成功法則

面白い!興味ある方向、そっち!そっち!

私は数学が好きでした。 何故なら、答えがありそこに法則がある。その謎解き、最後のパズルを見つけるような ワクワク感を感じれたから。 でも、うちの娘はこんなに楽しい数学が大嫌いだと。だから成績も悪かった。

ところが、あるときクラスで3位という快挙。本人曰く、 たまたま図形のとこだけは面白かったそうだ。 つまりこれ、誰でもが当てはまる真理。 好きなもの、興味があるものには気が向く。 頑張らなくても、出来る。 面白いものは、自然に繋がっていくので、どんどん解っていくが、 気にならないもの気が向かないものは、少々出来るようになっても楽しめない。 いつまでたっても面白くならない。 興味があるもの、気が向くものは、ほっといても伸びていくということ。

そしてその方向にしか、能力、素質はない。 つまりね、気が向かないものは早く見切ってください。 楽しいことやったらいい。 そのほうが、自分の素質、能力に気づきやすく開花も早い。 そう、これが成功法則なのですよ。 でも、このシンプルな法則が実行されにくいのは、 上昇志向の優劣意識が邪魔してしまうんだな~。 もったいない!

好きなものしか続かない

人間はね、好きなものしか続かないし、楽しめないんですよ。 当たり前なんだけどね。 でも好きでもないものを平然と続けている人、多いですね。 やり続けることなんかを善しとしている世の中ですから、 辞めるには、ある程度の非難を浴びてしまうこともある。 でも、好きでもないもの、それを続けようとするから苦しくなる。

続けなければと思うほど苦しむ。 仕事でも食べ物でも、人間関係でも遊びでも、です。 それを捻じ曲げて頑張るから、みんな病んでいくんです。 辞めればいいじゃん!   …「いい加減なこと言うな、嫌な仕事もしなきゃ食っていけないよ」って? そうだね。 でも、今そうなっているのは、今までずっとそうやってきた結果でしょ。

いえいえ、責めてるんじゃなくて、 自分の人生に納得するには、その今までの思考サイクルを 一度ぶっ壊す必要があるってこと。 そのコミュニティーサイクルから抜け出る必要があるってこと。

子供の学費の為にあくせく働いている親。 子供はそんなに勉強したがっているかしら?学校生活、楽しんでいるかしら? 世の中の当たり前に自分を当てはめないで、 自分にとっての当たり前に合わせてみてください。 楽しく続けたければ好きなものを探すこと。 好きなものに巡り合うための努力なら、できるってこと。 今からでもね。

好きになるのに訳などない

テレビを見ていたら、ノーベル物理学賞を受賞した科学者が、 「どうしたら物理が好きになれるのか?」というキャスターからの質問に、「好きになるのに理由なんかないですよ。」と笑いながら答えてました。 「ただ好きなものが物理だっただけですよ。」って答えてた。

そうだよねぇ・・興味が沸く理由を聞かれても答えようがないよね。 ただ自然に熱中してしまうのに訳はいらないよね。 言うならば、好きなものに出会うしかない。熱意やら努力やらは関係がない。 偉業の功績を称えることが正当な評価だとしても、それにまつわるプロセスには苦も楽もあって当然。 研究のためにクラゲを一万匹採取したって、そりゃ、必要があればやるわね、やりたきゃやるわ当然だわね。

努力すれば誰もがノーベル賞を取れる訳でもない。 それは頑張ればオリンピックで金メダル取れる訳はないのと同じだ。 もし、努力というならば、そういう、やりたい研究をする為に、 どう環境を保ち続けるかを考えだす努力だ。 受賞者達を見ていて、海外に拠点を置いている方が数名いましたが、自分の研究を思う存分するために、彼らは拠点の選択をしている。 努力というならば、こういう自分のやりたいものをやり続ける為に、どうしたら、どこでなら出来るかを考えることだ。 それは、好きなものから離れない努力だ。

大きな発見というものが、偶然の出来事や失敗の思わぬ結果だったりするってことは案外あるよね。 それって、常識から大きく食み出た中からの偶然の発見だよね。 狙おうとして狙えるものでもないが、だとするなら、初めから方向や枠を決めないこと。自分のアンテナの方向へ行って見ること。 心から揺さぶられるものとの出会い、それを見つけるには、ひたすら自分の勝手を許すことなんじゃないの? 勝手を許すってことは、嫌いなもんにも言えること。 心が揺さぶられないものには自分を誤魔化しちゃダメ。

ところで、物理学者の宇宙創生についての話。 宇宙の起源は、ビックバンにより、粒子と反粒子が出来た。 粒子は6つの素粒子からなり、その結びつきでこの宇宙を作り上げている。 そして、粒子と反粒子が結びつくと、その両方が光となって消えてしまう、という。 反粒子というのは、天文学で言うところの、見えない物質(ダークマター)と見えない力(ダークエネルギー)のことでしょうか。 それは私たちの「意識」或いは「無意識」のことでもあるかな。

では、「自分」という素粒子の集合体が、見えない意識と完全な結びつきを得たとき、私たちは消えてなくなるのでしょうかね。 死んで空の星になるってことでしょうかね? みなさん、どう思います?

向き不向き、適材適所

私のテニス暦は、若干1年。 1年と言っても数えるほどしかしたことはない。 夫が経験者ということから、健康のために遊んでいるようなもの。 しかしこれがなかなか上手く行かない。 というか、どう教えられても、どう考え動いても、 思うように行かず、まったく面白くない。 ダメだしされ、指導されればされるほど、イヤになる いつでも、 も~ 辞める~  となる。

ところが、先々月だったか、数人の友人達とゲームをした。 私はと言えば、まったく解らないまま、前衛のポジションに立たされる。 テニスって、ほら、…アドバンテージ  …ディユース  とかなんとか、 なんのことやら英語が飛び交う。 で、 で、 この私、 訳もわからぬまま、相手コートから来たボールを初ボレー お! お! なんじゃこりゃ!   お、おもしろい~  ボールがラケットにちゃんと当たり、プレーになっているどころか、 打ち込めちゃったりできるじゃないですか!

お~ 上手く出来るってのは面白い。 下手はつまらない、面白くならない。 そして、考えもせず、努力もせずに、なんなくやれてしまうのがいい 。はじめてテニスが楽しいと感じたのでした。

どうやら私、前衛に向いているらしい、 性格的なものと身体的なものが、あっているらしいぞ。 これならテニスが続けられる、と思った瞬間でありました。 う~ん、恐るべし向き・不向き。 つまり、自分に向いているものであれば、コツなど容易く掴め、 さほどの努力もせずに出来てしまう。 それがセンスというものですかね。 世の中にはそういうこと、そういうもの、一杯ある。

いっくら苦労しても努力してもできないなら、 一度自分の力量を客観視してみてください。 上には上がいるもの、ですがその前に、面白いかそうでないか、 そして自分の向き・不向きをご確認くださいな。 いえ、努力するのがお好きなら、それは誠に結構なんですけどね。

琴線に触れる

物凄く面白いものに触れ、笑い転げた経験はおありでしょうか? テレビとかで、誰かが言ったその一言に反応して、思わず噴き出してしまうとか。 それが、時間がたっても、何度も思い出し笑いをしてしまう。

つい、なんとはなしに笑いが出てきてしまい、いつまで笑ってんのなんて 人に言われたりして、 でもそうしているうちにいつしか忘れてしまう。 そしてだいぶ後になってその話題になり、あの時おかしかったなぁとか、 なんであんなに笑ったんだろうなんて思ったりする。

これ、笑う毎に、おかしさ、面白さが済んでいくんですね。 自分の笑いのツボ、自分の琴線に触れ、共鳴していたものが、 笑うことによっていつしか落ち着いていく。 こういう感覚、経験、いかがでしょうか? 笑いや笑みを堪えるのも大変でしょうが、 これ、悲しみや憤りに対してもおんなじです。 自分の琴線に触れれば、同じように揺れます。 それを無理に抑えようとしても、揺れきらなければ、完全には止まないものです。 揺れを味わい、感じ切れてようやく思い出になっていくのです。

適材適所のコラボ

いつだったか、くりぃむしちゅー司会のテレビ番組「スター★ドラフト会議」のなかで、オリジナルの粘土細工の作品が紹介されたときのこと。 可愛らしいキャラクターと独自性の高い作品に皆が絶賛していたとき、出演者のマツコデラックスがその作者に、 「あんたもっと腹黒くならなきゃダメよ~」と言ったコメントに対してテリー伊藤が、 「だから(腹黒くないから)作れるんですよ~」と言った。

すかさずマツコ、 「そうね、分ければ(作る人と売る人を)いいのね。」と言われた。 そうそう、それでいいのよね…! 作品を作る能力とそれを売る能力を分ける。つまり、芸術家と商売人は違うということ。 各々の能力は適材適所にて生かされる、餅は餅屋。 それがコラボされることで大きな力になることができる。 1人で何でもできる人もいるけれどね、何でも1人でやろうとしなくても、餅は餅屋に任せればいい。 それが共存なのだろう。

そう、 「お世話になります。」 「お互い様。」 さて、自分に何ができるか…? その方向の目安になるものは、ズバリ! ワクワクするものでしかないですよ!

可能性を掴みたければ、頑張るな!

努力が好きだったり、努力している自分が誇らしければ問題などありません。 好きなものだから頑張るのは当然でしょう。 しかし、いつかいつかと夢を見てひたすら頑張っても、現実はついてきません。 頑張ることを辞められないのは、不安だからでしょうか? ダメな自分を認めたくないからでしょうか? それは間違いです、認めるべきものは、頑張るから自分がダメになるということです。 ムリを続けているから不安なままなのです。

いいですか、努力しても出来ないものは諦めてください。 諦めるということは、自分の成功への道はそこにないということを理解するということです。 頑張らなかったら何も見つからないとお考えのあなた、やる努力ではなく、辞める決断です。 頑張らない決断です。 自分の可能性を掴みたければ、頑張り続けている現況が苦しいということを認めることです。

努力も勇気も要りません、ただただ自分に正直になることです。 とにかく頑張って続けるのではなく、気持ちや興味が沸くまで動かないことです。心から楽しめないものは中断することです。周りの声を無視することです。 自分のやりたいこと、心が踊るものとの出会いは、イヤイヤの中からは生まれません。 自分の興味を感じるアンテナの感度を高めるには、イヤなものに慣れないことです。 わかっちゃいるけど辞められない? それでは一度、エネルギーが枯渇するまで頑張り続けてみて下さい。

興味や必要があれば、エネルギーは自然に流れる

みんな、自分のエネルギーの使い方はそれぞれ。 例えば、息子が大学生のとき、バイトを3つ掛け持ちしながら、寝ずに遊んでいた。昼夜の区別なく好きに動き回っていた。 当時、娘は高校生で、毎日バイトの情報誌を眺めながら、ぐうたらしていた。 お金がなくても、何もしないことのほうがいいらしい。

息子を引き止めても無理なように、娘に活動を促しても効果はない。 どちらにも優劣はない。 世間にはいろんな人がいる。 困っている人を見れば、助けたがる人もいる。 そういう人は、自分が役に立ちたい相手を探しているものです。

人間、自分の興味や必要性があるほうへ動き出す。 意識する方向にエネルギーが流れ出す。 興味や必要性がないのに動けば、不自然な動きになる。 自然な流れの中では、頑張らなくても、さほど苦労しなくても、 成果があったり、楽しめる。 成功の秘訣であり、自己納得の方向です。

行動を起こすもと

息子はビビリである。 それはみんな知っているし、本人も大いに自覚アリ、 それでいて行動的なのでいつも周りを巻き込み騒がしい。

不思議な感じですが、彼を見ていて思うのは、 どうやら気が小さくてビビリなことと、行動とは別のようである。 興味のある事は必ず飛びつく、やりたいからやる、それだけ。 だけどビビリなのでじたばたする、自分を表現しているに過ぎない。

そう、実は誰でも、やりたいと思うもの欲しいと思うものほどシンプルに飛びつく。 そういうとき、ビビろうが、ジタバタしようが問題とならない。 行動を起こすもとは、シンプルに、自分がやりたいかどうか、 興味があるかどうか、それだけ。

しかし、その内容やビビリな自分に裁きが入るとストップがかかりやすくなってしまう。 それが気になるとスムーズに行動を起こしにくくなってしまう。

もう一度いいます。 言ってみる事、やってみる事、それらは本来、ただの自己満足で大いに結構。 ビビリならビビったまま、或いは、慎重にやればいい。 そういう自分に裁きなど、必要なことではないのです。

道理に気づくと不思議に色々見えてくる

以前テレビで、野球のイチローさんがこんなことを言っていた。 「飛んできたボールを捕る場合、普通は、球をよく見てしっかりと捕れるように 練習していくでしょう。しかし、いつでも必ず捕れる訳ではない、何かのアクシデントや、 見ていられない事って絶対にある。必ず見て捕ろうとするより、僕はどちらかというと 見ないでも捕れるような訓練をするんです。」というような内容だった。

イチローさんもおっしゃるように、いつでも完璧に捕る事ってできないのです。 目を離してしまったり見ていられないことがある、彼はそういう道理を知っている。 だからその為に、どうしようかと考えていったら、そういう練習方法になったということ。 不自然な観念から抜け出れば、自然な道理が見えてくるということです。

例えば、こういうことです。 気になってしまうことを、気にしないように努力することは不自然。 ふと気になることには必ず理由がある。 その理由を無視して気にならない自分になろうとしても無理。 要するに、気にしない という安易な考えは不自然であり、 それでは解決しないということに気づくこと。それを認め、自然に考えること。

するとそこから先が見えてくる、始まれるということです。 例えば、どうしても気になってしまう相手に平静を装うのは不自然です。 眠いのに起きていたり、眠くないのに寝ようとするのは不自然です。 辛いのを我慢したり、期待に応える為に頑張ったら、苦しくなるのは当然です。 それに気づくと、現状につじつまが合います、今の自分が腑に落ちます。 この世の中、道理に合えば、自然であれば、納得ができます。