対人恐怖の正体

対人恐怖の正体、それは、自分として生きることを放棄した自分の泣き声です。 怖くてパニくって、どうしたらいいか考えられない。 そのため相手が気に入る言動しか取れず、疲労困憊しいつもしんどい。 そういう人の心の奥には 「憎悪」 がある。 そしてまた、その心の奥の奥底には 「怯え」 がある。

そういう人の内側で起きていることは、 心のなすがまま居られないことに絶望した自分が、 心のなすがまま生きることを放棄した結果、自分の言動に無責任となり、 自暴自棄に自分の心から逃げ続けながら、絶望感にさいなまれている。

自分の存在を拒否り、反応を隠し、ただ相手に合わせたり相手を持ち上げたり、 それだもの、人と深く繋がりを持てる筈はない。 そういう、まさに身代わりの術を使って生きていても、 いくら、そうやって生きていても、 ビクつきは止まらず、絶望感、虚無感は消えない。 その奥底で怯えている心を掴まなければ、絶対に絶望感は消えない。

怖くて不安で、どうしようもない心に気付きそして触れ、その怯えを掴むこと。 そういう自分が居るということを理解し、 今までのことを、 「そういう自分がしてきたこと」と認めること。 「自分は、そういう自分の意思で存在してきたんだ」と感じることだ。

しかしその前に、意識的にひた隠しにしてきた憎悪について語る必要がある。 内面に溢れる憎悪、それを正しく吐き出す必要がある。 ここを通らずして開放はない。 先ずは、ふて腐りたくなった気持ち、スネたくなった気持ち、憎らしくて仕方ない気持ち、 そして、淋しくて悲しい気持ちを思い出して。 そうしてようやっと、泣き声は次第に次第に静まり、 ただのちっぽけな自分が、ただそこに居ることを許可された安堵感に満ち、 失敗はしても怯えない、安心して、ただの人間となる。

対人恐怖のカラクリと本質1

親だからという建て前で、子供の自由を奪っている親はごまんといる。 ああしろ、こうしろ、お前の為だと、無自覚なまでに理不尽を押し付けている 親の威厳?を、責任感のある子供が支えているということにも気づかずにね。 親が気づかずにやっていれば、子供の方も気づきにくい。 そういう当たり前の日常がどれほど恐ろしいことか。 結論から先に言うと、対人恐怖というものは、こうした、気づかないうちに受けている理不尽な押し付けで、がんじがらめの押さえ込みの中から作られた、癖です。

説明していきますね。 そもそも人と関わるのが怖くなるというのは、自分本来の反応が出せないということ。 その殆どは、親との関わりで身に付いたものです。 特に、親が権力的、支配的だったり、子供に無関心で自己中な場合、子供は自分の意思を表現するという自由を知らず、ビクビクしながら親の意見を当たり前のように、或いは仕方なく受け入れています。 それはあたかも義務のように、それが自由を奪われていることにも気づかずに、巧妙に入り込んでいくから恐ろしい。

小さい頃から、自分の責任だけに留まらず、必要以上の義務を感じてしまう、いや背負わされてこられた結果です。 そうして染み付いた反応パターンは、他の人間関係においても同じく、特に親と似た人に対しては更に色濃く現れます。 人と話していてビクっと怯える、自分の意見が言えず、ありのままでいられない、そういう対人への恐怖が自分の自由を阻止しています。 人と関わること、或いは接すること自体が怖くて、ただ自分の殻に篭り、自己否定の迷路に陥ってしまうのです。

人が怖くて、人を感じる自分の感覚が怖くて閉じこもりたくなるのも無理ありません。 そうしてないと、これまで阻止され続けてきた、その奥の自分が顔を出しそうになってしまうのでね。 対人恐怖になられる人々の多くは神経細やかで、自分への拘りと人への思い遣りに溢れています。 それ故に、親を支え、人に尽くすことで、自分の存在をアピールします。 しかし、忍耐の奥で感じていた違和感、いえ憤りは、押さえ込んで消えるものではありません。

その奥に潜んでいる自分の本性が、今か今かと出番を待っているのですが、何しろずうっと我慢を重ねて来たものですから、出るのが怖くて怖くて、それでいつまでも人が怖いと思い込みます。 そうです。 対人恐怖の本質は、自分を解放させたい自分との葛藤です。 解放させるには、自分の感じていた気持ち、或いは感じるべき気持ちを知り、それらが妥当な反応だったと確認していくことです。

親との対峙も大事ですが、いくら親に食って掛かっても、例え親が謝罪をしても、自らが解放されなければ本当の自由はありません。 今までの自分を、「そうでしかなかった」と自然に感じれたとき、人への恐怖は終焉を迎えます。

対人恐怖のカラクリと本質2

「わからない」という答えはあっていい。 「今日のテストどうだった?」と聞かれ、「わからない」と答える。 大概のお母さんは、「なんでわからないの?」と言うけどね。 「やるのかやらないのか、どっちなの?」と聞かれ、 「わからない」と これも大概の人から、「はっきりしろ!」と言われるだろうね。

ワンパターンの質問にもいい加減慣れてくると、敢えて「わからない」と答えることで、うざさ を表現している人もいる。 わからない気持ちを大事に扱われないと、自分の気持ちや言葉自体に劣意識を持つようになる。 いや、持たされる。 挙句の果てに、本当にどうしたいのかを考えることができず、結局は自分の真意が見つからなくなってしまう。

こういうことが起きるのは、質問者(殆どが親)が、自分の不安を相手の答えによって拭って欲しいと思っているから。 なんとも身勝手な、依存的仕業ですね。 どちらか決まらないとき、或いはどうしたいのか迷うときなどは、誰にもあります。 決めかねているとき、吟味したいとき拘りたいとき、困難なときなど、「わからない」という答えが妥当であり、むしろそれ以外にはない。

わからない気持ちに踏みとどまり、じっくり考え感じてみなければ、結論など出てこない。 わからないを蔑ろにするから、肝心な結論は見えてこない。 例えば「どうしたいの?」と聞いたら「やる」と言ったり、 完璧にやり通す自信がないと、「やらない」と答えてしまったりする。 どうしたいの?と聞いた時点で、責められていると思い込む癖になってしまうからね。 わからないということが、いけないことだと思っているので、わからないでいることが、もの凄く不安になってしまうからね。

そう、問題は、「責められていると思い込む』ことと、 『わからないでいることの不安』だね。 これでは対話のテーブルについて貰えない。 わからないでいいし、どこがわからないのかどうわからないのかを聞きたいのにね。 これじゃあ対話が始まれない。 日常生活ではよくあること。 私だって確実に決まるまでは、長い時間、迷いだらけ。 それまでは、「だって、まだ、わからないんだもん」それでいいのになぁ・・・ もっと、わからない気持ちを大事にして、それについて対話したいものだ。 やるのかやらないのかという結果より、そのプロセスに、その人の人間性とか面白さとか味が垣間見れるのになぁ・・・

職場における対人恐怖

今回は、職場においてその怖さに呑み込まれ、流せずフリーズしてしまっている状態について書いてみます。

引きこもり系のかた、自分に自信がない人、それらの人にとって仕事というものは、なかなか上手くいかない。人間関係もスムーズにはいかず、対人への恐怖はなかなか減らない。その理由は、承認欲求が強く、見捨てられ不安が強く、自分の評価に気を取られ、相手からどう思われるのか、しか頭にないから。

厳しく言えば、これは自分のことしか考えてない自己都合による意識の使い方であり、これでは仕事への集中力は散漫となる。自己都合を咎める気などさらさらありませんが、自分がなにをしているのかに気づかなければ、怖さは永遠に消えはしない。例えば、自分のために誰かに何かを要求しようとする。とたんに怖くなり、相手の顔色を伺い躊躇し、やらずじまいなんてこと、あるでしょう。

ところが、誰かのために何かをしてあげるとき、その怖さはたちまち自分の原動力にすらなる。してあげれる優越感、喜ばれる快感。それを考えたら、いつもの恐怖は鳴りを潜める。しかし、「仕事」という場面に直面するや、たちまち怖くてたまらない。

そこでは自分の能力・実力だけが試され、いつもの気遣いや配慮など、あっても当然それに過大評価はない。しかも悪く言えば、人のため会社のためという意識より自分の評価・価値のために働いているのだから、それを与えて貰いたい顧客や雇い主の見る目が怖くてたまらないということに繋がる。仕事の出来・不出来というよりは、苛立たせなかったか不服はないかというようなね。

顧客はその対価として正しく支払いをし雇い主は正しく賃金を払う。しかし彼らにとっての喜びは、「賃金」でなく「価値」。「金銭欲」よりひたすら自分への「承認欲」にある。  だからこそ労働における自分は、絶対に逆らえない奴隷そのものになってしまうんでしょうね。

この思考回路では、怖くない筈はない。ストレートに言えば、職場で自分の価値を求めるというおかしなことをしている限りそれは得られないということと、仕事に意識が向いていない以上、全うな職務が果たせる筈はなく、しいては評価が低いのは当たり前だということですかね。

怖さの本質が自己価値の低さにあるのなら、それに目を背けず怖さの中にそっと入っていくこと。怖いという感情を恐れずに、そっと感じてみること。それに付き合ってくれる人を信頼してみること。