ある高校、集団喫煙で捕まった生徒達、お叱りコースの最後に反省文を書かされることになったのですが、1人の生徒が反省文を躊躇し、停学が延びていた。 規則を破ったことは反省しているものの、2度と破らないと約束できないのと、教師の、服従しない者を屈服させようとする態度に反抗した。 当然学校側は、問題ある生徒として停学を延ばした。

教師とは、今や、生徒の人間性を評価する権限を持ってしまっているのだろうか。 成績を評価するのはまだ解るけど、納得しがたいことを真剣に悩んでしまう生徒に対し、教師に素直で従順であれと強要する。 学校というところは、ひとりひとりが主張し合うのではなく、教師に合わせることで、集団の平和が保たれている。 そこで学ばれるものは、『どうしたら自分の‘不利’を免れることができるか』だ。

それをモノにできない人、それに意味を感じない人は、不条理にも危険分子として扱われることがある。 これが教育なんだろうかと思ってしまう。 教師の器量のなさが露呈してるにすぎないんじゃないの? と思ってしまうのですがね。

しかし、この教師の評価を、いとも簡単に真に受けてしまう親もいる。 子供の人間性を、多数派か特異か の基準で判断してしまう教師に委ねる親がいる。 ・・・っと、話を学校に戻して、 教師と生徒、この立場からの見方・感じ方、どちらが悪いと言いたいのではない。 個人的には、ヤナ学校ヤナ教師達とは思うけど、でもそれが学校。 規則を破れば処罰され、罰則に従えば解除され、それが、例え表面的な形でも通る世界。世間、社会の縮図。 それらを思い知らされ、その中で自分がどうするのかどうしたいのか、だけだろうと思うからだ。

生き方を突きつけられ、納得を探す、大きな意味あるチャンスに、どう向かいたいか試される一場面。 はいいろのけむりは、一体どこにあり、どう流れ、どうなっていくのか、自分の眼で確かめ、それを次の布石にすればいい。 戦う、或いは 篭ることで自分を貫くもよし、学校(世間)を見切り、内心で舌を出しながら流れに乗るもよし、孤高にそこにいるもよし、である。