二次元から多次元へ

※その1はこちら→ 二元論からの脱却 その1

三次元であるこの世界の中で生きるのが苦しい人は、三次元のしきたりに縛られている。

二次元のしきたりとは、富や名声、権力の有無により優劣を計り、地位や価値が決められることであり、それを二元論と呼ぶ。善か悪かのどちらかの判断基準しかなく、それは生か死かを意味するほどの力を持つ。

故に劣悪であればそれを回避、脱却しようと必死になり、また反対に優位であれ善良であってもその位置に完璧な安心感はない。

そもそも、多次元の世界から産み落とされた我々人間には時間の概念や自分という感覚はなく、先に存在している親という、1番その子供に情の持てる筈の人から全てを教わる。

しかしその親が二元論者であればあるほどこの世界に馴染むのは困難となる。

二元論者とは、先に書いたような富や名声、権力を物差しに優劣や善悪の価値観が強いということですが、例えば、元気で明るく友達が多い子、誰とでも仲良く、自分を強調せずに輪を乱さない子が良しとなる。成績優秀ばかりを良しとせずとも、どちらかが◯でどちらかは×というレッテルは分かりやすくあり、それを正義の盾として振りかざされる力に太刀打ちできるものはない。
それこそが二元論の強さであり怖さである。

これにがんじがらめの子のアイデンティティの確立には、困難が付きまとうのは想像できるだろう。

では二元論を外す、脱却すればいいんだね?はいその通りです、という訳になかなかいかないのは、この理屈を理解した時点で、「二元論はダメ、二元論があるから苦しむんだ、二元論を捨てなきゃ」というように「二元論的思考」が発動し、怯えや不安にかられてにしまうから。これがいわゆる神経症です。

二元論から抜け出るというのは、二元論のはびこる二次元から抜けるということです。
難しい話のようですが、「考えるより感じろ、感じたことに二元論的な優劣はない」ということ。
つまりそれが三次元、四次元のような多次元的な発想であり、それが私たちの心そのものなのです。

多次元の代表例として、私たちの心には時間の概念がありません。過去も未来も、トラウマや思い出、夢や希望も共に存在し、その複合体として今を作っています。そしてその、いかにも混沌とした状態に秩序を持たせるために二元論が生まれたのでしょう。

私たちが産み落とされた時にあったのは感覚のみ。そこから心の感情が芽生え、頭の思考が生まれます。だけれども多次元の心を大事に扱われ安心感を持てなくしての二元論の行使は、不安を払拭するだけの人生となります。過去のトラウマや劣等感にさいなまれる、これがいわゆる生き辛さであり得体の知れない苦しさです。

ダメでもいい
悪くない
苦手
わからない
恥ずかしい

そんな気持ちになっていい
そんな気持ちを裁かなくていい

優劣(良いか悪いか)から嗜好(好きか嫌いか)へ
他人の目から自分の目へ
二元論を超えた世界はちゃんとここにもあるのです。

二次元から多次元へ。
この世はそんなにチャチじゃない。
この世界では、誰もが堂々と生きていいのです。