全ての人の人生、その人の過去の行動が、その人にとって妥当でなかったことなどない。 これは、カウンセリングを通して、自分の過去の行動が、いかにもそれしかなかったと腑に落ちだす度に感じさせられることです。 妥当性とは、概念や判断が客観的な事実や事象に正しく合致していること。 つまり、人の行動は、前提となる事実や事象が、その人の認知(どう見、どう考え、どう感じるか)に沿って正しく流れたに過ぎず、結論はその結末にすぎない、と言いたいのですが、 ここで大事なのは‘その人の認知に沿って’ということです。

例えば、『あの時あの瞬間、怖さが先にたってしまい、一目散に逃げてしまった』とする。 その状況を客観的に辿ってみる。 すると、『選択を迫られ下した決断に覚悟を突きつけられ、思わず躊躇し、逃げてしまった』 あるいは、『一番になりたくて誤魔化したけど、バレると思った瞬間、怖くて一目散に逃げてしまった』とする。 そこでのその行動は妥当以外の何者でもない。 その中での自分の気持ちに正しく流れた結末に過ぎませんからね。

また、人間はそれぞれ認知が違います。 ですから、その認知での感じ方・弾き方により、反応の仕方も違ってきます。 我関せずと物事に一喜一憂しない人と、些細な部分にまで気を取られ、いちいち気にしてしまう人。 もしもその二人がぶつかり合ったら、捉え方の違いから、行動は自ずと違ってきますが、どちらも、その人なりの妥当な行動となります。

我関せずの人は、相手の発言を気にすることなく自分のやりたいようにするかも知れない。 方や、細部に気を取られる人は、相手の発言に動揺し、やりたいように出来ないかも知れない。 でもそれは、ただ、その認知に沿って妥当に流れたというだけであり、その行動そのものには優劣も善悪もなく、次の布石としてそれをどう判断するのか、それもその人の妥当性に委ねられるのみです。

その行動、その状況下での自分の認知を辿ると、実はその認知こそがその人の過去からの妥当な見方、考え方、感じ方だということに気づかされます。 そしてその認知に善悪はありません。 評価とは、所詮、他人がするもの。 しかし、それを自分がしていたら苦しくてたまらない。 その行動に勝手に○×をつけたとして、そこに何の意味があるのでしょう。 人の行動は、その時のそれでしかない、妥当な選択がされただけのこと。

このように、自分のあの時を辿ると、見事にどれも妥当だったことがわかってくる。 あの瞬間の自分が下した選択が、もれなく的を得ていたことがわかってくる。 カウンセリングは、そういう自分の妥当性の確認ともいえるのです。