「わからない」 という答えはあっていい。 「今日のテストどうだった?」と聞かれ、「わからない」と答える。 大概のお母さんは、「なんでわからないの?」と言うだろうがね。 「やるのかやらないのか、どっちなの?」と聞かれ、 「わからない」 と これも、大概の人から、「はっきりしろ!」と言われるだろうね。

ワンパターンの質問にもいい加減慣れてくると、敢えて「わからない」と答えることで、うざさ を表現している人もいる。 わからない気持ちを大事に扱われないと、自分の気持ちや言葉自体に劣意識を持つようになる。 いや、持たされる。 挙句の果てに、本当にどうしたいのかを考えることができず、結局は自分の真意が見つからなくなってしまう。

こういうことが起きるのは、質問者(殆どが親)が、自分の不安を相手の答えによって拭って欲しいと思っているから。 なんとも身勝手な、依存的仕業ですね。 どちらか決まらないとき、或いはどうしたいのか迷うときなどは、誰にもあります。 決めかねているとき、吟味したいとき拘りたいとき、困難なときなど、「わからない」という答えが妥当であり、むしろそれ以外にはない。

わからない気持ちに踏みとどまり、じっくり考え感じてみなければ、結論など出てこない。 わからないを蔑ろにするから、肝心な結論は見えてこない。 例えば「どうしたいの?」と聞いたら「やる」と言ったり、 完璧にやり通す自信がないと、「やらない」と答えてしまったりする。 どうしたいの?と聞いた時点で、責められていると思い込む癖になってしまうからね。 わからないということが、いけないことだと思っているので、わからないでいることが、もの凄く不安になってしまうからね。

そう、問題は、 『責められていると思い込む』 ことと、 『わからないでいることの不安』 だね。 これでは対話のテーブルについて貰えない。 わからないでいいし、どこがわからないのかどうわからないのかを聞きたいのにね。 これじゃあ対話が始まれない。 日常生活ではよくあること。 私だって確実に決まるまでは、長い時間、迷いだらけ。 それまでは、 「だって、まだ、わからないんだもん」  それでいいのになぁ・・・ もっと、わからない気持ちを大事にして、それについて対話したいものだ。 やるのかやらないのかという結果より、そのプロセスに、その人の人間性とか面白さとか味が垣間見れるのになぁ・・・