自分を見つめていくのに、本来、勇気は必要ではありません。 ただただ素直にシンプルに自分の心の奥底に入って行き、 自分がどう考え、どう感じ、どう見てきたかなどを確認し、 自分てヤツを正確に知っていく作業です。 それは、自分を変えたり評価するものではないので、頑張る必要も努力も要らないのですが、だから逆に、頑張ってこられた方、評価に敏感に対応されてこられた方は、自分を見つめ始めた時点では、恐怖や不安が伴うことがよくあります。

こういうことです。 例えば、みんなと仲良くしなさい、と教わった人は、その教え通り誰とでも仲良くしようと試みるのですが、時には自分と意見が違う人や、自分と嗜好の違う人にも出会います。 このとき親などから、仲良く出来ない人は誰からも相手にされなくなるとか、善い大人になれないなどといった薄っぺらいが最高に効き目のある呪文を振りかけられると、素直な人ほど信じこみ、その呪縛の虜となってしまい、自分が相手に合わせる事で仲を保つようになります。

しかし、相手にイラついたりムカついたり憎んだり嫌ってしまう感情は繰り返され、その度に自分を処罰し自分を変えようとします。 自分の反応を出して嫌われたくないのと、ヤなヤツになりたくないので自分を修正し頑張ります。 何より人と関わりたいのですから。 しかしながら、自分を見張って抑えても、その奥から出てくる反応に苦しみ、そういう自分を知る自分は、自分を責め、卑下し、嫌って憎んでいきます。

人は、やきもちや嫉妬、コントロールや攻撃性など、多かれ少なかれ持っています。 自分を見つめなおしてみるということは、それに改めて裁きを加えようというのではないのにもかかわらず、自分が自分を醜く汚いと思っているので、振り返るのは怖くて堪らない。 自分を見つめようとすると、先ずはそういう自己否定している自分、自己否定の壁が立ちはだかっていることに気づかされるのです。

自己否定の壁は、自分を裁き否定する事で、自分の反応を押さえつけ、奥で感じている自分を隠す目的の城壁であり、その壁が厚くて強く自分を否定できるほど、反応してしまう自分を抑えられるのです。 例えば、自分が相手から利用されているのではないかと疑っても、その猜疑心を裁き抑える事で、一生懸命にやれる。 或いは興味の湧かない作業でも、自分の怠け根性がいけないのだと処罰すれば、自分の気持ちを感じずに作業が遂行できますからね。

おわかりでしょうか。 自分を裁きさえすれば、その関係が維持できる。 自分を否定して押さえつけてまでも、関わりたい、そこにいたいと感じている。 その必要性を選択されています。 その壁は訳あって、必然的に作られたもの。 ムリに取り壊そうとしても、勇気を振り絞っても対峙できません。

自分を見つめるということは、自己否定の奥に入り、真意を探っていく作業です。 どう関わりたかったのか、何を訴えたかったのか、伝えたかったのか・・。 自分を見つめるということは難しいことではありません。 自分見つめの目的は、自分の今までの言動に対して、 『・・だから私はこうしてきたんだ・・!』と心底納得できる事。 納得は真実を知ることでしか得られません。 他人に認められる生き方ではなく、 自分が心から納得できる生き方をしたいと思いはじめて、自分がそうしたくなって初めて出来るものです。 そう、先ずは、 もうしんどい! ありのまま生きたい!  そう感じて下さい。