人を恨んだことがありますか?もしくは憎んだことはありますか? 私の体験からわかったことを改めて整理してお伝えします。

自分の中で悔しさや憤りを出し切ったり、憎み切る、恨み切るということは、 自分が過去に決別し、今に生きるためにできる最善であり、 自分に対する最高の優しさです。 私は、随分、世の中の理不尽に対して憤り、嫌悪し、反応してきました。 例えば、善人ぶりながら権力を笠に支配する、公平平等と言いつつ偏見でレッテルを貼る、 気持ちを無視し思い込みで評価する、従順を好み意思を持つものを迫害する、 そういうものに関わるごとに戦ってきました。

私が問題視していたのは、権力や支配や迫害そのものではなく、 それらを使っていることを認めない誤魔化しや摩り替えですね。 指摘し説明しても、理解しようとされないばかりか逆ギレされたり、 更に権力を行使されたり。 世間の同じパターンに敏感に反応する自分が気になって仕方なく、 そういう自分を深く、深く感じ続けていました。 そうしてそういう理不尽を体験し、考え、心の奥そこではずっと憎みつづけて いるうちに、あるポイントに辿りつきました。

こういうことです。 理不尽を理不尽と把握したり、支配者を支配者と理解して憎む体験をするということは、 私が相手を憎むことによって、私はその相手に対し、 私から許される権利を与えている。 つまり、その相手をきちんと見、その事実をきちんと受け止める事で自分の憎しみの 感情を終わらせ、そうして初めて相手を赦す(ゆるす)ことになる。 赦そうとしている。 そうして赦すことによって、自分の憎しみが終焉を迎えられ、 ようやくその抑圧から自分を解放させることができるのです。

これに気づいてから、私が何故ここまで理不尽というものに拘り、 気になっていたのかが解ったようでした。 私は赦したかったのだ、ということが腑に落ち、ものすごい脱力感と共に 心地よい開放感が沸いてきました。 くり返します。 憎んで憎んで真剣に憎み切る、そしたら勝手に相手を赦してた。 そうして誤魔化しやすり替える行為を赦してた。 最も大事なのは、自分の為に憎しみを感じ続け、その憎しみと向き合うことによって 苦しんでいた自分を赦し、初めてその抑圧から解放されるということです。

大きな業(カルマ)から解き放たれた、そんな感じです。 難解なパズルがまた嵌った、そんな感覚。 楽になり、自由度がまた高まり、更に解放されました。 赦すことが善行などこれっぽっちも思ってない。 要は、自分がどうしたかったのかがわかり腑に落ちた、赦したかったんだぁ・・と 納得できたら終わった、感じきったら勝手に赦していた、すっきりしたということです。

ところで、対極の存在について触れていきます。 理不尽に耐え、従順で、穏やかでいつも感謝する、 そういう術を身につけることで、憎しみに蓋をしている人。 自分を抑え、頑張っているところが、私にはどうも胡散臭く感じられる。 憎しみは、吐き出さない限り、自分の抑圧から開放されることはありません。 過去の体験で、連続的な抑圧や恐怖や不安を味わい続けてこられると、それを 思い出す事すら怖くて、なかなか語り出すのは難しいことです。

しかしそれに蓋をし、善人や善行を目指したり薄幸を気取るのは、逆に、絶対に赦さない という強い意志の印なのだとも思うのです。 憎まない代わりに絶対に赦さないなら、それも、まさに自分の人生を賭けて 怨み切るという生き様を感じさせられますがね。 もう一度言います。赦しなど必要なものではありません。一生恨み続け、 赦さなくてもOKです。自分の痛み、傷、苦しみを大事に、大事にしてほしいのです。 私は、とことん気にする事で終着に近づけたに過ぎません。

お伝えしたいのは、出し切るとその延長に欲しかったものが見つかった、ということです。 理不尽という言葉をキーワードに、長いこと気にしてきました。 誤魔化しやすり替える人に出会う毎に反応し、憤り、出し切り、終え、 更にその奥にある原点(行為)に反応し続け、悩み、終え、 ようやく胡散臭さも腑に落ち、理解できたような心境です。 ホントに気にならなくなりました。 憎む、恨むということは何も悪い感情ではありません。 我儘でも自己中でもありません、 正直な素直な自分の気持ちに責任を持つ行為です。