していくと、 その能力が薄れていくことが多くみられる。

中には自分仕様に、その能力を使い出す方もいるけれど、 霊に対して、自ら断れたり主張したりできることで、霊が離れていったり、 放っておけるようになっていかれるようだ。 つまり、主体性が回復されると、自分の意思で行動することに 不安や罪悪を感じにくくなるので、好まないものには振り回されなくなるのです。

また、お客さんの中には、詩や絵画や音楽など アーチスト系資質に長けている方も多くいる。しかし、落ち込んだり深みに嵌っているときに作られていた作品などは、 時に、カウンセリングが進行していく中で、書けなくなったり作れなくなることもある。

主体性が回復され、自分が深く煮詰まらなくなるので、その代償に出来ていたものはなくなり、芸風や作風が変化していく。

自分中心の世界観で世の中が回り、自分の歯車が大きく回りだす。能力の有無や善し悪しはともかく、一人の人間として特別な一人になる。

アタマとココロの会話

通常カウンセリングの原則は受容と共感だと言われる。 そりゃ最もなことです。 だけど、「それが気になってるんだね、心配だね」と受容し 不安を受け止めたところで何も変わりはしない。カウンセリングは、『本当のことを明らかにしていく』作業です。

ですから、不安や恐怖をただ事実として、その中に自分が入れるかどうか。 どん詰まりから逃げることをやめ、自分の前に立てるかどうか。 不利なことを否認したり、自分自身をも誤魔化してきた段階から過ぎて、言ってみれば、自分から逃げられないと気づきはじめることが第一歩です。

例えば、親や恋人に対して、「自分は愛されているのか?」という疑念から逃れるためには、「自分が悪いから辛い目に合わされる」と思い込むようになる。 相手の本心から目をそむけ自分さえ変われば、もっと自分を愛してくれると思い込む。 しかし、「親(彼)も苦しいんだ」「自分のためにしてるんだ」くらいな誤魔化しは出来ても、根本的な「自分は愛されているのか?」の不安は消えず、渇望が見捨てられ不安となってしまう。

こういう積み重ねで疑念を無意識に追いやり、「本当のことは聞かない」という認知パターンを作り上げ、自分を押し込めてしまう。 相手の態度や表情などの不確かな情報を推し量り、相手の喜びに貢献し、そこに自分を重ね、究極のファンタジーを作り上げる。 親が自分自身に手一杯で子供に関心などなく、感情のはけ口や八つ当たりをしていることを受け入れられる筈はないですからね。

相手から必要とされることの必要性の獲得に必死になるも、本当に欲しいものはそこにないから、埋まる筈はありません。 こうして誰に対しても同じようなパターンで対応することになります。 事実を知っていくには、当時の事実関係を現在の自分のアタマで整理しなおすことで、解っていきやすい。 自分が悪いんだという「思い込み」と、「自分の問題と人の問題の区別」がつくと、当時の場面場面での認知のズレに気づかされ、事実とそれに付随する気持ちが湧き上がってくる。

事実を理解し、その時々の感情を吐き出しながら認知を正す。と同時に事実に対しての感情なり感覚をはめていくことで納得しやすい。 愛されることを、必要とされることにすり替え、その為に行動する。 そして、必要とされたくてやっていた自分の行動が、実は、相手こそ必要とされたくて自分に仕掛けられていたということが、ようやく理解できるようになる。

人は人に必要とされたいし、誰かの必要でありたい。それは何にも悪くない、 しかしこの場合、自分の必要性の為に「利用」し、相手からも「利用」されていることに気づいていない。そこに問題が生じる。 このような、愛されているのか?という疑念でなくとも、親の価値観の押し付けや刷り込みが日常無意識的に行なわれると、自分の認知や言動に自信をなくし息苦しくなることはある。

この辺りまでの流れは、今までも書いていることですし、書籍やAC(アダルトチルドレン)を使って当てはめても、解りやすいのではないかと思う。 アタマで認知を正しく理解することで客観的に捉えられ、事実は事実ということと、私は私ということが納得しやすくなります。 もしカウンセリングを受けるなら、少なくとも、しっかりとした傾聴と正確な説明の出来るカウンセラーの基でなさって下さい。

ただ、これ、字面で書くような生易しいものではありませんが、 それらをきちんと理解していく毎に、当時の気持ちが溢れ出し、その奥にある原点に触れてきます。 そうしていよいよ、それを大事にそして毅然と扱っていく。 すると、準備が整うごとに、奥に控えていた自分が、いよいよ顔を出し始めます。 事情が解ってくると、疑問も新たに出てくる。 「なぜ自分は、そのような選択をしたのだろうか?」 「自分の目的と理由はなにか?」 「自分を見張り、抑え続けてまで、隠したかったもの、守りたかったものは何か?」 ここからがカウンセリングの心髄。 自分の奥に住むヤツとの対話です。

いよいよ自分と向き合う段階では、自分の感覚が一切の主導権を握り、アタマの会話よりココロの会話へと重点が移っていきます。 なにも自分だって、やすやすと親や誰かの言うとおりにしたかった訳じゃなく、そこでは相当な怒りやら強烈な嫉妬や憎悪が渦巻いていたり、意地や欲もある。 思い出したくもないイヤ~な感覚をも体感していく訳ですから、アタマを使っているうちはおっかなくて出来ない。 生の反応に批判のないことが、安心して感覚に委ねることを許していきます。

1つの気持ちの意味が解って、ほっとして、しみじみ感じなおして、もう一度納得して、愛おしさと安堵の繰り返し。 封鎖し続けた原点に辿りつくまで、生きてる自分が、まさにここにいると確信するまで。 人間、子供であろうと、その時の自分がその状況下でちゃんと決断してきています。自分の判断をしています。 仕方なくではなく、自分の為の意味・理由によって、行動を選択しています。 自分が自分を知るということは、自分の中に潜む自分の本質に触れ、深く理解し納得し、自分が自分とともにいるということだけで安心して生きれることです。

心の回復とは

「治療」に何を求めるか?カウンセラーにできるのは、「自分で回復或いは脱却したい」人への アプローチでしかない。なので、「カウンセラーが治してくれる」と思っているうちは何も変わらない。「自分に合った治療」を求めることは凄くいいことだが、ただ受け身でいるうちは 内面からの手応えや変化は起きにくい。また、親に当り散らすのは一向に構わないのですが、「親のせい」にしているうちは、これまた、なにも見えてこない。それを自分で自覚し始めなければ回復も脱却もできません。

どの症状にせよ、カウンセラーに相談に乗ってもらう時期というのは、「自分の問題」だという認識を持ち始めたとき。酷な言い方ですが、そういう自覚がなければ何も気付くことはできないでしょう。

理解とは腑に落とすことです

理解するということは、腑に落とすということです。 心や気持ちを理解するには尚更です。どの会話も、自分がしっくりこない腑に落ちないことは納得できません。 会社で、上司の命令に心から頷けないと遂行しがたく、 不満、不全感は付随するでしょう。自分がいつも不安だったり何かに怯えていたとして、 それを人からどう説得どう慰められても、自分が心からそうだよなと感じられなければ、 不安は解消されません。 自分が気になっていることを気のせいだと言われても、 消えることはありません。

解り易い例を挙げてみます。心療内科で、鬱と診断され投薬されたとする。 鬱は、心や気持ちの苦しさが溢れ出し、身体的症状として表れているものですが、投薬で身体的症状が落ち着くことはある。 しかし、医者から鬱という病気の説明をされ鬱の理解ができても、 肝心の心や気持ちに対して、どこがどういう風になってしまったか、 その人にあわせた説明がなかったり、ピンとくるような腑に落ちる感覚を味わえなければ落ち着いてこない。

いつまでたっても、もやもや感が消えず根本解決には至れない。 症状というものは、惹き起こしたきっかけやそれまでの人生をじっくり振り返り、 あくまでも自分にとって心から腑に落ち、心から納得して初めて消えるものです。 不自然さがなくなり、自然に流れると必要なくなるので、消えてくるということです。 だから鬱を辿るには、しっくりしない感じや、もやもや、または恐怖感とか 漠然とした不安感などが大切な目安なんです。

鬱でなくても、身体症状がなくても、 しっくりこない事しっくりこない会話の場合も、同じことです。 どうしても腑に落ちないこと、疑いもなく信じているようでも、 なんとな~くしっくりこない感じを抱いているならその感覚が本物です。 自分を責めるどころか、その感覚でいいのですよ。

だから、いつまでも何かがピンとこなければ、何かがポンと入ってこなければ、 それは立ち止まった方がいい。 気になることのその奥に、自分の主張があります。 自分が自分のこととして、しっくりと腑に落ちる方向は必ずあります。 きちんと納得できる方向があります。

心の底から、体の中から、「ん?」と反応したり、「うん、そうそう」と頷ける、 そういうサインが出る方向が、理解への道。 自分を理解するのには、思考的理解より感覚的理解が重要です。 そう、考えるより感じろ! だから、自分が腑に落ちるのって、誰でもができうることなんですよ。