人間の価値

価値観

価値観はその人の経験・体験の域を出ません。従って、物の見方や感じ方は、その人の経験・体験の中で作られていきます。

自分はこう思う、こう考えるとかの思考、或いは善悪や優劣の評価。 好き・嫌い、楽しい、寂しい、怖い、悲しいなどの感情や感覚。 いずれも、どこかで自分が培い身につけてきた筈のもの。

しかし、辛さ、生きにくさを感じている方は、どこかで価値観のすり替えをしています。 それはあなた本来の価値観なのか?親の価値観なのか、社会の価値観なのか・・・?

今一度、振り返ってください。

人間の価値と人依存

人間の価値、言い換えて、自分の価値。あなたはそれが気になりますか?カウンセリングのお客さんの中には、自分の価値はない、低いとおっしゃる方は多いです。自尊心が低いですから、そう思ってしまうのは妥当ですけどもね。

価値とはなんぞやの問答はさておき、価値のある・なしが気になるということは、それに一喜一憂します。グラッときたらもうアウト、自己否定・自己卑下と共に価値ある方向を目指そうと躍起になってしまいます。その思考、おかしいでしょ?って言われても、自分でも分かっていても辞められないのは、もう自動的にその反応が自分のなかに染み付いてしまっているからであり、それを改善していくのは、体質改善と同じように時間が掛かかる。

ところで、大概の人は先ず、勉強やスポーツで秀でようと頑張り、学歴やキャリアを高め、資格取得に励もうとする。でもそれがなかなか報われないとき、自分の性格改善を図る。明るく元気に振る舞い、人を気遣い優先し、信頼される人を目指す。自分の価値を感じたければこれも妥当なこと。ところが実は、これがアウト。

なぜならば、順位や稼ぎなど、自分でも分かりやすく上位だと感じる優越感や、自信から得られる価値と違い、自分の価値は人次第となっていることにあります。成績も振るわない自分、弱い自分、暗い自分、そんな自分に自信など持てるはずはないので、自分を下げ他人に喜ばれることをするようになる。これでは自分の主体性などなく、知らぬ間に他人の隙間に入り込んでいく。これが究極の癒着という人依存症(ひといぞんしょう)です。

当然ながら人依存の人にはアディクションや他の嗜癖もあります。そして神経症や対人恐怖にもなるでしょう。言い換えれば、神経症や対人恐怖、それからなどの方がたにも、この人依存の体質は潜んでいます。なかなか気づきにくいことではありますが、やはり人間は、自立しないと心からせいせいと生きられないようですよ。

そう、依存の反対側が自立です。

無価値感

無価値感とは、自分のことをまるで価値の無い人間だと感じること。 または自分に、人としての価値を全く見出せないでいることです。 承認欲求や見捨てられ不安の根底には、この無価値感の恐怖があります。 この、『自分には価値がないんじゃないか』 という恐怖が深く染み付いていると、それを撤回したくて、自分の価値を見出したくて、自分の全ての言動を、他人から価値ある人間だと認められようとすることに費やすようになる。

それは自分の個性や性分、癖を消し相手に気に入られようと振舞うことであり、 従ったり尽くすことで自分の存在が必要だと認められようと終始することです。 しかし相手に必要とされることに成功しても、相手からしたら、従ってくれるあなた、尽くしてくれるあなたが素だと受け取られるので、その関係から外れることができず、更に苦しい状況に陥ってしまいます。

自分の個性や性分、癖を消すということは、自分そのものを消すということであり、そういう自分が必要とされても、ありのままの自分が認められた実感はつかめず、更なる自己嫌悪のループに嵌まり込むことになります。 これでは、自分を認められたいのに自分を隠すという、いかにも本末転倒な事態を招いていしまいます。 ありのままの自分を認めてほしいのに、認められる自分を目指してしまう。 しまいには自分を無価値な存在として認識してしまうことになるのです。

この真逆な発想は、ありのままの自分を自分が肯定できないことから起きているのですが、どうしても否定せざるを得ない事情があるのです。 難しい話ではなく、自分のありのままの表現、素の反応を、相手に非難されたり嫌われたり、弾かれたり見放されてしまうと、そのまんまの自分でいたら誰にも相手にされず独りぼっちになってしまうと思い、その計り知れない不安と恐怖から逃れるため、本当に独りぼっちにならないために自分のありのままの姿を消すのです。底のない孤独・孤立から逃れるための施策、これが無価値の正体です。

例えば、裸の王様に裸を指摘した子供のように、もしその正直で純粋な反応を、周囲の誰もが疎ましく思い、非難したら、その子供は自分を責め、その純粋な反応を嫌い、引っ込め、次第に自分らしさを失っていくでしょう。 本来、そのありのままの反応を認め合うだけでいい筈なのに、多くの関係がそれをできていない。 善悪で縛り優劣で競い、生の反応、生きた人間を葬ろうとする。 そういうものに正確に反応している人間こそ陥ってしまう無価値の迷路。 そこから脱却するなら、先ずは自分の素の反応を、正確に客観的に理解していく必要がありそうですよ。

自己価値の低さと感情の関係

自己価値を感じられないことに悩んでいる人たちのほとんどに、自尊心がない。その多くは自分の自己価値を感じるために、世のため人のために尽くし、自分が必要とされ喜ばれることに終始する。自分の全ての言動と他者との関係がその為だけにあると言っても過言ではない。

それはその昔、自分の家庭環境・境遇の中で身につけた、唯一の適応方法だっただろう。親の間を取り持ち、最悪な状態にならないよう先回りし、愚痴を聞き落ち着かせ、更にはよいしょする。それを褒められこそすれ咎められる筋合いはどこにもない。だけども、その中で自分の安らぎ、まして価値と自信など身につかない。まあ、そんなことを考える暇もなく、必死に生きてきた、そのやり方しか知らないという言い方のほうが正しいのでしょう。

こういう子供時代、客観的に見れば不遇なのですが、それでも家庭は家庭、一歩外に出れば、否応なく学校社会は待っている。すでに周りの子供たちにある、当たり前のように安心していられる家庭の中で育(はぐ)くまれた自我から生まれる自尊心を基に、同級生や先生と遊び学び成長していく道筋はできない。

家庭内でやっていた、大人の気分や状況をいち早く察し、それを回避したり取り持つことが上手でも、むしろそれは不必要。それより、自分の気持ちを大事にでき、考えや意見を言えること、そんなことは今までの家庭内の必要事項とは真逆であり、他のみんながすでに出来る、例えばスイミングやサッカーや、ごっこ遊びなど、子供らしく子供としての対等な関係にも付いていけず、不安とパニックはつきまとう。

結局、相手に先回りし、相手の気に入る言動をとることで、ただそこに居られることだけが最優先となる。けどだからといって、努力は人一倍、どうやったらみんなみたいにできるんだろうと頑張るんだけれど、そこは人に頼る甘えるお願いするということが怖いし、人への不信感があるのでいつだって独学。だからできる限界はやはり低い。

この流れ、こうなるのも無理じゃなく不思議でもなく当たり前です。そう、当たり前に作られてきたこの不自然で不可解な状態こそが『生きづらさ』。そして実際に人とどこが違うのかといえば、『自分の感情(心)と共にいられてない状態』ということであり、だからこそいわゆる健全な人には理解しがたいのです。

『自己価値』或いは『自尊心』。これらの言葉は日常的ではなく、また健全な人からすればその概念すらない。つまりそんなものは「当たり前にあるもの」であり、自分の感情が分からないとか、ないとか、それはもう会話不成立な話題。それゆえ更に自己否定とともに自己価値を求めて上記のような所作をしながら彷徨うのです。

自分の価値を感じたい…一言で言うなら、それには、自分の感情を取り戻すことです。そして、今の苦しみをなくしたいなら、今やっている、人に忠誠を尽くしてしまうようなことを辞めること。ですが、それができりゃ世話はなし。だって怖いもん。

けれどその為の道筋は、あります。始まりの一歩として、あなたの感情の中での「寂しさ」「悲しさ」についてはご存知ですか?理解がありますか?そして一番厄介ながらシンプルにあなたに触れられるものが「怒り」の感情です。臆せずあなたの感情を掘り起こしてみませんか?

感情探し、心探し、あなた探し、はじめませんか?

人の値段

あのね、人間にはね、みんなそれぞれ価値があって、その価値は違うんだ。 でもそれをお金に換算すると、びっくりするほどに差があるんだ。例えば、死亡事故に巻き込まれたとき、その値段の差が如実にでる。 若いかそうでないか、医者か無職か、超有名人かそうでないか、そういうもので変わる。 保険金のことです、聞いたことありませんか?

その人の稼ぎに伴い支払われたり、又は若い人なら生涯に持てるであろう金額が 算定されるということ。 厳密に言えば、残された遺族への慰めと、それまでと近い暮らしができる様に 考えられたシステムであり、人間の価値とは全く関係のないものなんですが、 それでも、お金の有る無し、そして資産の有る無しで、人間の順位をつけることが多い。

おかしいって?  …そう、 でも、それがこの世のお金から見た人間の評価査定。 そしてそれが嫌なら、お金を持てる人間を目指すのもよし、 金銭価値に縛られない生き方をするもよしだろう。 ただ一つ私が思うのは、 お金の有る無しと人間の幸せとは、別のところにありそうだということかな。

世間の中での判断基準

価値のあるなしとは、世間の中での判断基準に照らし合わせた比較に過ぎない。ゆえに価値を得るには、世間の中からはみ出ることや、世間を批判してはならず、世間の中で頑張り続け、世間から認められなければならない。
また頑張り続けなければ、その価値を維持することもできないのです。

この場合の価値への対価とは、他人からの賞賛や地位や収入などだろうが、そのバランスが崩れた時、今まで保っていた我慢は一気に崩れ落ちてしまうでしょう。

そもそも、価値を世間に求めているのだもの、当たり前、それで自分の価値を満たそうなんてことをしているからね。

価値なんてものは、本来あってないようなもの。
敢えて言うならば、価値とは、世間から認められることではなく、自分の喜び、ワクワク感が積み重ねられることで感じられる『愛おしい想い』のことでいいのではないかな。

ところで、あなたの持つ家や身に付けるアクセサリーやバッグには価値がありますか?あなたの子供に価値を感じてますか?
高価なものだとか、羨ましがられることで価値があるのですか?勉強ができるとか、スポーツに秀でているとか、美人だとか、比較の眼差しで見ていませんか?

二元論からの脱却

二元論から脱却するということは、どちらが善いか悪いかというような二者択一的な価値観 から外れ、自分自身の思考や感性でものごとを捉えていく自分になるということです。 例えば、人前で何も喋れなくなってしまう自分は弱くてダメだとか、自分の弱さを克服 しなきゃと思ってしまうのは、強い・弱いという見方、どちらかが優でどちらかが劣、 或いは善か悪という二つの価値観しかないので、弱いことを悪いダメな自分として 自己処罰したり、情けないと卑下したり、または強い自分になりたくて克服しようとしても、 出来ない自分を非難してしまうからです。

どれほどやったところで何も変われないということを、今までの自分が嫌というほど 知っている筈なのに、更にその罠に落ちてしまう。 二元論の中を堂々巡り、これが二元論の縛りです。 喋りたいのか喋りたくないのか、言いたいのか言いたくないのかのどちらかで構わない のに、弱いから言えないという自己処罰で跳ね返されてしまう。 だからいくらやってもそこから出られない。

脱却するということは、そういう二元論から離れ、自分の内側に耳を傾けること。 つまり言おうと思ったときに自分がどう思ったか、言えないときに自分が何を感じていたか、 そういう自分の気持ちや感覚をじっと深く、深く、客観的に見つめていくのです。 自分が何を感じ、何を欲しているのだろうか、そういう自分の内側からの声を聴いて いくのが、自分と向き合うということなんです。

ただ、これを自分ひとりでやり難いのは、自分が自分と対話していきますので、 自己否定している自分と自己否定したまんまの自分との対話となり、同じ迷路をさまよってしまうから。 言えない自分にダメだしをし、それを克服できない自分に更にダメだしをしてしまう、 これこそが二元論の落とし穴です。 この繰り返しで、何が原因か何が起きているのか解らずにもがいてしまうことになるのです。

自分の気持ちが浮き上がり、自分自身の思考や感覚でものごとを捉えだすと、二元論に はまりきれなくなり、自分の気持ちで動きたくなる、動かざるを得なくなります。 カウンセリングでは、この繰り返し、自分の内との対話です。 自己否定と向き合い、恐怖や不安と向き合い、自分の内側の気持ちと忌憚なく対話 していると、二元論から脱却した、自分が主役の人生が自動的についてきます。

二次元から多次元へ

三次元であるこの世界の中で生きるのが苦しい人は、二次元のしきたりに縛られている。

二次元のしきたりとは、富や名声、権力の有無により優劣を計り、地位や価値が決められることであり、それを二元論と呼ぶ。善か悪かのどちらかの判断基準しかなく、それは生か死かを意味するほどの力を持つ。

故に劣悪であればそれを回避、脱却しようと必死になり、また反対に優位であれ善良であってもその位置に完璧な安心感はない。

そもそも、多次元の世界から産み落とされた我々人間には時間の概念や自分という感覚はなく、先に存在している親という、1番その子供に情の持てる筈の人から全てを教わる。

しかしその親が二元論者であればあるほどこの世界に馴染むのは困難となる。

二元論者とは、先に書いたような富や名声、権力を物差しに優劣や善悪の価値観が強いということですが、例えば、元気で明るく友達が多い子、誰とでも仲良く、自分を強調せずに輪を乱さない子が良しとなる。成績優秀ばかりを良しとせずとも、どちらかが◯でどちらかは×というレッテルは分かりやすくあり、それを正義の盾として振りかざされる力に太刀打ちできるものはない。それこそが二元論の強さであり怖さである。

これにがんじがらめの子のアイデンティティの確立には、困難が付きまとうのは想像できるだろう。

では二元論を外す、脱却すればいいんだね?はいその通りです、という訳になかなかいかないのは、この理屈を理解した時点で、「二元論はダメ、二元論があるから苦しむんだ、二元論を捨てなきゃ」というように「二元論的思考」が発動し、怯えや不安にかられてにしまうから。これがいわゆる神経症です。

二元論から抜け出るというのは、二元論のはびこる二次元から抜けるということです。難しい話のようですが、「考えるより感じろ、感じたことに二元論的な優劣はない」ということ。つまりそれが三次元、四次元のような多次元的な発想であり、それが私たちの心そのものなのです。

多次元の代表例として、私たちの心には時間の概念がありません。過去も未来も、トラウマや思い出、夢や希望も共に存在し、その複合体として今を作っています。そしてその、いかにも混沌とした状態に秩序を持たせるために二元論が生まれたのでしょう。

私たちが産み落とされた時にあったのは感覚のみ。そこから心の感情が芽生え、頭の思考が生まれます。だけれども多次元の心を大事に扱われ安心感を持てなくしての二元論の行使は、不安を払拭するだけの人生となります。過去のトラウマや劣等感にさいなまれる、これがいわゆる生き辛さであり得体の知れない苦しさです。

ダメでもいい
悪くない
苦手
わからない
恥ずかしい

そんな気持ちになっていい
そんな気持ちを裁かなくていい

優劣(良いか悪いか)から嗜好(好きか嫌いか)へ
他人の目から自分の目へ
二元論を超えた世界はちゃんとここにもあるのです。

二次元から多次元へ。
この世はそんなにチャチじゃない。
この世界では、誰もが堂々と生きていいのです。

我慢クラブ・癒着クラブの人たち

我慢クラブ
癒着クラブ
の人達は

主体性クラブ
自立クラブ
の人たちと
話が噛み合わない

何を話したらいいのか分からない

主体性クラブの人達から見れば、我慢クラブの人達のことは意味不明に見えるし理解不能

しかし我慢クラブ所属の人にすれば、偉いのは自分らである

主体性クラブの原動力の基本は自分の興味であるのに対し
癒着クラブの原動力の基本は他人からの評価となる

どちらの所属も好き好きではあるが、
長い人生のなかでは結構の違いがある