怒りと甘え

お客さんと話をしていると、多くの人に感じるのは、 相当な怒り(恨み) と 相当な理解されたい(甘え)願望  の 2つを持っている ということです。 そういうものが組み絡みあって、自分の心を閉ざしています。 それらが、いつからどうのようにこうなってしまったのかは人それぞれですが、 その人達にとっては、こうなってしまったのが当然であり自然な現実です。

【心の水面下で起きていること】

人(人に限らず、全ての生命体)は皆、隙あらば甘えたい生き物です。 『甘え』とは、人と人とが関わる中で大事なコミュニケーションであり、 人が育つ上では必要不可欠な要素です。 (甘えと依存は違います。) 例えば、心を閉ざしながら人生を放棄している人でも、閉ざしながらも本当は  そういう自分を解って欲しいと願っており、『甘え』の気持ちを満たそうとしています。 勿論、甘えるということがどういうことか知らないままね。

人間は、それでも欲しいものに向かっている生き物だと思うのです。 しかし現実はそう上手くは行かない。 心を閉ざしているもの、それは根底に潜む怒りです。 この怒りが自然なストレートな甘えたいなどという心を抑制し、 スネたり、放棄したりしてしまいます。 ですから、甘えたがっている気持ちを癒そうとしたり、或いは、 誰かがその人を甘えさせても根本解決にはなりません。

ではどうするか? いつも言っていることになりますが、 その怒りがなんなのかを自分が理解することです。 その怒りが自覚されにくいのは、それを押さえ込むために 『怖い』『怖がる』という感情を興しているからです。 とても厚い壁のように立ち塞がっていて、その中を見せないようにしています。 まるで門兵のように守っているのですよ。 だから、その門兵と、先ずはお話。「その先に用があるんだ!」 と引き下がらないことです。

恨みます

心の奥底に怒りや憎しみを抱えている人は多い。 しかしその多くの人は、それを自分では無自覚に抑圧させ、 表面的には良い人を装う。 ある時期から生まれた怒りが憎悪に変わり、その相手、その相手達に納まらず 人間全てを恨んでいく、それは並大抵のことではない。 おそらく、その歴史には計り知れない迫害があったのだろう。 例えるなら、孤児が更に虐待されるようなもの。

「恨み続けます」は、「許しません」ということ。 許さないという強い気持ちだけが生きてる支えと言ってもいいほどで、 しかしそれが自分を被い、その気持ちに呑み込まれ、 自分のあるがままを封印し、言動を規制する。 そこから脱するには、先ずは自分の中にそういう、それらしきものが渦巻き はびこっているという事を認めること。 そして、恨んでいても何も生まれない と片付けるのではなく、 その、憎悪らしき感覚を、ちゃんと感じようと決めること。

その昔、追い詰められたところから始まったその癖(憎むとか怨む)も、 したくてしたことじゃない。 でも、それが生きてる意味にすらなっているのだから、 それが片付かなければ、死ぬに死ねないだろう。

ストレスの正体

ストレスの正体、それは、「怒る気持ち」です。 あなたが奥底で感じている数種の苛立ち、ムカつき、悔しさなどの怒りたい感情、 それらを感じまいとして自分を押さえ、ぐっと我慢をしている状態反応です。 怒りは出してはいけないもの、その考えが自分を抑えます。 怒りは感じてはいけないもの、そういう考えが自分を苦しめます。

確かに怒りを感じたら出てしまうかも知れないので、 出さないためには感じないことが一番、 それがさらに自分の感情を抑圧し、自分の気持ちが全く解らなくなる方向に 拍車を掛けます。 怒る気持ち、その気持ちのどこが醜いのでしょう。 私は、「怒る気持ち」こそが、人間が一番初めに感じる、正直で純粋な、 一番きれいな感情だと思うんだけど。

ほら、 赤ちゃんが、お腹がすいたぞ おしっこ出て気持ち悪いぞ と 泣きじゃくるような時と同じ。 それが怒る気持ち。 そういう状態をほっとかれるときに感じるもの、ストレス。 でも、もしそれを無視されたり、適当にあしらわれたら、 怒る気持ちは悲しみ、或いは憎しみへと変わり、 自分の全ての感情を呑み込み、自分放棄、人間不信となるでしょう。

「怒っていいの? それじゃあまるで、うちのお父さんが正しいみたいじゃない?」 と、そういう人々がいます。 いえ、それとは違います。 自分の怒りに呑み込まれた人間は、お父さんのように 理不尽な攻撃をすることでしか自分を保てないのです。 しかしそれらによって苦しめられてきた人々は、そういうお父さんのようにもなれず、 反面教師のように、自分の怒りを封じ込めることで生きながらえています。

生きてる以上、ストレスは少なからずあるものです。 しかし、そのストレスの正体をきちんと把握し、そこにある感情を理解できると、 自己納得のもとに次の行動を取ることに繋がるでしょう。 少なくとも、過去の、今までのストレスの正体を掘り起こすことで、 今の自分が感じるまま生きていくことは可能です。

バカニスンナ!

人を馬鹿にしてはいけない。 誰もがそんなこと教わってきたけれど、 多くの人が、人と自分を比べながら、「ああはなりたくないものだ」とか「まだ自分の方がマシ」と感じることで保っている。 不安の払拭、安心したい気持ち、それが源。 しかし、その路線にいる限り自分の本当の個性は育たない。 「個性なんていらない」なら、まあそれもあり。 でも自分らしく生きたいなら、馬鹿にすること・されることの路線から外れることだ。

「無価値な自分」を装い、自己否定しながら皆の中に居られた過去、 自分も皆の数に入れられることが至上命令であった過去。 でも、人から馬鹿にされることほど人間の怒りを生むものはない。 その怒りの蓄積は相当なエネルギーとなり、恨みとして育つ。 そう、「うらみ」の殆どが、人から馬鹿にされた、或いは馬鹿にされたと思い込んだことから始まる。

「馬鹿にされたと思い込む」とは、その根本の部分に、本当に馬鹿にされた経験があり、その悔しさがトラウマやコンプレックスとなり、関係のない人にまで及んでいくことです。 人は、誰かからからかわれ続けると、大概、人にビクつくようになる。

人の生態反応としては正常な反応だ。中には逆に、表面的にその相手を、腕力や知力などの力で捻じ伏せてしまう人もいるが、馬鹿にされた怒りが消えることはない。 そして、訳あって馬鹿にされても平気を装えていた人たちは、そういう時代を通り過ぎると、無気力になる。これまた人の生態反応としては正常だろう。 何故なら、愚弄され続けて平気な人はいない、だからこそ自分の感情を押さえ込むことで適応しようとするのです。

この過程の中で、稀に殺人鬼が生まれることがあるが、これもまた、あってはならないことだが気持ちは理解できる。 「自分が馬鹿にされてきた」ことを認めるということは、「自分が誰よりも劣っている」ということではない。 ないけれど、何故馬鹿にされたのか、その理由をきちんと理解・納得できたとき、その怒りは流れる。 それを通り過ぎ、それまでの自分をきちんと認識しながら、 「やっぱり悔しい」という自分の尊厳の声を聞き取ること。 その声が聞こえ始めたならもう大丈夫! どこかで引っ込めた「悔しい」という気持ち。 それを取り戻せたとき、自分の人生が動き始める。