大それたテーマなどではなく、誰もがこのテーマに沿って関わりあって いるのだと思う。 今回は、‘癖’という言葉を使って話してみます。 人間は、その人の持つ癖で生きている。 癖とはその人の肌感というか好みや反応の仕方。 ただ自然にいたらそうなったという、単に‘そうでしかない’もの。 自分らしさ、持って生まれた成分といったところかな。

それは今日の天候を暑いと感じるか寒いと感じるかや、 この料理を美味しいと感じるか不味いと感じるかなど、 自分以外のあらゆる物や人・空間などに対して どこをどういう風に思うのか感じられるのかということであって、 誰一人として全く同じではないのです。 癖のない人間、それは言うならば神的か?  いいや少なくともこの世界では生きれない。 もし、その人の癖がその人仕様に働いていなければ生き苦しく感じる、 そう感じられること自体、その人らしい癖の反応だからです。

人間は、自分の愛する人(親とか)から自分の癖を否定されると、 自分そのものに興味や関心がない、或いは自分そのものを認めない ということと同じに思ってしまう。 その、自分の癖に価値を見出せないと、 「うっそ?私ってダメなの?生きてちゃダメか?」と感じてしまい、 それを確かめようと、或いは、いいという確証をとことん掴もうとします。 そう、自分の癖とともに、癖を駆使し、癖の成分を強化し、 悩んだり戦ったり、挑んでいきます。その過程で、人に認められたいと思う気持ち、 人から嫌われたくないと思う気持ち、 それから見捨てられたくないと思う気持ちは誰しも付随します。

例えば赤ちゃんが空腹を訴えたとしよう。 そのとき当然その子の癖(泣き方や泣き声の大きさ、どれだけミルクが欲しいか)がでる。 そして、その子が納得いくように受け入れられれば落ち着く。 → そうか、この癖のまま生きていていいんだ~と安心する。 しかし成長とともに次第に親の癖とぶつかり、お互いに認めさせようと関わる。 空腹を感じることなく食べさせて貰ったとしても、 もう食べれないと訴えているのに残さず食べろと強いられたり、 人参はとても食べれないと訴えているのに無理強いされ続けると、 癖が癖としていられなくなる。 訴え、いくら説明しても、しまいにゃ「親不孝者」と言われちゃ、堪らない。

でも、一番の問題は、自分でも自分の癖を嫌ってしまうこと。 まんまでいることを認められなくなること。 だから、自分がいることの意味が解らなくなる。 無くて七癖とはよく言うが、癖には色々なものがある。 一挙手一投足まで、共感できるものから他人には理解できないものまである。 困っている人を見れば、ここぞとばかりに自分の癖をご披露する人もいれば、 見てみぬフリをする人もいる。 皆それぞれの癖で関わり、それがどう映るのか、試し確かめている。 癖は許されるものというよりは、認められるべきものでしょう。

ところで、 この世界の中で、物質が存在するのに必要不可欠なものは、 空間・時間・そして癖の3つです。 例えば、水(H2O)というものはこの地球の時間の中で、水素と水素と酸素という それぞれの癖が結合して、水という癖が出来上がる。 どれが欠けても存在しない。 無色透明、熱していけば気化し始め、冷やしていけば凍る。 このような癖は許されるというより認められている。

人間も同じですが、個人としての自分が存在するのには、 自分という癖なくして存在は、し得ません。 つまり人との関わりとは、自分の癖は~なんだ、ということが理解されない ことに苦しみながら、自分でもその癖に翻弄され、 使っていいものか、あっていいものかを確かめる道程なんだと思うな。

難しくなってきた?いえいえシンプルに、 ‘癖なくして自分はない’  人間、ほっときゃ癖はでる。 そのまんま、そうでしかない自分になる。 ただ居ること。 ただ在ること。 いかにそれが凄いことか、誰も死ぬ時にはわかるんだろうけどね。 でも、それまで待ってて、いいのかぃな !??