理解するということは、腑に落とすということです。 心や気持ちを理解するには尚更です。 どこの会話でも、自分がしっくりこない、腑に落ちないことは、納得できません。 会社で、上司の命令に心から頷けないと、遂行しがたく、 不満、不全感は付随するでしょう。

自分がいつも不安だったり、何かに怯えていたとして、 それを人からどう説得、どう慰められても、自分が心からそうだよなと感じられなければ、 不安は解消されません。 自分が気になっていることを、気のせいだと言われても、 消えることはありません。

解り易い例を挙げてみます。 身体に不調をきたし、心療内科とかへ行って、鬱と診断され投薬されたとする。 鬱は、心や気持ちの苦しさが溢れ出し、身体的症状として表れているものなのだが、 投薬により、身体的症状が落ち着くことはある。 しかし、医者から鬱という病気?の説明をされ、鬱の理解ができても、 肝心の心や気持ちに対して、どこがどういう風になってしまったか、 その人にあわせた説明がなかったり、ピンとくるような、腑に落ちる感覚を味わえなければ、 落ち着いてこない。

いつまでたっても、もやもや感が消えず根本解決には至れない。 症状というものは、惹き起こしたきっかけやそれまでの人生をじっくり振り返り、 あくまでも自分にとって心から腑に落ち、心から納得して初めて消えるものです。 不自然さがなくなり、自然に流れると必要なくなるので、消えてくるということです。 だから鬱を辿るには、しっくりしない感じや、もやもや、または恐怖感とか 漠然とした不安感などが大切な目安なんです。

自分の本当の主張がその奥にあるのです。 鬱でなくても、身体症状がなくても、 しっくりこない事しっくりこない会話の場合も、同じことです。 どうしても腑に落ちないこと、疑いもなく信じているようでも、 なんとな~くしっくりこない感じを抱いているならその感覚が本物です。 自分を責めるどころか、その感覚でいいのですよ。

だから、いつまでも、何かがピンとこなければ、何かがポンと入ってこなければ、 それは立ち止まった方がいい。 気になることの、その奥に、自分の主張があります。 自分が、自分のこととして、しっくりと腑に落ちる方向は必ずあります。 きちんと納得できる方向があります。

心の底から、体の中から、「ん?」と反応したり、「うん、そうそう」と頷ける、 そういうサインが出る方向が、理解への道。 自分を理解するのには、思考的理解より感覚的理解が重要です。 そう、考えるより感じろ! だから、自分が腑に落ちるのって、誰でもができうることなんですよ。