木の芽どき、やはりこの季節はいろんなものがざわめいてきて、 変化の兆しを感じますね。 そして誰でもが、いつでも妥当でない流れなどないと、そう感じています。 さて、流れには時間がかかりますね。 でも、時間の長さ短さに価値はなく、単に自分の発見に費やすのに必要な長さに過ぎず、それは各人にとっての適正時間です。 つまり、時間は、各人にかかる長さに拘らず平等だということでしょうか。

例えば、仕事が面白くない人の時間は長く感じるでしょうが、 その時間にムダはなく、面白くないという発見があるだけ。 面白い時間は短く、詰まらない時間は長く感じます。 心地よい時間は楽しく、不安な時間は辛く感じます。 ただそれを自分で把握するのに、或いは済ませるのに掛かった時間を数値にすると、例えば1時間とか3年とか人それぞれなんです。 要は、「あぁ、もったいなかったなぁ」と思ったとしても、それは気づく為の必要時間であってムダではありません。 時間は平等に流れています。

そして自分の時間は人とは違っていいし、違っています。 だって、過去のあの時のことが解決されていないと、その時間はそこで止まっているというか、今この時の中に過去もあるということになります。 自分なりの時間の使い方をすでにしてますね。 そうそう、バイクに乗っていてトラックに突っ込みそうな時の時間がコマ送りになるのは、自分のその瞬間の時間の中で、どうしようか、どうしたらいいかを真剣に決めているからかも知れませんね。 その為に、自分が、時をコマ送りに流しているのかも知れないですよ。

やはり人間は思考が先なんでしょうか。何故なら、その、助かった瞬間の後に、ブルブルと震えがきて、怖かったなあと感じるじゃありませんか。・・オッとそんな筈はないですね。 トラックが目の前に見えたとき、無意識に感じた恐怖を避けようと思考しだす、そして後からジックリ味わう。 あっちの世界に行きかけて戻ってきて、怖かったなーとブルブル振るえ、あぁ生きててよかったーと実感する、というようにね。 カウンセリングとおんなじですね。

話を戻して、時間はデジタル時計のように規則正しく動いていますが、人間の体内時計はアナログです。 引っかかっては止め、詰まらなければ跳ばし、面白ければ飛ばし、そうして人生の帳尻を合わせているのでしょう。 誰もが自分の時間で生きている、だから誰に憚ることなく、自分の為に思う存分、泣き、笑い、憎み、怒り、面白がって下さい。 それはお金も同じです。

お金の使い方の中で、示談金というものがありますが、 双方に折り合いを着けるのに上手い使い方だなあと思います。 事故などで受ける精神的、肉体的損害を、すっかり元通りに戻すのは ムリに等しいでしょうが、少しでもそれを納得させるのに使うアイテム、自分の為に使うのがお金でしょう。 誠意がお金に換わり、或いは誠意がなくてもお金に置き換えられる、何やかんや言ってもこの世は銭次第? んでも、落ち着くんじゃないですかねえ。

そういう時には臆せず利用する、自分が使えばいいんじゃないですか。 また、先の自分像が感じられないまま、やみくもに大学へ行くのもいいですが、 その為に親が必死でお金作るのって、子供への先行投資と言いたいのでしょうが、なんか絵に描いた餅にお金賭けてますっていう見栄、体裁に感じちゃうんですよね。 それはともかく、お金を自分で使っている感覚ならば、自分の満足、納得は得やすくなるでしょう。 お金に使われたり、自分の意思で使っていると認めなければ、不満、不安が生じます。 お金、なくては困るものですが、人間の人生、本当に必要なお金って、そんなに大金じゃないんじゃないですかね。

それから、人も使うものと敢えて言います。 人間はどうしても、自分中心にしか生きられません。 例えどれほど相手を慮っているようでも、それはそうしたい自分の為であり、その自分の表現の為に人を使っていると、敢えて言います。 お節介も、心配も、その相手に関わるとついそうしたくなってしまう自分。 そうでしか生きられない自分なら、そうしたいのが自分、自分の意思だと認めることです。

支配下の状況ですら、そこに自分の生き様があります。 諦めるも戦うも、変化の機会を狙うも、その人の生き様がちゃんと働いています。 過酷であろうと自分の人生、生き様どおり。 皆さんそんなに柔じゃありませんよ。 他人とはいつ何時も、自分の確認と納得のアイテムでしかありません。 そこでの気づき、発見の為のアイテムです。 その為に人はいる、その為に自分は人を使っていると自覚してはじめて、自分の言動に責任が伴うのだと思うのです。 人は使うものという自覚、それをきちんと自覚して、 はじめて相手への重みが感じられるのだと思うのです。