心の病みのイメージ写真

神戸連続児童殺傷事件の加害者が手記を出版したとか。被害者のひとりである土師淳君の父親は出版中止と回収を求めるコメントを発表しましたね。彩花ちゃんのお母さんのコメントも出ましたね。なんともやりきれない想いでいっぱいでしょう。

先だっての文藝春秋の5月号にはこの事件の家裁決定の全文が公表され、私も読みました。感想としては、今まで表に出てこなかった生育暦の記載もあり、鑑定人による、彼の「母子一体関係が最低限の満足を与えていなかった疑い」を指摘している箇所もあり、当然ながら、やっぱりとは思いました。

が、その鑑定は2人の精神科医による、たった3ヶ月半程度、しかも週に一度程度の観察によるものです。そんなに短い間に、しかも、精神科の大先生にその少年の心の何がわかり、何に触れることができたのか。自分の心も知らない少年が、打ち開けることも、打ち明けるものもあるはずはなく、鑑定文からはまったくもって、彼の心の闇、その家族との実像は見えてきませんでした。

ということより、精神分析の浅はかさに呆れてしまったほうが強いですかね。また、その後の医療少年院での関係者、それからそこを出てからの人間関係、僅かな人、少しでも彼の心に触れ、彼の心の闇に光を灯した人はいたのでしょうか。

いえ、同情や社会復帰を希望している訳では全くなく、ただ、闇に近づけ、闇を解ける人は、そうはいなく、まして彼の心を再生するには、自分の人生を彼と共にするくらいの熱意でもなければ難しく、しかもまだ、さほどの年月が経っている訳でもない中では彼の闇は終わっておらず、いまだ苦しく、闇の中を彷徨っているだろうことは想像がつくのです。

その証拠に、今回の手記を書くに当たって彼は、自分が生きるにはこれ(書くこと)しかないと言っています。苦しさからの自己救済がこれだというのです。つまり、現、社会の中に彼の落ち着ける居場所、安らげる人はいないということです。

生まれつきの殺人鬼はいません。だからと言えども、幼少期からの劣悪な生育暦を連想させるのは確かですが、家族でもない他人を殺めたという事実は、14歳であろうとも赦されることではありません。

最近のことでも、佐世保の高校生の事件、名古屋大学生の事件も、それから川崎の事件も、です。また、これら事件の報道によって、心を揺さぶられ、自分の加害衝動を抑えている人々が多くいるのも事実です。

加害者へと変貌する前、誰もが元は、変わらぬ人間です。そして、その怒りの衝動を抑えきれないほど抑圧を受けてきたのも事実です。いかにも彼らは、逸脱した心の持ち主、いえ感情のない人間のようにも見えるでしょうが、その衝動が、「心のない異常殺人」に向かう前に正しく導かれたなら、加害者も被害者も生まれないのです。何故なら、こういう彼らには、前兆や兆候といったものが必ずあるし、周囲はそれを認識しているのですから。

鬱積が爆発して犯罪者や異常者となったとき、その親たちの多くは、いかにも自分も、その被害者であるかのような態度を取ります。呆れるばかりですが、だからこそその子どもが「こうする他なかった」と証明しているかのように見えてくるのです。

しかし事実はひとつ。淳くんと彩花ちゃんは亡くなり、そのご家族の苦しみは癒えないということ。その罪に元少年の境遇は関係ないということ。