恐怖と向き合うということ、それは恐怖の克服とは次元の違う話だ。 先ず、「向き合う」ということは、それと対峙することであり、その恐怖している自分が 恐がったまんまでいる理由、その意味を正確に腑に落とすことなのだが、 怖がっている以上、ビビッてしまっていて、対峙なんかするどころじゃないということを しっかり自認することが先決。 恐怖の土台から感じ考えることは、『怖いから』という 条件付きの思考の上に成り立っているということを、しっかりと押さえておくこと。

怖くて怖くて仕方ないという感覚がベースの上に成り立つ思考では、 その恐怖感をいかに察知し、回避したりやり過ごすかしか考えられない。 そう、恐怖感から逃げることしか考えてないということを自覚することです。 そりゃ本気で怖いので当たり前だが、 しかし実のところ、怖くて怯えているような人でも、究極のところでは、 自分の信念というか意思を曲げてないことが多い。

例えば、叱られるのが怖くても遅刻をやめない。 おかしな話だが、怖がることと自分の行動が一致していない。 叱られるのが恐ろしくてビビッているなら、遅刻しなければいいのだがそうではない。 また、遅刻しちゃうものしょうがねえじゃん にはならない、 この不一致に見える自分のギャップを紐解いていく、それが見つめるということだ。

一つの例を紹介しよう。 うちの夫は、以前、オバケ・幽霊の類がもの凄く怖くて恐ろしくて堪らなかった。 突然のもの音や気配などを極度に怖がっていた。 特に霊感がある訳でもないのに、びっくりするほど怖がり怯え、 ありふれた日常の生活音、ある種の人間にも敏感に反応していた。 それと向き合い紐解いていくのは、口で言うほど簡単ではない。しかしそれを慎重に紐解いて見えてきたものは、『オバケや幽霊を怖がること、それは、怖がることでそういうものに畏敬の念を払い、 怖がることで、私は何もしませんよ、だから何もしないでくださいね』  というシンプルな発想だった。

それは、まるで神様を崇めることで守ってもらいたいと思うような気持ちに似ている。 そしてそれは、夫を取り巻く環境の中で夫が作り上げた、自分を守ろうとする 術のようなもの。 夫は、傍目には裕福な、何不自由のない家庭に育ちながら、たった一人で 何事も考え決めて生きてきた。 オバケは怖い、それは大概の子供なら当たり前だし、その怖さを一人でやり過ごし、 対処していくのは、夫の環境下、夫の気質ではとても自然で妥当な考え方だった。

いつしかそのカラクリが自分で訳わからなくなり、怖いと感じるもの全てに同じようになり、 ただ怖さだけに振り回され、怯えるようなっていったのです。 オバケや幽霊の類も相当怖いけど、いつしか人間関係まで及んでしまったことが一番怖い。

しかし、全ては自分を守るための自作自演。 だから紐解くには、自分の協力がなければ見えてこないのですよ。 恐怖と向き合い対峙するということは、その本人にしたら並大抵のことではない。 しかし、怖がっていたい理由、怖がらなければいけない訳は必ずあります。