感度がよすぎると、周囲の雰囲気、空気を読み取ってしまいます。 他人の気持ちを過敏に察知、反応してしまいます。私もそうです。 しかし、それに惑わされず、引き込まれず、振舞うことは可能です。 要は、他人の‘気’に囚われないことが必要ですが、その為には 自分理解、価値観の点検が先決です。

例えば、敏感な人が、相手の機嫌が悪いのを察知すると、自分が何か 気に障るようなこと言っちゃったかなとか、悪い事したのかなとか 振り返ってしまいます。 そんな筈はないと思っても、それこそ、その敏感さで自分側を点検するでしょう。 相手が怒ってるとか、又は悲しんでるとかが瞬時に伝わってくると、それはもう、 一体どうしたんだろうと、先ずは自分側の落ち度を考え始めます。

先ず、自己否定や自分処罰から入るのは、 自分に嘘のつけない、責任感の強い方ならではの行動です。 つい、他人が求めるようにやってしまうのも、正直さの所以でしょう。 幼少時の境遇や親の状態によっては、自分の感性の敏感さが働き、 つい、役割を担ってしまったこともあるでしょう。 例えば、いつも悲しそうにしている母親の愚痴を聞いて、よい子になる。 いつも叱る父親から逃れる為、いいなりになる。

その基準さえ一貫性はないのだが、親から方向性を刷り込まれ、 敏感な子ほど、恐怖と不安を煽られ、マインドコントロールされてしまった。 気がつくからといって先手を打つ必要はないのですが、 どんな状況下でも、持っている感度を最大限に活用していた、 そうするしかなかった筈です。 そして、その行動には、感情の優劣、行動の善悪、 そういうものが作用していた筈です。

しかし、感情に優劣はない、 悲しみも怒りも、嬉しいという気持ちと同じ、優劣はない、ただその状況下では (親を)放っておけなかったんだ、という理解が生まれると、その時その時の 自分の感じていた、弾いていたものが、肯定されはじめます。 自己否定せざるを得なかった自分、(親の)気を察知し、 状況にあわせて行動していた自分が、自分らしかったと認められるのです。

すると、次第に、敏感な自分の感性や細かすぎる‘気’が、愛おしくなったり、 自分に対してよくやったなと感じ始めます。 徐々に、徐々に自己肯定感が増していくと、自分が感じたまんまの、 ムッとする自分、悔しがる自分、悲しい自分のまんまでいられるようになっていきます。 人の気が解っても、自分の気に従えるようになるので、やりたくないときに ぐうたらすることは大いにあるのです。 ある部分には拘り、そうでない部分は大雑把でいられるようになります。

敏感が鈍感にはなれません。 しかし、敏感に反応していることを放っておけることは出来るのです。 敏感さ故に楽しめる面白がる自分の人生を謳歌するには、 その感性を自分自身の為に、最大限活用できる事です。 それは、自他共に、善悪、優劣の、よりなくなる、居心地のよい方向ですから。