人間の真理は極々単純であり明快です。しかしながら、時にはほんの僅かなズレで、予測不可能なふるまいを見せることがあります。 しかしこの僅かなズレすら必然であり、背後に流れる真理は断じて変わらずに1つです。 何故言い切れるかというと、複雑極まりない人間心理の事実を正確に遡ることによって、誰もが確実に個人の真理に辿りついたとき、紛れもなく自分がここにいるという確信と自信を掴めるからです。

それは、人類や生物を遡ったり、地球創造を遡ったりすることと何ら変わらず、カオスの真理・原理と同じ仕掛け、カラクリのようでもあります。 おっと、冒頭から意味不明なことを書いてしまいましたが、何が言いたいのかと言えば、この世にいる人間として自分の真理は掴める、自分のことで説明できないことは何一つない、ということです。 その羅針盤は自分の感覚、‘気’ですが、それを辿ることは、やはり容易いことではないようです。

さて、カウンセリングに置き換えて書いてみます。 カウンセリングの目的は、いつでも感情を出せるようになることや自己主張を目指すものではありません。 ‘自分がここにいる’感覚といいますか、自分でいることに安心感が持てると、結果として自然に自由に振舞えるようになり、言いたければ言うし、感情も出したければ表現されるだけなのです。

また、物事が気にならなくなる訳でもありません。気にする自分でいられ、気になる自分を放っておけ、結局、そういう自分の‘気’を大事にし始めるので‘気’に振り回されなくなるのです。 過去を振り返っていった時、怒りたいときに怒れず泣きたいときに泣けず、言いたいことを我慢してきたことに気づいたとします。 親などに対して、あの時もこの時も、あぁそうだったそうだったと憤りが溢れてきたとして、それを改めてぶつけるのは構わないのですが、感情や思いを吐き出し切ったところで、不全感や生き辛さが全て解消されるものでもありません。

感情表現や自己主張できることを目指そうとするとかったるいのは、なぜ感情を出さなかったのか、反抗しなかったのか断らなかったのかなど、自分側の訳を腑に落とさなければ、納得できず行き詰まるからです。 劣等感を持つようになった前の自分が、決意に至った理由です。 ですから、自己を否定したり責め続けても、堂々巡りの迷路を彷徨うばかりです。

例えば、『どうして自分は皆のように出来ないのか?』と自分にダメ出しと努力の繰り返しをされてこられた方、本当に自分が間違っていると思っているなら、当の昔に変化できてますからね。 それでも見えてこないのは、皆のようになること自体に納得していない、何か大事な引っ掛かりがあるからです。 その何かの為に自分が今まで苦労?してきたなら、その正体を掴むことが先決。 となると、当然、過去の自分検証が必要となります。

繰り返しますが、言えなかった・言わなかったのには訳がある。 感情を抑えたのには理由がある。それを辿るアンテナは、自分がいつも振り回されていた‘自分の気’です。 ‘何となくこんな気がしてた’という感覚です。 人間が自分を抑えてまで選んだ行動には、必ずその行動を選ぶに至った決意・決断があります。その人の主義・主張・意地が存在します。 そこで生きていたというか、息づいていた自分そのものの感覚に触れていかなければ解明されません。

それが解けて、初めて自分と共にいる感覚とでもいいましょうか、絶対的安心感を得られます。 段階を踏み、辿りついて初めて自分が確認でき、やっと納得でき、自己が一致されます。自分が一致し始めると、言動が自分に委ねられるようになります。 聖人君子でもなければ、天使・悪魔でもない人間、個性ある自分としての日常が動き始めます。

解決は、怒りを出せるようになることではありません。 怒りを理解することであり、怒りを封じ込めるに至った自分が、その当時どう生きていたのかを確認することです。

今、吐き出しをしているのだけれど、一向に楽にならないどころか、苦しくなっているとしたら、立ち止まり、先ず自分の位置確認をしてください。 やらされている感覚や、目標に沿った行動ありきでは、自分は掴めません。 今の自分が過去の自分を癒すだとか、解放とか、理論や言葉の理解ではなく、体感することによってはじめて、自分に触れた実感、辿りついた心地よさが生まれてくるのです。

自分が自分と共にいる実感だったり、私はここにいるという感覚だったり、実像として確認されるのです。 それではじめて、自分を受容できるのです。 自分の心理が理解でき、真理が掴めると、他が見えてきます。 人間ってそんなに変わらない。存在するもの全てのカラクリ、法則へと繋がっていきます。