育児

「躾ける」とは

躾けは、お躾け(押し付け)になってはいけない。 「躾け」とは、マザーアースのホームページの冒頭のあいさつ文にもありますが、「安心感の伝授」そのものだと思う。 それに必要なのは、躾をする親に安心感があることが基本であり、伝えるものは、「美味しい」「楽しい」「嬉しい」「心地よい」「気持ちよい」というような、「いい気持ち」です。

例えば、美味しく料理を作ることを躾けようとしたとき、そこに、料理の訓練はいりません。ただ心のこもった美味しい料理を食べさすだけでいい。 挨拶などの礼儀作法を躾けたければ、親自らが、気持ちのよい挨拶をしてあげたり、自然な立ち居振る舞いで、子供に接すればいい。 そうすれば、子供にその気持ちが伝わり、子供は自然と見習う。

母親の料理が美味しかったなあと思えてた子供が大きくなれば、料理を教えずとも、美味しかった料理を誰かに食べさせたいと思え、作ろうとするだろうし、掃除や行き届いた洗濯物を身につけ、気持ちよさを味わえていた子供は、自然に見習うだろう。

そこに、お躾け(押し付け)はない。 いい気持ちを貰えるということは、自ずと安らぎ安心感が育てられる。尊重され大事にされているということが自分に自信を生む。 そうして初めて、人に対して「礼」を尽くせる。礼とは、相手への尊重や敬意の気持ちのこと。 自分がして貰えたから、相手へも自然にしてあげたくなる。無理なく浸透していった結果。 これが躾の成果。

またそこに、少々の大雑把さがあったっていい、大事なのはやはり気持ちなんじゃないですかね。 安心感のある子供は、誰をも傷つけない。自分が自分でいられることに安心できているのだから、闇雲に争ったり、他人のものを奪おうとしたり騙そうとしない。 だって、自分でいることに満たされているからね。欲しければ自分の力でなんとかするだろうよ。

子育ては親の意識の反映に過ぎない

自分の子供が、細くて色白でおとなしかったとする。 親の意識の中に、「いじめられないようにしなくっちゃ」という思いがあったとすると、 子供に対して、「強くなれ、へこたれるな」と、厳しく育てるだろう。 もし、いじめられたら、「あぁ、やっぱり・・」という気持ちになりやすい。

親側に、「やられても仕方がない」という意識があると、子供を卑下し、 その意識が子供に影響を与えることになる。 親側に、「こうあるべき」の優劣意識が強いと、その意識を子供に植え付けてしまう。 つまり子供は、自己否定感や自分卑下を生み、おどおど、ビクビクしてしまう。

もしそれがいじめられるという構図になれば、いじめられる自分が悪いとさえ思ってしまう。 その頃親は、子供を努力不足と責めたり、逆に自分の育て方に嘆いたりする。 ああ、全ては親の意識の通り、なるようになっただけなのにね。

親子のコミュニケーション

コミュニケーションには2つあります。 いつ・どこで・だれが・どうしたという事象に対して、社会道徳的な ものの見方から善し・悪しを評価し合い、安心したり優越感を味わったり、卑下するか、励まし頑張ろうと勇気づけ合う会話。

この場合、必然的に、上に向かうことや頑張っている姿を善し、下がったり現状維持では怠け者、劣るという認識となります。

もう1つは、その事象に対して、お互いどう感じ、どう思い、どう考えるのか等の自分の主観を自由に語り合う対話です。この場合、お互いに『聴く』姿勢があること、そして評価がないことが話せる前提となります。

前者の会話が多い家庭は、殆ど、親側に、社会的評価を基準とする価値観があります。評価の気持ちが入ると子供の会話は自動的に少なくなります。当然です。後者の会話で基本的にダメなものはありませんので、感じるまま表現できます。楽ですし、むちゃくちゃ楽しいと感じられますので、会話が弾みます。

どちらが善いとか悪いとかではありません。今どういうコミュニケーションをしているかに気づくと、それなりの関係が納得できるということです。今の状態が確認されると、今からするコミュニケーションが自己選択できるということです。

「決して見捨てない」ことと「わがままは許さない」こと

躾けにも通じることだが、カウンセリングのお客さんたちに対して、家族や私のようなサポーター、その立場の人の取るべき態度とは、 「決して見捨てない」 ことと、 「わがままは許さない」 ことだ。

しかも、それが 「証明もされない代わりに見捨てられもしない」と分かるまで徹底的に、だ。 それは根気もいれば覚悟もいる。 だから、どちらかが本気でなくなったら、それは成立しなくなる。

「教える」ということ

お客さんとこんな話になった。 小学校3年の時、体育の水泳の授業で、その先生はプールサイドから 泳げない私の頭を水中に押しつけた。 私は水が更に怖くなった。 小学校4年の時の先生は、プールに入り、私の手を引きながら ゆっくりと、リラックスするよう言われた。 私はその時間内に泳げるようになった。 この違い、お分かりでしょう。

水の中で目を開けたり浮いたりするのが、怖くないと解るのは 自分の体験・経験値でしかない。 つまり自分が、「怖くない」「平気だ」と体験できなければダメだということ。 でも、怖がっている人にそれを教えるのは大変。 ならどうするか?

もし、怖いけどその人がいてくれれば安心 という、信頼関係みたいなのがあったら、 この人が言うんだから大丈夫かも、とか、 この人なら、もしもの時は助けてくれるだろう と思えるだろう。 物事の習得や、怖くないと解っていくには、 体験そのものに対して恐怖感を減らそうとするのではなく、 「側にいてくれる」 という安心感を与えることが、 人を未知なる体験へと進ませるコツなのです。

「母性」とは

母性って何? 母性とは、子供の気持ちをいじらないで見守れること。 聖母マリアとかマザーテレサとか、 なんか、自分が我慢し子供を受け入れ包み込む なんていうイメージがあるから、 そういう母親にならなくちゃ、 そう振舞わなくちゃと思うだろうけど、 母親だろうが自分を大事に生きていい。 自分が楽しむために、喜ぶために生きていい。

そういう姿勢を子供に包み隠さず見せるだけで、 それを子供に伝えるだけで、 子供は、自分も自分中心に生きていいんだ、 楽しんでいいんだ、となれる。 母親は、そういう子供を容認するだけでいいんだ。 日頃から我慢をしている母親では、 いざという時に子供を守れない。 日頃から無理をしている母親に、 子供を守り切れる訳はない。

動物の母親が、狩りをする姿を子供に見せるだけで、 そしてその獲物を分け与えるだけで、 それが立派な母性となり、 子供が、動物としての本能を自覚していける。 母親が本能をシンプルにさらけ出せれば、 子供は自分の本能に従って生きればいいんだと自覚でき、促される。人間も、母親が自分の人生を生きる姿を、 子供に包み隠さず見せるだけでいいのです。

褒めて伸ばす?認めて高める?

褒めて伸ばすなどと、褒めることを伸ばすための道具に使うのはやめてください。単に褒めてください。認めてください。好きなら勝手に伸びていきます。至極当然の成り行きです。

褒められることを道具に使うと、褒められる為に、愛されたい為に頑張るようになります。 周りの目が気になります。常に頑張ることを強いられます。そうしなければ愛さない のメッセージを感じるからです。

だれもみな、ただ、そのままありのままの姿を認めてほしいのですよ。

おだて過ぎはコンプレックスのもと

おだてられると嬉しい。それが嘘だと分かっていても、「オレも捨てたもんじゃない」「私、いけるかも」「天才じゃん!」と、ポジティブ思考が膨らむのは結構なこと。やる気になって、それで結果に繋がるならなおさらいいね。

でも、おだてられその気になる魔法をかけられ、本当は登ってもいない木に登ったつもりでいると、大人になっていくにつれ何故だかなんとなく自信がついてこない。魔法だもの、溶けてしまう前にちゃんと真実を明かすか、本当にそうならないと、あとあと大変なことになりかねない。

しだいに、高いプライドの裏側にあるコンプレックスも膨らみ、この社会における人間関係がうまくいかない状況をつくることになるのです。なんせ、努力・我慢してる人らを横目で見ながら、自分は人より優れていると本気で思ってきたのだから、しだいにプライドは空高く上り自己陶酔。他人を見下し自分の世界の中で酔う、その姿は裸の王様。

高いプライドの裏側にあるコンプレックスも膨らみ、この社会における人間関係がうまくいかない状況をつくることになるのです。親のせいだと恨んでみても、親だって子ども可愛さから、褒めたら伸びるだろうと安易ながらも可愛がったのかも知れない。誰だっておだてられりゃその気になる。子どもなら特に、そういうもんだと疑わない。

でもその「ほめ」がただの「おだて」だったらどうだろう。その積み重ねは、本来の「自尊心」を育てず「傲慢」を作る。ちゃんと育てるには安易におだててはいけない。事実と共にその子に寄り添い、励まし見守る。子育てに近道はない。

「おだてる」ことと「ほめる」こと

「おだてること」と「褒めること」は違う。知ってますって?そうですよね。「おだてる」ことってのは、よく、ホステスさんやホストさんがお客さんにする、あれね。
おだてられる方は、知ってても知らなくてもいい気分。だからついつい嬉しくなって楽しくなってお酒飲み過ぎちゃって、お金使いすぎちゃう。そうね、相手の思う壺ね。

おだてられる自分と相手との認識にズレがあって相手にコントロールされてる感じ。会社の上司やお得意先に対してもするかも。関係がやりやすくなるのが目当てなんですかね。これを親が子供にし続けたらどうなるか。褒めることと勘違いしてる場合が多く、ほら、「褒めて伸ばす」っていう、あれもそうじゃないんですか?

よくある親のパターン
・忙しい親
・親ばか

そして、安易に褒めて伸ばそうとする
・バカ親

あなたもお子さんを安易におだててやしませんか?せめて、おだてるのは旦那さんだけにしてくださいよ。さて、おだてられ育てられた子どもはどうなるか…?

子供も腸も別人格…ご尊重願います!

腸は第二の脳と言われる。腸には意思があるとね。

例えば、緊張したり、その日、大事な会議や試験のある朝など、下痢してしまう経験はおありでしょう。旅先で便秘になったことはおありでしょう。腸は精神状態と密接な関係があり、自分の頭が思っている以上に、敏感で繊細・デリケートに反応します。

それを無視して酷使し続ければ、ハレーションを起こすのは当たり前。大丈夫だと過信して、脳の喜びに付き合わされ続ければパンクする。だけどもイライラやストレスで暴飲暴食・過食に走ってしまうこともある。

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わかっていても止められない。そこには第一の脳の快感が優先され、腸の調子など気にしていられず、腸の意志尊重など論外となってしまうのです。しかし、自分のものであっても、腸を労わり腸の気持ちになって扱わないと、とんでもないことになるのですよ。

そうです、脳の満足が最優先のとき、その影で支える腸を無視し続ければ、腸はハレーションを起こしパンクします。腸に意志があるのなら、その意志はあなたの心です。その心を蔑(ないがし)ろにし続けるのなら、その脳の選択は決して正しいとは言えません。だってその両方ともがあなた自身なのですから。

子供もおんなじ。我が子であっても所有物ではない。親子だからと言って、親と同じ筈はなく、ちゃんと自分の意思があり、その意思のもと行動しています。いや、したいんです。

しかし早いうちから尊重されなければ、以後、ずっとハレーションを起こし続けるか、機能が全く停止してしまう。躾だ・お前の為だと言われても、それが親のエゴである限り子供の意思は尊重されず。そうなりゃ当然、親と共存などできはしないですね。当たり前のことです。

さて、腸には乳酸菌がいいとか。今は腸に長く留まってくれる乳酸菌の入ったヨーグルトもあり、私も愛用してるのですが、その人によって相性もあるとか?それほど腸は意思が強いのでしょうかね。

乳酸菌は腸内に、ビフィズス菌などというような善玉菌をとても増やしてくれ、乳酸菌から生じて発生する乳酸が悪玉菌の増殖を抑えてくれるのだとか…つまり、善玉と悪玉の菌同士が戦うってことだね。ということは、親の押し付けによって言いなりになってしまった子供に菌はなく、外敵やストレスと戦う力はないですよね…そりゃあ困った、一体どうすりゃいいの?

親が子に乳酸菌を投入するということ、それは、子供を、自分と別人格だと理解し、その子の意思での経験を積ませること、そしてそれを見守れることとでもいいましょうか。

見守るとは、なにも手出しせずに見ているだけということではなく、

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1、興味をもって

2、でも親の言いたいことは発言し

3、決断は子供に任せる

以上。

「みんな仲良く」の落とし穴

以前、ある母親がこんなことを言っていた。 自分の子供A子ちゃんがB子ちゃんと遊ぶ約束をしていた。 ところがそのあとC子ちゃんからも遊びの誘いを受け、C子ちゃんと遊ぶことも了承、 その後A子ちゃんの家に、B子ちゃん、C子ちゃんが遊びに来た。 そこで問題が生じた。 B子ちゃんはC子ちゃんを仲間に入れようとせず、C子ちゃんを泣かしてしまった。

A子ちゃんは二人の仲裁に入りみんなで遊ぼうとするが上手く行かない。 お母さん曰く、A子ちゃんはいつも損な役回りばかりだという。 いつも巻き込まれてしまう のだそう… そのお母さんは子供に、いつも「みんなで」「仲良く」遊ぶことをしつけているという。 … … 聞けば、A子ちゃんはC子ちゃんに誘われたときに、B子ちゃんと先約があること、 そしてB子ちゃんに、C子ちゃんとも遊ぶことの承諾を得ていないのだという。

それではその原因は、勝手な約束をしたA子ちゃんにある。 みんな仲良くの前に、「約束は守ろう」 だし、 その前に、「自分はどうしたいか、誰と遊びたいか」 意思表示すること、 そしてその前に、「自分の意思を持てること」 が大事。 自分の意思を持てるということは、この人と遊びたくないとかこの人は嫌いだと思うことも 容認できるということ。

すると、そういう相手とは必要以上に近づこうとしなくなる、距離を持とうとする。 それが、仲良くしたくない相手に対する誠実な態度です。 ちゃんと自分の意思を持ち、それを理解できたら周りに振り回されなくなる。 みんなで仲良しごっこが不必要となる。 そしたらそれが最大の 「みんな仲良し」。 誰もがそうできたら、戦争は減る。 世界は平和になるんですけどね。

「あんたの為」は聞き飽きた

「あんたの為」 は聞き飽きた。 「あんたの為」 を連発する人は、本当は誰の為に言ってるのか解っていない。 なぜなら、あんたの為と本気で思っているなら、そういう言葉は言わないから。

「あんたの為」 という言葉を連呼している人は、 「あんた」 を 「私」 に置き換えて言ってみてください。 「あんたの為」 と言われ続けている人は、 「あんた」 を、「あんたの為と言ってるその人(例えば母親とか上司とか)の為」  と置き替えてから考えてください。

そうしたら、すごく解りやすくなります。 そうしたら、言っている人も、言われている人も、行動しやすくなるでしょう。

偽善人

やたらに人を褒めたり、何にでも感謝したり、すぐに許したり、 そういう偽善がどれほど子供に悪影響を与えているかおわかりですか。

善人を、善行を善しとすればするほど、人間から外れていく。
もっと本気で、本音で話そうよ。

ラクになっていいんだよ。