こころの孤児

夫は「こころの孤児」です。 先日話していて、この言葉に行き着いた。 何不自由のない裕福な家庭に生まれ育ちながら、孤児とはなんたるこった。 しかしながら彼を物語るとき、どうやらこの言葉がしっくりとくる。 だからといって、親が悪いとか被害者ぶりたいのではなく、 誰にも自分の心を悟られず、見破られず、それが自分の本意であったにせよ いっつも一人ぼっちであったことには違いない。

孤児という視点からすれば、甘えるだとか頼るだとか、望むだとかは、ない。 そうして生きてきた。 それが普通だった。 だから、人と接するとか関わるとか、交わるなんて怖くてしかたない。 ほんとは人恋しくて仕方なくても、孤児だから、スネて放棄するしかなかった。 そしてそういう、人恋しいなどという自覚もなかった。 なんか可哀想な美談に聞こえてしまうが、いえいえ、 ただただ状況と個性のマッチング、ケミストリーに過ぎない。

しかしそれを理解し、受け入れていくのには時間が必要だ。 でも大丈夫、今は孤児ではないのだからね。 うちのお客さんには、同じような孤児が多い。 そして私は、本気でその子らを育てようとしている。 今の世の中、こういった心の孤児は非常に多い。 でもそのほとんどの人が、自分が孤児だという自覚はない。

こころの孤児の親について

こころの孤児たちの親もまた、こころの孤児の場合が多い。 では何故、自分の子供をもまた孤児にしてしまうのか。 それはこういうことです。 こころが孤児のままの人が親になったら、その親はこころが孤児である故に 親という、つまりその子の保護者として、その子に興味・関心を抱くことができない。 正確に言えば、どう接したらいいか、その接し方がわからない。

こころが孤児の親は、自分が家族を持ち子供を持つことで、 こころが孤児である自分のこころを埋めようとする。いえ、埋めてもらおうとする。 勿論、無自覚なまま。 子供こそ自分の分身であり、一番身近な存在である故にそうしてしまう。 だって、こころが飢餓、こころが枯渇しているもの、 いつだって本当は誰かに満たされたいと思っているもの。

そしてそういう中で育った子供、特に感受性の強い子ほど、 親から自分には何の関心も向けられていない、何の興味も抱かれていないと知り 自分もこころの孤児となるのだが、 本人にはそういう自覚もないまま、 親に対しては、自分がこころの保護者の役割を買ってでる。 因果なものですね。

こころの孤児からの脱却とは

こころの孤児 …ここでは、自分のこころに興味・関心を払ってくれる人、こころの保護者がいなかった人という意味で使っている。 こころの孤児からの脱却。 何度も言いますが、それは並大抵のことではない。 なぜなら、先ずは自分にそういう自覚がなく、 だからこそ自分に何が起きているのかがまったくわからないことで、 ただ漠然と苦しく虚しい日々が続いてしまうからです。

これは、AC(アダルト・チャイルド)の自認と似ているが、 それよりシンプルでわかりやすいと思うのは、 自分がこころの孤児であると自覚するという時点で、 親から脱却するという話ではなく、ただ「自分」にだけ視点を持てること。 勿論、親や家族のこと、その関わりについての対話はあるが、 多くの人が無自覚ゆえに掴めていない、寂しさや甘えについての会話がしやすくなる。

こころの孤児たちの一番の特徴は、人間関係において恐怖感を抱いていること。 それによって当然あるべき関係を営めずに、これまた無自覚にも 孤独のままそこから抜け出せずにいる。 グループや団体や人の家族に対して、壁の外からもの凄く嫌悪してしまうのも頷ける。 だって自分には無縁な、まったく知らない世界なのだから。

夫の例を持ち出せば、自分がこころの孤児だという自覚を持てたとき、 はじめて、ある人に対して、「もし、この人が自分の親父だったら」という視点で 観察することができ、それまで恐怖していたその人に対して、 はじめて違った見かた、自分の気持ちの揺れを感じることができた。 怖いという感覚以外の、何か自分の奥で感じられた心の揺れ、 それが自分を知っていく入り口になる。