執着とは、深く心を奪われ囚われていくこと。 人への執着に限らず、物やお金への執着もある。生への執着もある。

例えば好きな人ができたとする。 「好き」とは・・・その人を通して、或いはその人といると自分が心地よい、 いい気持ちを感じられること、ときめくこと。 そういう、自分の中の色んな自分に出会わせてくれる相手。 相手のことが好きというよりは、ときめく自分を感じられることが喜びであり、 その為に尽くしたり何かしたくなる。

1人では味わえないので、失いたくないと思うのは当然。 そして、それが苦しくなるのは、それらが失われ、 変化することに恐れを抱いてしまうとき。 それは、自分の欲望に自分が乗っ取られてしまうから。 そのエネルギーは大きくて自分でも呆れるほどしつこい。 

執着するエネルギーの原動力は「怒り」です。 失いたくない欲望の裏にある、満ち足りないものへの怒りです。「好き」という名の奥に隠された、貰えないことへの怒り、 或いは伝わらないと怒るエネルギー。 それは、もっともっと私を満足させろ!と他力にすがる自分の姿。 手放したくないのは、相手の気持ちではなく、自分の心地よさ。 なのに自分ひとりでは生み出せないからこそ生まれるジレンマ。 だから、更に執着し更に苦しむ。

心を揺さぶられる人が現れたら嬉しくなる。 感じたかったことや触れたかった自分に出会えたら、 そりゃ楽しくて仕方がなくなる、引き込まれる。 相手を縛りたくもなるだろう。 自然な人間のサガ、ないほうが不自然。 とことんやった方がいい。

でも苦しいんだよね。 執着の原動力は怒りのエネルギー。 人間の本性。 でも、執着が苦しいのは、怒りのせいではない。 自分が能動から受動に変わってしまうから。 つまり、「自分が与えたい」から、「私を満足させろ」と、待ちの姿勢となっているから。 人のふんどしで相撲を取るような気持ち悪さ、実際、人のふんどしだからね。

自分の気持ちよさは、自分が能動的、主体的、 自然体なときだということに焦点が合ってくると見えてくる。 夫に、妻に、子供に、恋人に、そしてお金に、名誉への欲望に、 それらに執着したところで満足はない。 麻薬による幸福感と同じ、所詮まやかしに過ぎない。

でもだからといって、手放せることが凄い訳ではない。 執着しないことが良いことでもない。 苦しいから面白い、切ないから楽しい、傷つきあうからリアル、 それが執着ゲームなのだから。

人間は、執着して執着して、執着することで自分の深さに気づき自分の深さを知る。 そんな繰り返しのひとコマは、人との関わりでしかない。 だから、迷わず、自分に正直に進めばよい。

 結局のところ、執着とは自分をときめかせる麻薬であり、その成分は自分の怒り。 そして、執着しているときの自分は受動的。 そしてそれは 自分の深さを使いきれていないことから起きる欲求不満であり、 未知なる可能性があるということ。

ということは、能動的に自分を揺さぶる新たな感動体験、つまり 受動から能動へシフトチェンジすることで執着から解放される。また、 執着から開放されたときの感動は、体感の深さに比例する。

しかし、苦しみの深さもそれに伴う。 それを、恐れず真摯に向き合うことのみに知れること、間違いなし。 

この世のシステムに、やはり脱帽です。