人を馬鹿にしてはいけない。 誰もがそんなこと教わってきたけれど、 多くの人が、人と自分を比べながら、「ああはなりたくないものだ」とか「まだ自分の方がマシ」と感じることで保っている。 不安の払拭、安心したい気持ち、それが源。 しかし、その路線にいる限り自分の本当の個性は育たない。 「個性なんていらない」なら、まあそれもあり。 でも自分らしく生きたいなら、馬鹿にすること・されることの路線から外れることだ。

「無価値な自分」を装い、自己否定しながら皆の中に居られた過去、 自分も皆の数に入れられることが至上命令であった過去。 でも、人から馬鹿にされることほど人間の怒りを生むものはない。 その怒りの蓄積は相当なエネルギーとなり、恨みとして育つ。 そう、「うらみ」の殆どが、人から馬鹿にされた、或いは馬鹿にされたと思い込んだことから始まる。

「馬鹿にされたと思い込む」とは、その根本の部分に、本当に馬鹿にされた経験があり、その悔しさがトラウマやコンプレックスとなり、関係のない人にまで及んでいくことです。 人は、誰かからからかわれ続けると、大概、人にビクつくようになる。

人の生態反応としては正常な反応だ。中には逆に、表面的にその相手を、腕力や知力などの力で捻じ伏せてしまう人もいるが、馬鹿にされた怒りが消えることはない。 そして、訳あって馬鹿にされても平気を装えていた人たちは、そういう時代を通り過ぎると、無気力になる。これまた人の生態反応としては正常だろう。 何故なら、愚弄され続けて平気な人はいない、だからこそ自分の感情を押さえ込むことで適応しようとするのです。

この過程の中で、稀に殺人鬼が生まれることがあるが、これもまた、あってはならないことだが気持ちは理解できる。 「自分が馬鹿にされてきた」ことを認めるということは、「自分が誰よりも劣っている」ということではない。 ないけれど、何故馬鹿にされたのか、その理由をきちんと理解・納得できたとき、その怒りは流れる。 それを通り過ぎ、それまでの自分をきちんと認識しながら、 「やっぱり悔しい」という自分の尊厳の声を聞き取ること。 その声が聞こえ始めたならもう大丈夫! どこかで引っ込めた「悔しい」という気持ち。 それを取り戻せたとき、自分の人生が動き始める。