前回の記事「怖いと感じられることの意味」では、怖いという感情を感じれて流せることが大事であると書きましたが、ここでは、職場においてその怖さに呑み込まれ、流せずフリーズしてしまっている状態について書いてみます。

引きこもり系のかた、自分に自信がない人。それらの人にとって仕事というものは、なかなか上手くいかない。人間関係もスムーズにはいかず、対人への恐怖はなかなか減らないのではないでしょうか。その理由は、承認欲求が強く、見捨てられ不安が強く、自分の評価に気を取られ、相手からどう思われるのか、しか頭にないから。

そして結局、自分のことしか考えてない自己都合による意識の使い方では、仕事への集中力は散漫となる。自己都合を咎める気などさらさらありませんが、自分がなにをしているのかに気づかなければ、怖さは永遠に消えはしない。例えば、自分のために誰かに何かを要求しようとする。とたんに怖くなり、相手の顔色を伺い躊躇し、やらずじまいなんてこと、あるでしょう。

ところが、誰かのために何かをしてあげるとき、その怖さはたちまち自分の原動力にすらなる。してあげれる優越感、喜ばれる快感。それを考えたら、いつもの恐怖は鳴りを潜める。しかし、「仕事」という場面に直面するや、たちまち怖くてたまらない。

そこでは自分の能力・実力だけが試され、いつもの気遣いや配慮など、あっても当然それに過大評価はない。しかも悪く言えば、人のため会社のためという意識より自分の評価・価値のために働いているのだから、それを与えて貰いたい顧客や雇い主の見る目が怖くてたまらないということに繋がる。仕事の出来・不出来というよりは、苛立たせなかったか不服はないかというようなね。

顧客はその対価として正しく支払いをし雇い主は正しく賃金を払う。しかし彼らにとっての喜びは、「賃金」でなく「価値」。「金銭欲」よりひたすら自分への「承認欲」にある。  だからこそ労働における自分は、絶対に逆らえない奴隷そのものになってしまうんでしょうね。

この思考回路では、怖くない筈はない。ストレートに言えば、職場で自分の価値を求めるというおかしなことをしている限りそれは得られないということと、仕事に意識が向いていない以上、全うな職務が果たせる筈はなく、しいては評価が低いのは当たり前だということですかね。

怖さの本質が自己価値の低さにあるのなら、それに目を背けず怖さの中にそっと入っていくこと。怖いという感情を恐れずに、そっと感じてみること。それに付き合ってくれる人を信頼してみること。