責任

自信・責任を持つには

落ち込んでしょぼくれていても、寂しくてオイオイ泣いていても、ムカついて怒鳴っていても、 そんな自分をほっとけるか、そんな自分を大事にできるか、フリをしないでいられるか。 カッコ悪かろうが、情けなかろうが、自分の感じた事、思っている事を認め、 そういう自分に誇りを持てるか。

それは、悲劇のヒロインになる事でも、自己中になる事でもなく 自分のあるがまんまを許すことです。 笑っていればいつか報われる、誰かが認めてくれる、我慢していれば終わりがくる、 そんなファンタジーの世界にいては一生味わえません。

我慢できていても、痛いものは痛いし辛いものは辛い。悲しいし寂しいし、 イラつくしムカつきます。 過去の、過酷な体験で、否応なく自分を誤魔化して、ファンタジーの世界に 逃げ込むしかなかった方もいるでしょう。 しかし、いつか、いつかは、ありません、あなたの王子様に出会えましたか? 今までの人生を振り返って思い出して下さい。 ファンタジーの世界では、楽しさや喜びも、どこか実感の沸かない他人ごとのようで、 満足感は味わえないでしょう。

実感が沸かないから、もっともっと、もっと頑張れば、 もっと耐えればといった傾向に陥るのです。 出口の見えない迷路をさまよってしまうのです。 それでは、いつまでたっても自信、責任は感じられません。 自信や責任を持てる自分でいたいと思う方は、ご自分の手を上げてみてください。

・・・ ほら!  こういうシンプルなこと。 手を上げた行動と、自信と責任を持って生きたがっている気持ちとが、一致しています。 自信、責任を持った自分でいたいと素直に思ったから、ふっと手が上がった、 その自分の気持ちに嘘がないという実感、これがライブ!これが生の体感です。

自分に自信や責任を持つには・・・ 先ずは、単純に、いい人のフリを辞めることです。 頑張らない方向、我慢しない方向、もう少し、力(りき)まずリラックスしていきましょう。

ついでに、話が飛びますが、釈迦も、親鸞も、道元も、これら出家僧たちは 家族を捨てていってるんですよ。 語られない妻子の想いもあるのです、お互いに、深い嘆き、悲しみ、痛み、憎しみは あるのですよ。 どこか、仙人の世界にワープしたんじゃなくて、 ちゃんと生身の人間の日常の延長に過ぎないのです。

自分らしく生きる、それは自分の生き方に責任を持つことです

世間では、自分の気持ち、感情を抑えたり、我慢できることが成長らしい。 穏便に振舞うことや、許せることが大人らしい。 富や名声をつかめる人が立派らしい。 しかし、それを自分が受け入れるかどうか、取り込むかどうか、そ れは自分で決めていい。 自分が楽なほう、落ち着けるほうでいいのです。

自分らしく生きるということは、自分の生き方に責任を持てることでもある。 先ずその覚悟がなければムリ。 だから、責任を持つ覚悟がないうちは、誰かに依存したり、従えばいい。 多少生きにくさがあっても、そりゃ仕方ない。

自分に責任持ててる人、どれほどいるだろうか。 例えば、「子供のため」と言いつつ子供に依存し、責任を押し付けている親。 その殆どが自覚がないから出来るようなものの、だから、たちが悪く、 従って子供に影響は出やすい。 親の責任を子供の義務にすり替え、親の期待する生き方をさせようなんて、 自分の責任の丸投げでしかない。 責任というものをきちんと教わっていない子供に、責任が何か、わかる筈もない。

自分に忠実な表現、行動をしている人は、自ずと自分の人生上で表現するし、 結果その生き方が、その人らしさとして反映されるのです。 責任を持つということ、それは、どこまでも自分に忠実に表現し、行動できることです。 その覚悟がない限り、自分の納得する人生は手に入りません。

自己責任、それは生き方

予期せず妊娠したからといって、結婚し、子供を生むことが責任だろうか? 中途半端な気持ちなのに、責任取って結婚して、幸せになれるだろうか? 気持ちを偽り、誤魔化して、相手も子供も幸せに出来るだろうか? それが、本当に責任ある行動には思えない。 望まない妊娠なら、謝罪し許しを請う。 殴られるかもしれないし、慰謝料の請求があるかもしれないが、 正直に、真摯に関わる。十字架を背負って生きる。 それが責任の取り方。自分の正直な気持ちに責任持てなければ、相手への責任など果たせる訳はない。

また、どうしようもない自分勝手な人に惚れちゃったとする。 いつも自分が振り回されながらも、好きでしょうがないから、自分の意に沿わない 行動も取るし、相手の理不尽さも許してしまう。 好きだからとはいえ、自分のやっていることが、自分の意に沿った行動でないので 楽じゃあない、それに引き換え相手は自分中心なのでイラつく。 自分を誤魔化してるから、最悪の気分にもなる。 でも、別の意味で居心地のよさを失いたくないから、辞められない。

自己責任を負うなら、そういう自分に観念するしかなく、しかし、自分が不自由なのも 込みこみの話、それを意識するほど辛くても仕方ない。自分に責任を持つか持たないかは、その人の生き方ですので、ほんとうにどちらでも 構わないのですが、自分に責任を持ってみると、相手の無責任さがよく見えてくるし、 それを自分がどう感じるかがちゃんとわかってきます。 自分が本当にしあわせかどうかが解ってくるし、しあわせになりたいのか、 どうしたいのかが自分に突きつけられてきます。

無責任な相手に関わりたくなくなるかもしれないし、 相手の分まで責任を持ちながら生きようと、決意するかもしれません。 いずれにせよ、今の自分にとって何が大事かが解り、自己選択ができます。 自分を誤魔化したり、人のせいにしていては納得感は得られません。 自分に責任を持つということは、すごいことでも何でもない。 自分の気持ちに素直になること、正直になることです。 それでなけりゃ責任など持てはしません。

例えば、言いたいことを言いたければ、言う。 でも言いたくても言えなければ、言わない自分で構わない。 言えるようになろうと目指そうとしない。 今のまんまの自分に許可を与える。 それが自分に責任持ってやるということですよ。 恋人にも、子供にも、親にも、そして自分にも、今のまんまでいい。 今の自分に責任もって、ぶつかってみたり、我慢してみたり、苦しんだらいい。 執着して、やり尽くした先に、更に素の自分が見えてきます。

私は、自分が自分を偽ることに違和感を覚える。 自分を誤魔化そうとすると、居心地が最悪に感じる、 だから正直にならざるを得ない。 かっこつけでもなく、そうでしか生きられない。 当然、責任はついてくる、持つことになる。 持ちたくなくてもついてくる。 でもその方が、まし。 結果がどうあれ、そうでなけりゃ、納得できないしね。

だから責任を持つには、尚更、自分が出来ないことや、したくないことは極力しない。 その方が自分も、遠慮なく楽しめるから。 自分の本性に責任もってみて、その醜さ、美しさに心から打ち震えるときもある。 ああ、生きてるな  ってね。

自分の視点で、自己責任で、もっとライトにいきましょう

以前、息子にこんなことがあった。 付き合ってた女から信頼を裏切るようなことをされ、息子の逆鱗に触れ、気持ちを ぶつけた勢いで、窓ガラスを割って別れて帰ってきた。 それから1ヶ月以上修理代を請求され続け、その親から警察に訴えると言われ、 仕方なく2万円払った、という。

どう思います? あなたならどうします?

この場合、その時の、どうしても許しがたい気持ちからガラスを割った、という行為 だとしても、割ったガラスの部分に対する損害賠償は当然ですね。 世間では、ガラスを割った方が悪くなるでしょうが、その本質は、善いか悪いかの 問題ではないでしょう。

私はこう思う。 どんな場合でも、自分がその時どうしても納得できなければ、自分の気持ちに 従ってぶつけた方がいい。 ただその時、相手の損害は償う必要はある。 会社だったらクビになることもある。 でも、自分が、「おかしい」と思った気持ちはないがしろにしないで、その気持ちに 責任を持ってやればいい。 そうしてやりながら、自分を、自分の眼を養っていきなさいということです。

何が言いたいのかというと、自分の言動の全ては自分次第であり、結果は自ずと ついてまわる。 相手や周りがどうのではなく、自分の言動には責任を持つ。 人を信用するのも自分であり、人に裏切られたら、憎んだり仕返ししたりするもよし。 しかし、選んだ自分の眼、見方を更に養っていきなさいということです。

あふれる情報やアドバイスも、受け取る自分次第なのです。テレビなどで見かけるコメンテーターの発言をやみくもに 信用したり人のせいにするのでなく、自分の眼を養ってください、と言いたいのです。 自分の視点で、自己責任で、もっとライトに自分中心の人生を生きてださい。

「責任ある約束」が自分を守ります

約束は守ろう~ なんてことを言いたいのでは、全くなくて、「自分に即した約束で、自分を守れ」と言いたいのです。 例えば、明日のお見合いに出席する という設定。 自分の気持ちがイヤイヤ、或いは曖昧なまま、親の言うとおりに、或いは世話人への義理の為に出席した場合、自分の気持ちは更に憂鬱になったりイライラが募ったり、当然、したくないお見合いなので上手いこといく訳がない。 (奇跡的に、ひょうたんからコマ っていうこともありますけどね。)

その場しのぎの約束は、自分への後悔と、親や周りの人に向けての不満や憤りをも増幅させます。 例えそうするしか、約束してお見合いするしかなかったとしても、誰もその責任を負ってはくれず、全て自分に跳ね返ってきてしまう。 だって、約束したの、自分だものね。 誰も自分を守ってはくれません。

結局、自分の曖昧な約束は自分を振り回すことになってしまいます。 安易な約束はするなと言いたいのではありません。 そんなこと、百も承知ですからね。 約束を守ろうとすることが、自分を更に窮地に追い込んでしまうってことです。 高圧的だったり、脅迫的だったり、そういう人を相手にした時、自分を抑えて、自分を曲げた約束をしてしまうことはあります。 怖いし、自分さえ我慢すればと思ったりしてしまう。 しかし、例え約束を最後まで果たしても、次の約束が待っています。 約束という縛りに追いかけられてしまいます。

約束を守れば、遣り通せば楽になれる、終ればご褒美が貰える・・・ そんな取り引きに合理性はありません。 そういう、脅しの縛りから逃れ自分を守るには、責任ある約束をすることです。 怯えの怖さから身を守るために、責任ある約束をするのです。 責任ある約束とは、自分の意思にそぐわないことは約束しないということ、やりたくないと表明すること。 相手から感じる威圧の恐怖から逃れる為に約束してしまうのではなく、果たせない約束を行使することの怖さから自分を守るのです。

そのための意思表明であり、その意思が自分の後ろ盾となり、誰にも文句を言わせないことに繋がるのです。 また、出来ないことに直面したときには、『やらない』と表明したことが 自分の責任を果たすこととなります。 自分の意思が、毅然と自分を守ってくれることになるのです。 約束というものは、自分の責任を負うため、 そして、自分を守るためにするもんだと思うのです。

責任感の強さゆえの無間地獄

責任感の強い人がその強い責任感ゆえに陥ってしまう無間地獄をご紹介します。責任感が強い人とは、自分の負うべき責任を果たそうと、真面目に生きている人です。ところが真面目な人ほど、その責任というものに振り回され、その責任にがんじがらめになり、その責任に押しつぶされてしまいがち。

…真面目だからなの?

いえいえ、そういうことではありません。責任というものの意味を履き違えているからです。そして、だからこそ、その責任が義務に摩り替わっているからなのです。

さて、責任感の強さゆえに陥ってしまう無間地獄とは?一言で言えば、責任を取っているようで、実際は責任から遠ざかり、「責任を取らないで済むような行動様式となっている」ことにあります。例えば…彼女が妊娠しちゃった場合…責任感から結婚する?…それが責任を果たすことじゃないということは、以前にも書きましたが、さらに責任感の強い人は、そもそもそういう、彼女を妊娠させてしまうような行動、或いは彼女すら作らないのです。

…だって、責任取るの怖いもん。

それがね、あっけらかんとその責任を放棄したいためではなく、責任を強く感じてしまう故に、自分の行動を律し、抑制し、しだいに守りに入り、挙句の果て、なんにも動けずなんにも出来なくなる。しかしながら、終始その責任とやらに追われているから、他人の言いつけには逆らえず、ひたすら怖いまんま彷徨ってしまうんだよ。つまりは自分から逃げてしまってることになってる。

そこから脱する方法

その1、責任とは何かを正しく学ぶこと。

その2、自分のしていること、してきたことを正しく知ること。

その3、自尊心を回復させること。

これに尽きます。

フェアに生きる…「お世話になります」

「お世話になります」 新参者が入所の際に使われる言葉だ。 …世話になることもあるかと思いますが、そのときはどうぞ宜しくお願いいたします…ということ。 お世話になる…面倒をかけます…援助を受けます…そう、これでいいのだ。

「人様に迷惑をかけない」を至上命令として生きていらっしゃる方には、なんとも腹立たしい言葉だろうが、 「迷惑をかけるくらいならそこに居たくない」と思う限り、その関係はフェアにならない。 フェアな関係でいたくないならそれは一向に構わない。してあげれる側、与える側でいたいならそれもよし。

でもね、「お世話になります」…それは、生きてる人同士の関係では「お互い様」。 一番フェアな間柄なのです。 この社会で生きてる限り、そこにいるだけでだれもみな、人様を煩わせる。 だから、突き詰めて言えば、「迷惑をかけることになっても生きる」…これが生きる事の自己責任だと私は思う。

覚悟するということ

覚悟なんてものは、しようと思って出来るわけじゃない。 するしかないと思ったとき自然としてしまうもの。 得ようと思ったって、教わろうと思ったって、学ぼうと思ったって、自分の中からでしか生まれない。 覚悟は自ずとするものです。 おそらくそれは、 ただただシンプルに、自分に正直になれたときの心境。 できるかどうかが問題ではなく、成功しようが失敗しようが、誰に批判されようが、自分の中の決定事項。

肝っ玉の据わった人、といいますが、それは、その瞬間瞬間の自分を本能のままに振舞えていて、それを自分が許可しているのだろう。 意識が無意識を知っているというか、理性が感性と繋がっているというか、どこかどっしりとした安心感を感じさせられる。

責任ということについて書きましたが通じるものがあります。 自分の気持ちのみを優先させ、それが自分の意思だと認める。 全うしようとか、成功させようとか、認められようとかどうでもいい。 ただただ自分の満足と納得の為に、自分の勝手を許し、出せることであり、その延長に覚悟は待っています。

そういうものを掴みたければ、先ずは、嫌なものを省いていくことです。 勇気は要りません、ただ正直になって下さい。 自分は自分のままでいようと決まったとき、覚悟は自ずと生まれます。 自分のままでいる覚悟。 それって、一番シンプルなことなんですけどね。

それでしか自分の納得はないし、自分の自由は手に入らないのです。 イヤなもの、納得できないものは、出来るだけやらないこと。 感じるままに、感じる方向に行ってみること。 ムリを省き、ムダな努力を辞め、楽で心地よい方を向いてみること。 そうして、自分を喜ばせてあげることです。

自己責任と覚悟しかないだろう

その昔、捜索願いを出す経験をしてしまった。 簡単に言うと、息子が女と逃げ、クローゼットの中からその1ヶ月前に書いた2人の遺書が 見つかり、相手がいる事もあって、届け出たという訳。

まあ次の日に連絡があり、ガッチンコ対談ですよ。 私に言わせれば、反対を承知で付き合う覚悟があるかということしかない訳で、 そこんところが甘いと感じた。 最終的には本気度の問題でしかない訳で。

ということで、何が言いたいのか。 自分の人生をどう生きるも自分次第、欲しけりゃ行動するしかないし、 真剣さとか覚悟がなけりゃどこかで行き詰る。 家族にもそれぞれ考え方や感情の違いがあるので、お互い引く事はない。 家族であろうとイヤなら距離を持ち、自己責任で生きればいい。 お互いの人生経験を奪う権利はないからね。

それに伴う寂しさや辛さとか、落胆とか悲しさは込み込み。 自分の為に思いっきり泣いたり喚いたり、しおれるしかない。 親の為や子の為ではなく、自分は自分の生きかたに責任を持ってやってみればいい、 経験して体験して変化していけばいい。

今回の行動は、咄嗟の行動でもあり、親への反抗でもありました。 しかし、良いも悪いもない、うちでは普通の事。 自分の為に行動を起こす、誤魔化さず確認するってことにおいてはうちの誰もが 当たり前ですので、またまたガチンコしながら互いの確認、 自分の気持ちを確認するのみ。

自由を獲得していくという事は、責任や覚悟はもとより、家族全員が、 互いに、きちんと話しきちんと聞くことが大事だと思います。 これができる家庭であれば、それぞれがどれだけ違っても、時には絶縁になろうと 問題ではないでしょう。 親であっても子供の人生の責任など取れはしません、代われないのですから。 自己責任と覚悟、それにつきます。

こんな事があり息子は、意味を感じない大学生活を見切り就職しました。家を出て自活したいと考えたそうです。 善いか悪いかなんて何の意味も持たないですよ。まして、周りがどう見るかなんて問題外。大事なのは自分が自分をどうしたいのかであり、必要なのは自己責任と覚悟です。事が起きるごとに、真剣にぶつかり、それぞれの違いを認識しあう事です。方法はひとつ、先ずは自分に正直になることです。 欲しいと望めば、それは自分の手の内にあります。

自立とは素直になれること

「お世話になります」の記事にも共通することですが、 本当に自立できている人というのは、自分のことを素直に話し、 自分に困ったときには平気で人に相談でき、助けを求めるのもアリなんです。 そう、素直な人。 素直になれることこそ自立のもっとも大切な要素です。
「自立とはなんでも一人で出来ること」と思っていらっしゃる方は多いでしょうね。 子育てにおいて、そう躾けられますからね。 まあそれも間違ってはいないけれど正しくもない。 だって、「この世は一人では成り立たない」ということと、 「自分の領分(自分の限界、性分、らしさ)がいかほどのものか」の把握が抜けてますから…