真理

時も金も、それから人も自分が使うもの

さて、流れには時間がかかりますね。 でも、時間の長さ短さに価値はなく、単に自分の発見に費やすのに必要な長さに過ぎず、それは各人にとっての適正時間です。 つまり、時間は、各人にかかる長さに拘らず平等だということでしょうか。

例えば、面白い時間は短く、詰まらない時間は長く感じます。心地よい時間は楽しく、不安な時間は辛く感じます。 ただそれを自分で把握するのに、或いは済ませるのに掛かる時間は、例えば1時間とか3年とか人それぞれ。 要は、「あぁ、もったいなかったなぁ」と思ったとしても、それは気づく為の必要時間であってムダではありません。 時間は平等に流れています。

そして自分の時間は人と違っていいし、違っています。 例えば、過去のことが解決されていないと、その時間はそこで止まっているというか、今この時の中に過去もあるということ。自分なりの時間の使い方をすでにしてますね。 そうそう、バイクに乗っていてトラックに突っ込みそうな時の時間がコマ送りになるのはどうしてでしょうね。自分のその瞬間の時間の中で、どうしようか、どうしたらいいかを真剣に決めているからかも知れませんね。 その為に、自分が、時をコマ送りに流しているのかも知れないですよ?

人間は思考が先なんでしょうか?何故なら、その、助かった瞬間の後に、ブルブルと震えがきて、怖かったなあと感じるじゃありませんか。いえ、そんな筈はないですね。 トラックが目の前に見えたとき、無意識に感じた恐怖を避けようと思考しだす、そして後からジックリ味わう。 あっちの世界に行きかけて戻ってきて、怖かったなーとブルブル振るえ、あぁ生きててよかったーと実感する、というようにね。

話を戻して、時間はデジタル時計のように規則正しく動いていますが、人間の体内時計はアナログです。 引っかかっては止め、詰まらなければ跳ばし、面白ければ飛ばし、そうして人生の帳尻を合わせているのでしょう。 誰もが自分の時間で生きている、だから誰に憚ることなく、自分の為に思う存分、泣き、笑い、憎み、怒り、面白がって下さい。

お金の使い方の中で、示談金というものがありますが、 双方に折り合いを着けるのに上手い使い方だなと思います。 事故などで受ける精神的、肉体的損害を、元通りに戻すのは ムリに等しいでしょうが、少しでもそれを納得させるのに使うアイテム、自分の為に使うのがお金でしょう。 誠意がお金に換わり、或いは誠意がなくてもお金に置き換えられる、何やかんや言ってもこの世は銭次第?でも、落ち着くんじゃないですかね。

そういう時には臆せず利用する、自分が使えばいいんじゃないですか。余計な話ですが、子供をやみくもに大学へ行かせるのもいいですが、 その為に親が必死でお金作るのって、子供への先行投資と言うのでしょうが、なんか絵に描いた餅にお金賭けてるような、体裁に感じちゃうんですよね。 それはともかく、お金を自分で使っている感覚ならば、自分の満足、納得は得やすくなるでしょう。 お金に使われたり、自分の意思で使っているのでなければ、不満、不安は生じます。 お金、なくては困るものですが、人間の人生、本当に必要なお金って、そんなに大金ではない気がします。

人も使うものと敢えて言います。 人間はどうしても、自分中心にしか生きられません。 例えどれほど相手を慮っているようでも、それはそうしたい自分の為であり、お節介も、心配も、その相手に関わるとついそうしたくなってしまう自分の意思なのです。

支配下の状況ですら、そこに自分の生き様があります。 諦めるも戦うも、変化の機会を狙うも、その人の生き様がちゃんと働いています。 過酷であろうと自分の人生、生き様どおり。誰もがそんなに柔じゃありませんよ。 他人とは、いつ何時も自分の確認と納得のアイテムでしかありません。 そこでの気づき、発見の為のアイテムです。 その為に人はいる、その為に自分は人を使っていると自覚してはじめて、自分の言動に責任が伴うのです。人は使うものという自覚、それをきちんと自覚して、 はじめて相手への重みが感じられるのだと思うのです。

勇気など要らない、超自然体になればいいのだ

ものごとの行為、行動に、勇気など要らない。それより、自分にとっての超自然体はどこか?それを探すというか、 見つかれば、自ずと動いてしまうのみ。

以前に、街角のティッシュ配りについて書いたことがありますが、覚えてますでしょうか。 ティッシュ配りに心や気持ちは重要ではない、歩いている人の手の先、 差し出す位置とタイミングで、受け取ってしまうものなんだ、というような話。 少し補足をすると、自分が出来るだけリラックスして、歩いている人の リズムなんかに合わせるような感じで、自然に、ポンと差し出すと、 人間、つい受け取ってしまうもの。 そこに、気持ちを込めてとか一生懸命など要らないし、 通行人にティッシュを取っていただけなくてもあなたのせいではない、 ということ。

人間って、自然体でいると正直になるもので、警戒心がなく、興味が持てれば自然に、素直な行動をとってしまうものなんですよ。例えば、好きな人に告白するとき、ドキドキ、バクバクしながらでも言えるのは、素直に好きだから。だから、好きな人が誰かと結婚しそうで、簡単に諦められれば、それだけのもの。

誰かに何かを言おうとして、どうしても言いたければ言うだろう。 咄嗟だったり、究極の選択の際には、みんな自分を中心に考えた行為をしてますが、 どのバージョンでもおんなじこと。 よし言おうとか、よしやろうと意気込むより、 自分はほんとのとこどうしたいんだ?と、超自然に正直になれれば、 やりたければやるだろう。それを、勇気を出そうとするから、出ない自分を責めてしまう。 やれない自分を、勇気がないと責めてしまう。

必要なのは勇気ではなく、正直な自分を意識することです。 例えば、胃が痛む。勇気を出して病院へ行こうとしても、なかなか行けない。 しかし、もの凄く痛ければ行くだろうし、不安でいるのがイヤならこれまた行くだろう。

咄嗟に人助けをする人、あの行動って、 勇気を出したというよりは、日頃の生き方の延長だと思うのです。 迷惑行為を注意できないのは、勇気がないからというよりは、 日常の自分の延長だと思うのですよ。勇気があるとか、ないとか、どうでもいい。 勇気を身に付けるより、超自然体になることの方が、 自分の個性が遥かに発揮できますよ!

自己啓発本について

自己啓発本。その多くは、成功法則だったり克服だったり、まあいろいろとあるが、突き詰めるとみんなおんなじで、アプローチの仕方や切り口が違うだけ。 それが正しいということは分かるけど、自己啓発本に傾倒してしまう人は、そういう自分になれないから、そもそも前向きになれないから読むのでしょう。

すると、無理やり自分の気持ちを奮い立たせようとする努力をする、自分に鞭打ってね。 ネガティブな気持ちをポジティブに。 すると成功法則にはのっとってはいるが、無理やりだから長続きしない。 それ読んでできる人は、そもそも読まない。 闇が深い人にはとっても過酷で、逆に自分を責めるし、また、責められている気分になる。 すると目を背けたくなるし、認めたくなくなる。この繰り返し。

ポジティブになれるかどうかのせめぎ合いなだけ。 自分が弱いから自分にはできなかったとなる、繰り返し。 読めば読むほど泥沼に陥る。 ひとしきりやって出来なくて、自分を責めて落ち込んで、その傍らには本の山… こういう人、いるでしょ。 頑張れない自分をダメだと思ってしまう意識にぴったりと当てはまってしまうからなんだよね。

こういう、自分に対する否定感、劣意識、それらが強い人達が成功本の購読を支えているのです。 成功本に則れない自分を責める前に、自分の中にある優劣意識の縛りに着目すること。 これが先ず先決ですよ!

あとは相手の問題ですから

街角でビラ配りの仕事をしている人。 多くの人に受け取ってもらおうと、丁寧に、感じよく、大きな声で、一生懸命にやった。 でも、殆どの人が通り過ぎ、私ってダメだな・・と落ち込んだ。

落ち込みながらもビラ配り。 あら?・・・変わらない・・・ ビラを受け取ってもらえる確立は変わらない感じがした。 ・・・そして気が付いた。 ビラは、気持ちで受け取ってもらうんじゃなくて、「手」で受け取られるんだ・・と。

つまり、歩いている人の手の先、取りやすい位置にあると、つい思わず受け取ってしまう。 ・・・そういうことなんだ。 それからは、気持ちを込めるより、取りやすい位置、タイミングに注意するだけで、取ってもらえなくても気にしなくなった、落ち込まなくなった。

このように、真面目な人は、一生懸命心を込めるけど、実際の通りすがりにとっては、その人の人柄や態度にはあまり拘らない、というか殆ど見てない。 自分が欲しいとき、興味のあるもののとき、自ら手を出す。 そんなもの。

人間関係でも同じことは言える。 自分の気持ちを伝えようとして、相手がそれをどうするかは相手が決めること。 たとえ伝わらなくても、断られても、多少の伝え方のコツはあっても、 必要以上に自分を責める必要はない。 自分の問題と相手の問題、それを分けて考えること。 それが人間関係を築く、ちょっとしたコツ。

宇宙の法則に、「天使か悪魔か」は存在しない

宇宙の法則に、「天使か悪魔か」は存在しない。 自然界においての食物連鎖・弱肉強食は、自然の摂理であり、 そこに悪魔は存在しない。 ただ宇宙の法則に噛み合ったギブ・アンド・テイクでしかない。 人間の内面、心においても同じこと。 そこにもただ心理の法則、物事の道理があるのみ。 邪悪な心などない。

なのにそれを作り上げることで、救済や戦争をも正当化したり、 聖なるものを偶像化し崇拝させ支配する。 それが洗脳・マインドコントロール、或いはファンタジーでしかないということを 人間は気づいたほうがいい。 感情が人間だけのものとすれば、その優劣・善悪は、 人間だけが持つ愚かな暇つぶしゲーム。 でも、感情に優劣は無い。

辛さや怒り・悲しみを封じ込め、我慢や克服を優?美?善?に摩り替える。 学歴・肩書き・富を競わせ偉人を目指す。 外れるのが怖く、落ちるのが恐ろしくなる。 人間同士が優劣を競い合うことほどバカげたことはない。 ただ自然な感情の法則、物事の道理、人間としてのわきまえ、 それらを無視して人間はどこへ向かおうとするのか。 天使か悪魔か。いやいや、誰もが人間。 人間である以上、天使でも悪魔でもないし、 又どちらをも内在している。

妥当性

全ての人の人生、その人の過去の行動が、その人にとって妥当でなかったことなどない。 これは、カウンセリングを通して、自分の過去の行動が、いかにもそれしかなかったと腑に落ちだす度に感じさせられることです。 妥当性とは、概念や判断が客観的な事実や事象に正しく合致していること。 つまり、人の行動は、前提となる事実や事象が、その人の認知(どう見、どう考え、どう感じるか)に沿って正しく流れたに過ぎず、結論はその結末にすぎない、と言いたいのですが、 ここで大事なのは‘その人の認知に沿って’ということ。

例えば、『あの時あの瞬間、怖さが先にたってしまい、一目散に逃げてしまった』とする。 その状況を客観的に辿ってみると、『選択を迫られ下した決断に覚悟を突きつけられ、思わず躊躇し、逃げてしまった』 あるいは、『一番になりたくて誤魔化したけど、バレると思った瞬間、怖くて一目散に逃げてしまった』とする。 そこでのその行動は妥当以外の何者でもない。 その中での自分の気持ちに正しく流れた結末に過ぎませんからね。

また、人間はそれぞれ認知が違います。 ですから、その認知での感じ方・弾き方により、反応の仕方も違ってきます。 我関せずと物事に一喜一憂しない人と、些細な部分にまで気を取られ、いちいち気にしてしまう人。 もしもその二人がぶつかり合ったら、捉え方の違いから、行動は自ずと違ってきますが、どちらも、その人なりの妥当な行動となります。

我関せずの人は、相手の発言を気にすることなく自分のやりたいようにするかも知れない。 方や、細部に気を取られる人は、相手の発言に動揺し、やりたいように出来ないかも知れない。 でもそれは、ただ、その認知に沿って妥当に流れたというだけであり、その行動そのものには優劣も善悪もなく、次の布石としてそれをどう判断するのか、それもその人の妥当性に委ねられるのみです。

その行動、その状況下での自分の認知を辿ると、実はその認知こそがその人の過去からの妥当な見方、考え方、感じ方だということに気づかされます。 そしてその認知に善悪はありません。 評価とは、所詮、他人がするもの。 しかし、それを自分がしていたら苦しくてたまらない。 その行動に勝手に○×をつけたとして、そこに何の意味があるのでしょう。 人の行動は、その時のそれでしかない、妥当な選択がされただけのこと。

このように、自分のあの時を辿ると、見事にどれも妥当だったことがわかってくる。 あの瞬間の自分が下した選択が、もれなく的を得ていたことがわかってくる。 カウンセリングは、そういう自分の妥当性の確認ともいえるのです。

危機感と緊張感

「危機感」と「緊張感」は違う。「 危機感」の源は「怯え」であり、「緊張感」の源は「集中」である。 何かを成し遂げようとするとき、いうまでもなく 緊張感はあっていいけど危機感は不必要。 だからといって、どちらがあってもどちらもなくても 失敗するときはする。 何かをしようとしてやれないのは、 失敗するからとか危機感があって不安だとかそういうことでなく、 『やる』と決めてないから。

飛び込み台から飛び降りようとするときをイメージしてみて。 怖くて怖くてたまらない… 足がすくんで飛び降りれない…イヤだよね…  何分も何時間も過ぎて、飛べる瞬間とは、 ただ、『飛ぼう』と決めたときでしかない。 危機感とか緊張感とか、もう、どうでもよくなって、 『よし、やる』 と決めたとき、 その決定が行動を起こさす。

生の反応にダメなものなどありません。優劣感はあったっていい。

人に対する優劣感はあったっていい。 苦しいのは、自分の中にある優劣や上下、善悪の価値観を、 むやみになくそうとすること。 なくそうとして、出来なくて、そういう自分を責めるから苦しくなります。 そんなこと、する必要はありませんよ。 自惚れたり、卑下したり、或いは他人を妬んだり、見下したり・・・ 人間はそういう感情・感覚を持っています。 それは紛れもない事実でしょう。

特に、敏感で、細かいことが気になる人であれば、 例えば一点差にもの凄く拘ったり、僅かな誤解にも細心の注意を払うだろうし、 その機微に一喜一憂して当たり前です。 例えば、 自分の能力が人より高ければ、低い人がくだらなく見えたり、 見下したくなる。 負けん気が顔をだせば、僅かな差に優越感を感じたり、逆に 出来ない自分を卑下したり、悔しくて相手を妬んだり、 ぶん殴りたくなる。

自分が拘るものほど感覚は研ぎ澄まされ、勝ちか負け、上か下、 白か黒というように意識が向いてくる。 すると当然、細かな気持ちが強く溢れ出し、 根底にある自分の感情に触れざるを得なくなる。 この流れ、自然です。 一点に拘ったり、微妙な誤差に拘るなら、その差に上下がつくのは当たり前。 むしろ、そこで、得意にならなかったり悔しさを感じないほうが不自然。 これ、明らかに人間の感情に沿っている、正直な感想。

しかし、細かければ細かいほど、人があまり気にならないことや、テキトーに 流せているようなものでも、自分だけが無性にムカついてしまったり、 どうしても許せなかったりすると、人一倍強い憎しみを抱く自分が 浮き上がって見え、自分を醜いと嫌悪してしまう。 「どうして自分だけ、こんなにしつこいんだろう。みんなは許せて仲良くしてるのに・・」 と自分の敏感性を忌み嫌うようになっていく。

嫌う、憎む、怒る、見下げる、妬みたくなる気持ちにダメなものなどないのですが、 それを感じる自分を憎み、そういう自分を封印したくなってしまう。 そうなると、自分の生の反応を他人に悟られないように自分を見張るようになる。 自己嫌悪、自己否定の始まり。 人間は、隙あれば人を利用し自分は楽をしたいものです。 女王心理、ハーレム心理、ヒモ心理、それからストーカー心理、独裁者心理は あっていい。

人の持つ偏見が許せないのは、自分の偏見を裁き、認めていないからです。 バカにしたい、威張りたい、そのどこがいけないんだ? 恨みたい、仕返ししたい、そのどこがいけないんだ? 私は、そこにある本性と腹を割って話したいし、 その触れ合いに「人っていいな。」と感じてるのですがね。 理由付け無用、全ては、『だって本当にそう思うんだもん!』 その一言だけで構わない。

世の中は、想いの通り、ジャストタイミングでなるようになっている

やりたいからやるという人は、やりたい気持ちに従っている。 やりたいけど、そこにいられなくなることを恐れてやらない人は、 そこに留まりたい気持ちに従っている。 やりたくないけど、やらなければ嫌われてしまうと思っている人は、 嫌われたくない気持ちに従っている。 全ての行動は、意識の奥、根底の想いにジャストフィットしています。

例えば、少子化。 よき日本の未来像を説いても効果は上がらない。 不安要素を感じれば、人々の不安な想いの通り、当たり前の結果。 医療の進歩で寿命が延び、自由度も上がれば、自分の人生楽しみたいと思うもの。

しかし、抗争が続く発展途上の地域では、戦死者を補うかのように誕生率も高い。 先進国では、科学の進歩で人間の延命をもたらしておきながら、 一発で何もかもを粉砕できる核弾頭を生む。 平和を祈る傍らで、テロの増加。 環境保護を願っておきながら、合理性、快適性を目指し環境破壊を進める。

人類全体、地球全体、いや宇宙全体が、ジャストタイミングで変化している。 反応しあい、影響しあい、なるようになっている。

人に興味など持てなくていい

世間一般的な人との会話では、多くの人が、人の会話に同調しているようでいて、 人の話あるいはその人に興味など無い。 話は右から左へ抜け、実は自分のこと・自分の話しかしていない。 オバチャンたちの雑談はわかりやすい。 「あら~そーなの~」「そうよ~」の連発の割りに、とにかく自分が話す、話す。 だから、中身は残らない。 が、本人達は、妙にすっきりするものだ。

かたや、自分が我慢している人は、自分を引っ込め相手の話を理解しようとするので、 その場が面白くないばかりか、ストレス・怒りは知らないうちにどんどん溜まる。だから逆に、そういう人ばかりの集まりとなると、水面下での反応は強く起きる。一見穏やかな雰囲気と思いきや、 相手も自分と同じように様子見したり、取り繕う所があるので、 お互いに本音は出さず小手先のやり合いが起きてしまいがち。オバチャンたちの雑談とははるかに違う。

大事なのは、自分の反応に興味が持てること。 そしたら自ずと発言が生まれ、話や人への好みが解り、結果、 自分の楽しめる方向へ行って、笑ってる。結論から言うと、人に興味などなくていい。理解しようと思わなくていい。人の話に関心など持てなくていい。ほら、オバチャンたちのようにね。

配慮・マナー・サービスって、なんなんだろう

人がして欲しいことというのは、実際のところ、聞いてみなければ解りはしない。 「気が利く」とは、何も言わなくても相手の欲求を察知してサービスできることなんでしょうが、 実際にその相手がどう思うかなんて推測に過ぎない。

相手のことを自分勝手に推し量って便宜を図るのは、 場合によっては迷惑な行為だってある。 だから気を利かせて何かをしても、それをどう取られようと相手の勝手なのです。

例えば、コンビニでガム1つを買って袋に入れてもらったとする。 その行為を当然と思うか、マニュアルバカの押し売りと映るかは人それぞれですが、 この場合、袋はいりますか?と聞いてくれるほうが、 よほど気が利いている。

最近では、箸の いる?いらない?は聞かれるようになりましたが、気が利いていると感じないのは、 それがマニュアルだろうということが解るからですかね。 まぁ個人的には、店員さんが気を利かせようとする必要もないと思う。マニュアルがあるのだし、袋がいらなければいらない方が言えばいいと思うので。

そしてまた、 そもそもマニュアルとは客の為ではなく、店・スタッフの為にある。 だから、マニュアルにだけ忠実なマニュアル人間がロボットに見えてしまうのです。

この例に限らず、相手のことを慮(おもんばか)りたければ、 相手の意思を先ずは確認してほしいのです。 そのほうが、よっぽど気が利いたサービス精神だと感じるのです。 また、電車内で座席を譲る行為について。 しんどそうな人やシルバーシートの前にいる高齢者に席を譲らないのなら マナーがあるとは思えませんが、 マナーを遵守し気を利かせても、相手がどう思うかは解らない。

譲ろうとする本人、譲られる人、それから周囲の人の取り方なんてそれぞれ。 譲って欲しければ一言言うことも、必要だと思う。 こう言うと相手のことが考えられないと叱られそうですが、 マナーの前に意思表示、言えなければ言えない自分に責任を持つ、 それが出来ない人がマナーを語ってはいけない。 そもそも、何も言わないで何もしてくれないと怒るのは可笑しい。 ただ単に 相手に解れ では、自分勝手でしょう。

人はそんなにあなたを見ていない。 そして、勝手に何かするのは善意の押し付けです。 してもらって当たり前という感覚は、立場を嵩(かさ)にきた傲慢です。 サービスを提示する方も、要求する方も先ずは自分の意思確認が先決。 気を利かせるなら、相手の意思確認が大事。 いずれにしても、へりくだりは要らない。

気を配ることと、相手に気を利かせるということは違います。 気を配るというのは、相手にも自分と同じような気遣いをすること、 しかし相手の気持ちを察することができたとしても、相手の気持ち優先にしてあげることではなく、 配慮しているという自分の気持ちの提示が必要なだけ。もしも それを行動に移し相手に喜ばれれば、気が利いたことにもなりますが、 その判断(喜ぶかどうか)は、相手に委ねられるものでしょう。

 世の中、それでも自由度は加速しているように感じます。 人の思っていることが多様化しているのだから、どう思うか、どう取るかはまちまち。でも、 その人の価値観で善いと思っていることを、みんなが善いと思っているとは限りません。 だから言葉に惑わされず、自分がどうしたいのか、どうされたいのかを知り、 主体性を持つことが重要です。配慮・マナーなどの言葉は正しく理解し、 人や言葉に振り回されない、振り回さない自分を手に入れてください。

人間の心の構造はみな同じ

人間、悔しいときや辛いとき、 楽しいときや嬉しいとき その時々に流れる感情は同じです。 ですが、それをどう扱いどう表現するのか それを決定付けるのが その人なりの持ち前の性分だったり その人の境遇での学びだったりするのです。 自分の感情・気持ちを、 自分の欲する、根底での想いがコントロールし、 言動に結び付けている。 これが万人に通じる心の構造です。

人の人生には、ひとつとして同じものはなく、 平凡なだけの人生などありません。穏やかで安定した心持ちに憧れても、 不運に見舞われたり 挫折をしたりすることはある。 しかし、自分の心が 何を欲しているのかを知らずして その結末を受け入れることは出来ないでしょう。

例えば、自分の食べ物を横取りされて いい気分な人はいない。 しかしそこで、 穏やかに我慢する人もいれば ムキになって怒り、 殴りかかる人もいるでしょう。 それぞれの性分 それぞれの境遇・経験からくる学び、それがその行為となり対応となるのです。ただ何となくしている行為、言動 それらの全てに その人の意味があるのです。

そして人間にはもれなく欲望があります。 綺麗ごとでは済まされない欲があります。 それが生きてる証であり 人間そのもの。 悔しい・嫉妬・妬み・嘘・誤魔化し・騙し… 生きた根っこには、誰しも そういうドロドロとしたものがあります。 でも、そういう想いこそ、 生きた人間らしいってもんじゃないですかね。

被害者意識の裏側にあるもの

思い込みのひとつに、「被害者意識」というものがあります。みなさんは被害者意識を感じたことはおありでしょうか? 被害者意識というのは、自分は被害者だと思いたい意識のことです。もっと言えば、自分は犠牲者だというパフォーマンスです。 いえ、決して特別な意識ではありません。私も感じるときあります。

例えば、交通事故。自分の車が停車中に相手の車に追突されたとき、されたほうは明らかに被害者です。この時、被害者は単に被害にあった当事者であって、そこに被害者意識という言葉は存在しません。 被害者意識が生まれてくるのは、交通事故で相手に追突されたんだけど、自分も居眠りしてたとか脇き見してたとかという、自分にも落ち度があったんじゃないかと思うような罪悪があるときに、「自分は悪くない!」と正当化させたくなってしまう気持ちになることです。

さて、対人関係において被害者意識が持ち上がるとき、たいがい「勝ち負け」の思考がついていると思います。 被害者意識とは、どうしても勝てない相手、どうしても通じない相手に自分の悔しさ・怒りなどを昇華仕切れず、負けてないと言い聞かせるために持ち出される気持ち、嫉妬。 自分の能力不足や戦略の誤りを認めず、弱者として振舞うことで見たくない真実から目を背けようとする意識。 相手に非を認めさせようとすることで、自分の劣等感を埋めようとする意識のことです。

ですから、被害者意識の強い人の心の中には、頑固な幼児性が絡む、歪んだ怒りが渦巻いていることでしょう。 でも、全ては優劣意識、劣等意識の裏側で、どうしようもなく不安で仕方なく、その更に奥底にある寂しさと甘えたい気持ち、そういうものに触れられ、愛されたいのでしょうね。 被害者意識の強い人は、自分の権利の主張に余念がありません。しかしながら、「戦わずに」です。 だって、戦っても負けちゃいますから。

だから、いつまでたってもひとり相撲、それができるのも、そうしてなくては「何にも出来ない自分」が、露呈してしまうからなんでしょう。 ということで、その路線にいる限り、自分の人権の回復、尊厳の回復は無理でしょうね。 被害者という意識を持っているのが、他でもない自分そのものだからですよ。

誠実さとは、正直さとはなんだ

自分の気持ちへの誠実さを見落としてしまう人がいる。 例えば、同意を求めていることにいち早く気づき、相づちを打ってあげたり、 自分の気持ちを曲げてまで、期待通りの反応を示す人。

それはあなたにとって正直な行動ではありません。 自分が無理、我慢してまでも、相手に誠意を尽くすご奉仕であって、 自分に対する不誠実です。 だから、いくらやっても遣り甲斐を感じないでしょう。満たされないでしょう。

正直とは、自分にも矛盾がないこと、嘘がないということです。 他人の気持ちを思いやり一生懸命やっても、喜ぶ人もそうでない人もいる。 しかし、それはあなたの誠意が足りないのではありませんよ。

反省と罪悪

世間で言う反省とは、自分の内側を客観的に点検するということではなく、 外からの価値判断を基準に自分を裁くことのよう。

例えば、世間の道徳意識から人と仲良くできない自分を反省すると、 協調性のないことに罪悪感を持ちやすい。 だからといっていくら反省し、自己否定したところで行動は不自然に空回りし、 自分の心は軽くはならないこともある。 なぜなら、自己納得できてないから。

反省とは、自分の内側を覗いてみること。 相手に対して思っていること感じていること、そういうものを主観で捉え、 自分が納得できる見解に達すればいい。 外からの判断に惑わされず、内側の自分が頷けることが大切なのです。

反省に必要なのは、その時の自分がどうしたかったのかであり、 そこに裁きを加える必要などないのです。

騙されたと知るまでは幸せだった?

騙されたと知ったとたん、不幸な自分に転身する人がいる。 騙された自分が、まるで可哀想だと言いたいのだろうか? それとも、バカだと言いたいのだろうか?

いやいや、それまで感じていた気持ちに偽りはない。 騙されようと騙されまいと、自分の気持ちに批評はいらない。

ただ悔しければ怒るなり泣き叫ぶなり、或いは仕返しするなり、 自分の気持ちにケリを付けるため、納得するために行動すればいい。

それまで感じていた感情に嘘はないのですから。

「当たり前」のこと

仮面を付けて生きることがこの世なら、苦しいだろう。 仮面の数がどんどん増えたら、息をするのも苦しくなるのは当たり前。仮面を外せばいいのにな。仮面同士が会話をしても、ホントのことは何も見えない、解らない。その仮面を壊せばいいんだけどな。

どうせ死ぬなら、生粋の顔で、生きてみたいとは思わない? 素顔で生きたいとは思わない?

バチとツケ

バチなどない。 あるのはツケのみ。 訳あってそれどころではなかったにせよ 自分のしてこなかったことに対して、してこなかったツケは溜まる。 その訳が片付いたら、やはりやるしかない。 してこなかったことへの報いは受けるしかない。

それを親のせいにしたり言い訳してもいいが、それでは何も始まらない。 社会の中で生きたければ、 知らなかった、教えられなかったでは済まされない。 できない自分を引き受けなければ、何も見えてこない。

本気になるということ

本気になるということ。それは、自分が頑張りたければ頑張れ、 辞めたければ辞めれるということ。 やってみて、向いてないとか興味がなければ、 さっさと見切りをつけられること。

本気になるということは自分を騙さない、 誤魔化さないことです。 やってみてわかったら、気づいたら、 そこから眼をそらさない。 達成や成功が目的ではないのです。

要するに、自分の欲求に素直になれること。 努力や忍耐とは無縁のことですから。

生きること

生きることは「道」そのもの。混沌としたカオスそのもの。

どんな道なのかは問題ではない。

悩んだら立ち止まり、迷ったらやってみる。ただそれだけ。

あるがままに今を感じ自分自身にゆだねる。

こだわり

こだわりって自分の感情に正直になること。

とらわれの逆。 主体性のあること。

主観のあるがままそれでいいと思える事。

良い、悪いではなくどこまでも自分にとことん従う事。

職人、匠。自分への追求。