他人の理解などできるのだろうか

他人のことを、心底、理解している人なんて、いるだろうか? 自分のことを、心底、理解している人が、どれだけいるだろうか? 私が人と向き合っても、相手のことを100パーセント全部理解することなど出来はしない。 実際に、私は相手を理解しようとはしていない。 相手を本当に解ることなど、出来ないということを知っているし、 他人のことが全部解るなどということは、おこがましいとさえ思う。

私は、その人本人が、自分を理解する為のナビでしかない。 私自身が知っているのは自分であり、人間の本質。あらゆる人間の本質が 自然の法則にのっとっていて、個々に主張があるということを知っている。 だから、性別も年齢も職業も上下も関係ない、ただの人間同士の本能的、 本質的な部分でしか対等に対話できないし、私はそうしたい。 それ故、どうしても世間の会話とは、かけ離れてくる。

世間とは「他」、「自分以外」ということであり、世間の中で生きるということは、 少なからず他人を意識しているということ、 即ち、人の行動は他との比較を感じています。 例えば、赤ん坊の頃は、本能のまま自由奔放に表現できていても、 世間が広がるにつれ、他を意識して社会性とかが身につく。 世間を意識しだすと、それぞれの本質の違いが行動を選択し、個性というものを 確立していくが、敏感に他を意識してしまう程、世間一般の価値観に巻き込まれ、 本質が見失われ自分が解らなくなってしまうのです。

親との価値観の違いや境遇により、行動は不自由になることもあります。 自分を知っているのは自分だけ。 人の感覚を、全く同じように感じることなど出来ません。 解るとすれば、同じような場面で感じた事がある自分の感覚。 同じではないが、人間として解りうるに過ぎないのです。 だから、敏感な人の感覚は、鈍感な人には解りにくいし、これも、 いたしかたのないことなのです。

敏感な自分を嘆く人もいますが、私は自分を知ってますます敏感な自分でしか あり得ない。楽しいも嬉しいも、悲しいも悔しいも、人一倍に反応している、 そういう自分が面白いと思っている。 敏感であればある程、喜怒哀楽は激しくて当たり前、 それをちゃんと感じてやれるのは自分しかいないですからね。 生きている実感、喜怒哀楽、自分の味わいを、奪われてたまりますか!