親の歪みとその影響

親と子に対しての私の考えを、今一度書いておきます。

先ず、前提にある見方から書きますね。 この世界、この世の中『歪み(ゆがみ)』がなければ成り立たない。 それは人にも言えます。 『歪み』とは、完全でないこと。そして、この世にいる人間はみな歪みを持っている。 そしてまた、歪んでいるからこそ関わりたくなる。 ああだの こうだの と、なんやかんや言いながら関わりあうことで成り立っている。

その基本形、最小集団が家庭。そして 『歪み』に善悪などない、 単に、あっていいもの、なくては困るもの。 歪みに触れる始まりが家庭、それを通して、それを感じながら、 自分を認知していくものだと思うのです。 つまりね、親から子へ歪みが伝わり、それをどう扱うかは自分の個性。 寄り添って生きられれば最高かも知れないけれど、 個性が違えばそうはいかない。 子供が巣立つには、親に寄り添うばかりでは巣立てない。 歪みの中で苦しんでこそ、そこから自分を確認し、巣立つ。 家庭とはそういうものなんじゃないかな。

本題に入ります。 全ての人は、自分の親や養育に深く関わった人から、自分の人格に 多大な影響を受けています。 多かれ少なかれ、親は子に、自分流の価値観やものの見方を教え、無意識的にもそれを押し付け、自分(親)の支配下に置こうとします。 そうよ、親だって1人の人間、動物。 自分の存在をこの世に記す為には、身近な人にアピール、マーキングするでしょ。 そこに善悪はない。 あるとすれば、それぞれの主観。

無意識にも、親から偏った見方や考え方を刷り込まれた子供は、自分の主観が 解らなくなってしまうことがある。 それを親のせいだと責めるもよし、恨むもよし。 だけど、子供であっても、その瞬間の言動は、自らが自分の意思で選択している。 つまり、親も子も、自分の存在をアピールする為に、自分流のやり方で その瞬間を生きているということです。 親子だからといって、人格、物の見方や考え方はまったく違うもの。 だから、その家庭にいたら自分が自分で居られないと感じたのなら、 離れることです。

どうしても許せなければ、親を捨てなさい。 所詮、家庭とは子供が巣立つのに必要な歪んだ巣。 繰り返しますが、歪んでいることが悪い訳ではない。 自分の個性がその歪みと対峙しながら、自分とは何ぞや?を知っていく為の プロセスに過ぎない。

ただ、巣立ちきれなかった人が家庭を持ったら、その子供が巣立つのに苦労する。 親の凝り固まった支配にがんじがらめにされるからね。 親のしがみつきを振り払えない子供は迷い苦しむ。 歪み過ぎた巣からの巣立ちは困難を要する。 だからといって、自分の選択は叶う。 先ずは自分の主観がどこにあるのか、それを取り戻すことです。

劣悪な家庭環境、無責任極まりない親。 そういう家庭で育っても、自分が被害者だと思っているうちは始まらない。 自分が主体性を回復したいと思わなければ始まれない。 どれだけ慰められ励まされ、勇気づけられようと、 自分が自分のこととして、自分の人生を生きたいと思いはじめなければ、 何も変わらない。 過去を過去にし、初めて今を生きられる。 全ては自分の手の内にあるものだから。

対峙するということ

自分を見つめなおしていく過程において、過去の体験や親について掘り起こし、 あのときこうだった、ああしたかった、こうしてほしかった などと思い出していくことがある。 当然、親と対峙することもあり、過去に言いたかったけど言えなかったことや、 わからなかったけど思い出したり解ってきたことなどを話し始めることは、うんと大事。 対峙して話して親に理解してもらえることは、これまた、うんと大事だが、 きちんと理解してくれる親は、残念ながらあまりいない。

でも親と対峙する目的は、親に解ってもらえることではなく、 対峙しながら客観的に正確に親の反応を見ることで、きちんと見切れることにある。 「親は理解できないんだ」と理解できたり、或いは、 理解できない親と距離を持つことで関わらないようにし始めるとか、 要するに、親のことを客観的に解ることで、過去の済んでいなかった気持ちにケリが着いて、関係が変化してくる。 そういう意味で、親との対峙はした方がいいと思うが、 親との関係が済んだとしても、自分が自分のことをちゃんと知らない限り、 苦しみは終われない。

子供は、百歩譲って、子供という立場からすれば親の被害者であっても、 だから自分はこうなったと言いながらでは生きられない。 他人や世間は否応なく自分に関わってきて、それらを振り切るには引きこもるしかなくなる。 それができてるうちはいいが、いつまでそうしていても始まらないだろう。 自分が自分と向き合うということは、自分の中に棲む奴らと話をつけるということ。 親にしたように、自分が自分とぶつかって、ケリつけることです。

親との対峙、その最終目的

親と対峙すること。親に、今までの自分の気持ちや言いたかったことをぶつけることは大事なこと。繰り返しになりますが、 その過程では、親に込上げてくる怒りをぶつけ罵倒したり、訴えたりすることがある。 そうしながら、自分の言いたいことの整理と、親の反応を通して自分の気持ちにケリがついていく。 多くの場合、真剣にぶつけている自分に対して、親の反応があまりに簡単だったりお粗末だったり、 時には逆ギレしてくる親の正体を突きつけられ、見切りがつくことも多い。

親の呪縛から覚め、それは諦めにも近いが、自分の人生を歩む決意も生まれ出す。 しかしその過程は、生易しいことではない。 親と対峙していくことの最大の目的、 それは、親にぶつかることで自分の正義を証明することや、親に気持ちを解らせたり、 または親を変えることではなく、親に左右されない自分を勝ち取れること。 親から解き放たれ、誰にも縛られないで生きれる自由な自分を手に入れることです。 だから、ただ闇雲に親を攻撃したり、親に非を認めさそうとしても何も変わらない。

相手に認めさすのではなく、自分が宣言できること。 その為に親に立ち向かうのです。 これ、裁判なども同じことだと思います。 相手に非を認めさせたり世の中を変えることより、自分が受けた屈辱から解き放たれ、 人や世の中から変えられない、縛られない自分を手に入れることだと思うのです。

感情のフラッシュバック

生きづらさの根本原因である自己不一致とは、親との関係の中で「こうあるべき子供」として何の疑いもなく育ってきた人に多い。ただこれに気づくとき、その、後天的に作られた形状記憶状態を戻す作業は難しい。

生きづらさを抱える人の人間関係には、人に対する恐怖や怯え、更には不信感があります。基をたどればそれは親子間で作られ、つまり家庭の中で、怖さや色んな気持ちを抱く暇や出せる空気がなかったことで感情をなくし、迎合することに馴れてしまいます。だからこそ、親以外の他人に相対したとき、本来の自分を出せないままの自分ながら、当時感じることすらできなかった恐怖が先にでてしまい、本来できる筈の会話や仕事に支障をきたしてしまうのです。

これこそが感情のフラッシュバック。日常・慢性的にまかり通っていた未必の故意に他ならないのです。フラッシュバックとは、当時は感じることができなかった、或いは感じきれていない感情を、今の自分が再体験することで感じ直し、それを正しく理解し、今の自分が昇華できるまで続きます。

そしてそこから脱却するには、当時は支配されコントロールされていた自分が、今、その間違った関係と相手を正しく非難し、今の自分は親の支配には屈せず、絶対に従わないと宣言できること。その為に親と対峙できれば一番いいのですが、怖かったり怯えビビッてたりと簡単ではない。だけれども、その一歩としてやれることは自分の感情を感じる許可を出すこと。いつものような、「はい、わかりました」「ありがとうございます」ではなく、「いちいち決めつけるな」「うっせーよ」「指図すんな」というような反感を許可すること。それから、相手から押し寄せてくる正論に、「そこじゃない」と思えること。