自己価値を感じられないことに悩んでいる人たちのほとんどに、自尊心などない。その多くは自分の自己価値を感じるため、世のため人のために尽くし、自分が必要とされ喜ばれることに終始する。本当に、自分の全ての言動と他者との関係がその為だけにあると言っても過言ではない。

それはその昔、自分の家庭環境・境遇の中で身につけた、唯一の適応方法だっただろう。親の間を取り持ち、最悪な状態にならないよう先回りし、愚痴を聞き落ち着かせ、更にはよいしょする。それを褒められこそすれ咎められる筋合いはどこにもない。だけども、その中で自分の安らぎ、まして価値と自信など身につかない。まあ、そんなことを考える暇もなく、必死に生きてきた、そのやり方しか知らないという言い方のほうが正しいのでしょうが。

こういう子供時代、客観的に見れば不遇なのですが、それでも家庭は家庭、一歩外に出れば、否応なく学校社会は待っている。すでに周りの子供たちにある、当たり前のように安心していられる家庭の中で育(はぐ)くまれた自我から生まれる自尊心を基に、同級生や先生と遊び学び成長していく道筋はできない。

家庭内でやっていた、大人の気分や状況をいち早く察し、それを回避したり取り持つことが上手でも、むしろそれは不必要。それより、自分の気持ちを大事にでき、考えや意見を言えること、そんなことは今までの家庭内の必要事項とは真逆であり、他のみんながすでに出来る、例えばスイミングやサッカーや、ごっこ遊びなど、子供らしく子供としての対等な関係にも付いていけず、不安とパニックはつきまとう。

結局、慣れそれしか知らない親にしてきたような、相手に先回りし、相手の気に入る言動をとることで、ただそこに居られることだけが最優先となる。けどだからといって、努力は人一倍、どうやったらみんなみたいにできるんだろうと頑張るんだけれど、そこは人に頼る甘えるお願いするということが怖いし、人への不信感があるのでいつだって独学。だからできる限界はやはり低い。

ふぅ~この流れ、こうなるのも無理じゃなく不思議でもなく当たり前ですよね。そうです、当たり前に作られてきたこの不自然で不可解な状態こそが『生きづらさ』。そして実際に人とどこが違うのかといえば、『自分の感情(心)と共にいられてない状態』ということであり、だからこそいわゆる健全な人には理解しがたいのです。

『自己価値』或いは『自尊心』。これらの言葉は日常的ではなく、また健全な人からすればその概念すらない。つまりそんなものは「当たり前にあるもの」であり、自分の感情が分からないとか、ないとか、それはもう会話不成立な話題。それゆえ更に自己否定とともに自己価値を求めて上記のような所作をしながら彷徨うのです。

自分の価値を感じたい…一言で言うなら、それには、自分の感情を取り戻すことです。そして、今の苦しみをなくしたいなら、今やっている、人に忠誠を尽くしてしまうようなことを辞めること。ですが、それができりゃ世話はなし。だって怖いもん。

けれどその為の道筋は、あります。始まりの一歩として、あなたの感情の中での「寂しさ」「悲しさ」についてはご存知ですか?理解がありますか?そして一番厄介ながらシンプルにあなたに触れられるものが「怒り」の感情です。臆せずあなたの感情を掘り起こしてみませんか?

感情探し、心探し、あなた探し、はじめませんか?