親だからという建て前で、子供の自由を奪っている親はごまんといる。 ああしろ、こうしろ、お前の為だと、無自覚なまでに理不尽を押し付けている 親の威厳?を、責任感のある子供が支えているということにも気づかずにね。 親が気づかずにやっていれば、子供の方も気づきにくい。 そういう当たり前の日常がどれほど恐ろしいことか。 結論から先に言うと、対人恐怖というものは、こうした、気づかないうちに受けている理不尽な押し付けで、がんじがらめの押さえ込みの中から作られた、癖です。

説明していきますね。 そもそも人と関わるのが怖くなるというのは、自分本来の反応が出せないということ。 その殆どは、親との関わりで身に付いたものです。 特に、親が権力的、支配的だったり、子供に無関心で自己中な場合、子供は自分の意思を表現するという自由を知らず、ビクビクしながら親の意見を当たり前のように、或いは仕方なく受け入れています。 それはあたかも義務のように、それが自由を奪われていることにも気づかずに、巧妙に入り込んでいくから恐ろしい。

小さい頃から、自分の責任だけに留まらず、必要以上の義務を感じてしまう、いや背負わされてこられた結果です。 そうして染み付いた反応パターンは、他の人間関係においても同じく、特に親と似た人に対しては更に色濃く現れます。 人と話していてビクっと怯える、自分の意見が言えず、ありのままでいられない、そういう対人への恐怖が自分の自由を阻止しています。 人と関わること、或いは接すること自体が怖くて、ただ自分の殻に篭り、自己否定の迷路に陥ってしまうのです。

人が怖くて、人を感じる自分の感覚が怖くて閉じこもりたくなるのも無理ありません。 そうしてないと、これまで阻止され続けてきた、その奥の自分が顔を出しそうになってしまうのでね。 対人恐怖になられる人々の多くは神経細やかで、自分への拘りと人への思い遣りに溢れています。 それ故に、親を支え、人に尽くすことで、自分の存在をアピールします。 しかし、忍耐の奥で感じていた違和感、いえ憤りは、押さえ込んで消えるものではありません。

その奥に潜んでいる自分の本性が、今か今かと出番を待っているのですが、何しろずうっと我慢を重ねて来たものですから、出るのが怖くて怖くて、それでいつまでも人が怖いと思い込みます。 そうです。 対人恐怖の本質は、自分を解放させたい自分との葛藤です。 解放させるには、自分の感じていた気持ち、或いは感じるべき気持ちを知り、それらが妥当な反応だったと確認していくことです。

親との対峙も大事ですが、いくら親に食って掛かって?も、例え親が謝罪をしても、自らが解放されなければ本当の自由はありません。 今までの自分を、「そうでしかなかった」と自然に感じれたとき、人への恐怖は終焉を迎えます。