無価値感とは、自分のことをまるで価値の無い人間だと感じること。 または自分に、人としての価値を全く見出せないでいることです。 承認欲求や見捨てられ不安の根底には、この無価値感の恐怖があります。 この、『自分には価値がないんじゃないか』 という恐怖が深く染み付いていると、それを撤回したくて、自分の価値を見出したくて、自分の全ての言動を、他人から価値ある人間だと認められようとすることに費やすようになる。

それは自分の個性や性分、癖を消し相手に気に入られようと振舞うことであり、 従ったり尽くすことで自分の存在が必要だと認められようと終始することです。 しかし相手に必要とされることに成功しても、相手からしたら、従ってくれるあなた、尽くしてくれるあなたが素だと受け取られるので、その関係から外れることができず、更に苦しい状況に陥ってしまいます。

自分の個性や性分、癖を消すということは、自分そのものを消すということであり、そういう自分が必要とされても、ありのままの自分が認められた実感はつかめず、更なる自己嫌悪のループに嵌まり込むことになります。 これでは、自分を認められたいのに自分を隠すという、いかにも本末転倒な事態を招いていしまいます。 ありのままの自分を認めてほしいのに、認められる自分を目指してしまう。 しまいには自分を無価値な存在として認識してしまうことになるのです。

この真逆な発想は、ありのままの自分を自分が肯定できないことから起きているのですが、どうしても否定せざるを得ない事情があるのです。 難しい話ではなく、自分のありのままの表現、素の反応を、相手に非難されたり嫌われたり、弾かれたり見放されてしまうと、そのまんまの自分でいたら誰にも相手にされず独りぼっちになってしまうと思い、その計り知れない不安と恐怖から逃れるため、本当に独りぼっちにならないために自分のありのままの姿を消すのです。底のない孤独・孤立から逃れるための施策、これが無価値の正体です。

例えば、裸の王様に裸を指摘した子供のように、もしその正直で純粋な反応を、周囲の誰もが疎ましく思い、非難したら、その子供は自分を責め、その純粋な反応を嫌い、引っ込め、次第に自分らしさを失っていくでしょう。 本来、そのありのままの反応を認め合うだけでいい筈なのに、多くの関係がそれをできていない。 善悪で縛り優劣で競い、生の反応、生きた人間を葬ろうとする。 そういうものに正確に反応している人間こそ陥ってしまう無価値の迷路。 そこから脱却するなら、先ずは自分の素の反応を、正確に客観的に理解していく必要がありそうですよ。