人間の本質

傷つきが問題ではない

人は、どんなに過酷な生い立ちや境遇下でも、本質に傷などつかない、 ヒビなど入らない。 確かに、支配的・威圧的な環境下では、認知の歪みや行動のズレを惹き起こします。 しかしどうあったって、自分は自分でしか、居ようがない。 苦しいのは、曲げようとしても、芯まで曲がらない自分のもがき。

どれだけ傷つけられようとも、自分でなくなることができないから、 自分のまんまでいたら結果的に傷ついていた。 自分以外になることを拒み、自分になれないことへ苦しみ、 そのまんまでいることしかなかったから、結果的には傷だらけ。 でも、ホントは傷つくことが怖いのではないだろう。 勿論、傷つきはイヤだけれどね。

威圧者、強制者、支配者に原因はある、だから対峙や復讐があってもいい。 傷つけてきた者に対して、勝利を勝ち取るのは当然の権利でもある。 親と向き合い、怒り、訴え、全て吐き出すなど、大事なプロセスではある。 しかし、自分の生き辛さはそんなんでは済まないでしょう。 過去の体験が全てではない。 自分を確認し、理解し、芯まで掴まないうちは、物足りなさは消えない。

傷つきが癒されないうちは、傷つきに耳を傾けてくれる人を好む、当然です。 友人であったり恋人であったり、時には占いであったりカウンセラーであったり。 しかし、だんだん、傷にアプローチされるのは鬱陶しくなる。 傷の穴埋めが目的ではなく、不幸合戦をしたいのでも更々ないからね。 だって、奥の自分自身、芯は傷ついてないもの。 問題は、傷の回復じゃないからね。報復じゃないからね。

もし、自分が過去の環境でなかったら、自分の親でなかったら 傷つかなかっただろうか? いや、そんな筈はない。 全ては必然、ギブ&テイクでしかない。 いじられようが傷つけられようが、或いは、いじり傷つけようが、自分の生き様のプロセスに過ぎない。 体験での布石を確認しながら、自分を知っていくほか、道はない。 自分自身の誇りに沿って。

得したいというよりは損したくない。だから不安になるのです

デパ地下の実演販売のカリスマと呼ばれる、高級和牛でも何でも買わせてしまうらしい人が言ってた。 「お客さんは、得をしたくて買うのではない。損をしたくないから買うのです。」と。 そう!その通り! お得感を持たせるというよりは、今買わないと損するかも、と思わせる話術で瞬時に引き込む。 今これを買わなかったら後で損をしてしまうかもしれない、と、 自然に煽るのがコツなんだろう。

人は案外、損をしたくないという観点から突き動かされることの方が多い。 断じて得をしたいと考えるより、断じて損をしたくないと考えるからだ。 例えば、株安、今このチャンスを逃したら・・ このまま銀行に預けていたら損!? ・・ こう思うことから投機マネーの流れが生まれる。 この流れは、資本主義社会の姿でしょう。 また、いいなと思っていた洋服がバーゲンになった。 値引金額に、「今買わないと損!?」と、気持ちが駆り立てられてしまう。

ホントに欲しいか?ホントに着るか?ではないんだな。 今買っておこう・・でも着なかった、なんだな。 消費行動の第一の理由もこれでしょう。 百円均一の商品も、得だなあと思うより、損はないなあと思ってしまう。 こういう心理の流れが案外繰り返されるのは、損はしたくないという欲求の強いほうに、人間は駆り立てられるからです。 この心理はね、みんなが、「頑張らなくちゃ」「我慢しなくちゃ」と思ってしまう気持ちとそっくり同じなんですよ。

例えば・・ 学校行っとく? 卒業証書、あって得というよりは、なくて損したくない。立派な人、善人、聖人、賢人、富豪になりたいと 懇願しているのではなく、今より下がること、落ちることが嫌で頑張ってんだ。 悪人、バカ、負け、ダメ人間と言われたくないから頑張ってるんだ。 劣意識を駆り立てられ、不安でいたくないから頑張り続けるしかないんだ。 本気で上を目指してる訳じゃないんだよね。 やりたくてやってるんじゃないんだよね。 落ちたくないんだよ。 殆どの人がそう。

だから、逆に、頑張りたくない自分を持っている人、 位置の上下に優劣など感じない人などには、頑張る意味、我慢する意味がさっぱり解らない。 いや、この方がマトモなんです。さて、このマヤカシのカラクリなんですが、これ、人間の不安感をかき回しているんですね。 だから、そこを刺激されると、元に戻そうと反応してしまうんですよ。 頑張らなきゃ、もっと努力しなきゃ、我慢しなきゃ・・・ そうしてなきゃ、不安でたまらない・・・ このカラクリを少しでも理解していれば、 少なくとも自分が何故そうしたのかが解り易いでしょう。

人間放っておけば、楽な方へ流れる。そして…

人は、ほっとけば自分の楽な方へと向かうもんだ。 ぐうたら?構いません。 楽でいることに居心地のよさを感じたら、 その居心地をどう維持していくかを考えればいいのです。 人間、楽に罪悪を持つ必要はありません。

でも人によって、楽になったら嬉しい場所は違います。 私でいうと、掃除は毎日しなければ気がすまない、自分が落ち着かない。 掃除しないで楽チンとは思わないということです。 ある意味、ヒモでいたい人とヒモを喜んで養おうとする人のように、 欲求が噛み合っていれば問題などないのです。 働かず人の収入に頼る人をヒモと呼ぶなら、 稼ぐことに苦を感じずほかの欲求をその人から得られたら、 正にギブアンドテイクですもの。 それをお互いが意識していたら、相手の行為が「当たり前」ではなくて 自然に「感謝」してしまうものです。

ヒモという呼び名も 周りが付けたレッテルに過ぎません。 それぞれの居心地は違って当たり前。 だとしたら〈楽=ぐうたら〉でもない。 なんやかんや言いながら、人間は自分の楽だと感じる方向へ流れようとします。 それに身を任せれば、やりたくない事をしなくなる。 そう、頑張らなければいいのですからね。

人から見たら、ぐうたらに見えるかもしれない延長に、 その、ぐうたらなようで一番無心でいられる状態の中から、 「ん?面白そう」と興味の湧くもの感じる方向に、 自分らしさの可能性はある。シンプルに自分が自然に委ねていられると、自ずと興味のあるものに向かいたくなります。 そこに自分の可能性の芽がある。 だって、自分の中のアンテナがちゃんと反応してきますから。 これが成功法則でもあるのです。

人間の主張

全ての人に主張がある。 生きている以上、そこにその人の精神があり、その中に宿っている個性が 生き様というものを作っていってる。 だから、過去のいかなる行動も、ジャストジャッジでありジャストチョイスです。

~たら、~れば、は、ない。 そこにあったのは、生き様、あなたの意気地のみ。 意気地とかいうと意気地があるとかないとか、そうじゃないよ、 そんなんどっちでもない、 それがあなたの生き様なだけ。 気概というか、らしさ。 その奥に主張があるんじゃないですか?ということ。

例えば、 【小さい時、無邪気に振舞っていた私に、お母さんがもの凄い怪訝そうな顔つきで睨んだ。 その空気ったら、ゾッとするほど恐ろしくて、その瞬間、自分が無邪気に振舞っていては いけないんだと悟った。それからは必ずお母さんの顔色を伺い、失敗しないよう 振舞うのが普通となった。】とする。 この子にとって、他の選択はなかったのでしょう。 そしてこの行動がこの子の意気地。

意地といってもいいくらいの、そこにその子の主張がある。 お母さんが怖かったのもあるし、好かれたかったからもあったでしょう。 だけど、誰にも気づかれなければ気づかれないほど、その主張は叫びに変わり、 その叫びが自分を混乱させていきます。 自分ですら訳がわからなくなり、自分が暴れ出します。

治めるには、主張を聞きにいくことです。 自分が自分の、そこにある主張を、しかと聞きにいくことです。 根底に宿る自分を見つけられるのは、自分しかいませんからね。

他人の理解などできるのだろうか

他人のことを、心底、理解している人なんて、いるだろうか? 自分のことを、心底、理解している人が、どれだけいるだろうか? 私が人と向き合っても、相手のことを100パーセント全部理解することなど出来はしない。 実際に、私は相手を理解しようとはしていない。 相手を本当に解ることなど、出来ないということを知っているし、 他人のことが全部解るなどということは、おこがましいとさえ思う。

私は、その人本人が、自分を理解する為のナビでしかない。 私自身が知っているのは自分であり、人間の本質。あらゆる人間の本質が 自然の法則にのっとっていて、個々に主張があるということを知っている。 だから、性別も年齢も職業も上下も関係ない、ただの人間同士の本能的、 本質的な部分でしか対等に対話できないし、私はそうしたい。 それ故、どうしても世間の会話とは、かけ離れてくる。

世間とは「他」、「自分以外」ということであり、世間の中で生きるということは、 少なからず他人を意識しているということ、 即ち、人の行動は他との比較を感じています。 例えば、赤ん坊の頃は、本能のまま自由奔放に表現できていても、 世間が広がるにつれ、他を意識して社会性とかが身につく。 世間を意識しだすと、それぞれの本質の違いが行動を選択し、個性というものを 確立していくが、敏感に他を意識してしまう程、世間一般の価値観に巻き込まれ、 本質が見失われ自分が解らなくなってしまうのです。

親との価値観の違いや境遇により、行動は不自由になることもあります。 自分を知っているのは自分だけ。 人の感覚を、全く同じように感じることなど出来ません。 解るとすれば、同じような場面で感じた事がある自分の感覚。 同じではないが、人間として解りうるに過ぎないのです。 だから、敏感な人の感覚は、鈍感な人には解りにくいし、これも、 いたしかたのないことなのです。

敏感な自分を嘆く人もいますが、私は自分を知ってますます敏感な自分でしか あり得ない。楽しいも嬉しいも、悲しいも悔しいも、人一倍に反応している、 そういう自分が面白いと思っている。 敏感であればある程、喜怒哀楽は激しくて当たり前、 それをちゃんと感じてやれるのは自分しかいないですからね。 生きている実感、喜怒哀楽、自分の味わいを、奪われてたまりますか!

感情に優劣はない

感情に優劣はありません。感じるまま味わってください。感情に善悪などありません。皆平等です。多くの人は、嬉しい・楽しいに比べて、憎い・悲しい・寂しいなどを感じるのを恐れ、 抑えようとされる傾向があります。 感情を種類に分け、評価されているようです。

しかし、感情の善し悪しを比べ、評価するなどということができるのでしょうか?そういう不自然な行為が、結果、苦しさや違和感となるのです。感じるにはそれなりの理由が、必ず存在します。優劣などありません。 もっともっと感じていいのです。自分に忠実に、何にも邪魔されず感じることを許可してください。

安心感とは

安心感というものは、「絶対にそうならない」というどこか完璧を目指した 偏った思考になることではなく、 「そうなることもある」という、オールマイティーな思考の基で取り組めること。 例えば、 「夜が怖くて眠れない。夜になると不安が押し寄せてきて安眠できない」とする。 そんな状態の時の安心感とは、全く怖くなくなることでも、怖い夢を一切見ないようになることでもなく、「怖くなくなる」という発想から抜け出て、「怖くなっても元に戻れる」ということを信じられることにある。

分かりやすい例でいうと、「彼氏ができて夜が怖くなくなった」という経験はおありだろうか? それは怖さがなくなったのではなくて、怖くて目が覚めても彼がその気持ちに寄り添いなだめたりしてくれることで、その恐怖から素早く引き返せる、怖がる自分を出せることで、その怖さを済ませることができる、怖さを通り抜け、戻ってこれるという安心があるのです。 つまりは、自分は何もしていないようでも、側にいてくれる彼氏という存在を 上手く使えているのですね。 結果的に、「喩え怖い夢を見ても大丈夫という安心感が得られている」ということなのです。

このカラクリが理解できると、彼氏という存在なくとも、安心感はあなたの手の内に掴めるということになります。「怖くなったらどうしよう」に縛られず、「怖くなっても大丈夫」という発想こそが安心感の源。 これなら誰にでも手に入れられるものですから。

怖い ⇒ 怖いまんまの自分 ⇒ 怖くならない自分になろう
ではなく、
怖い ⇒ ああ 怖い怖い ⇒ 怖かった
と過去形となれる。

これは、他のことにも当てはまります。 明日の試験、明日仕事に行くの嫌だなあ… と不安や恐怖心に襲われるとき、 怖がらないようにするのではなく、怖いまんま行こう。 つまりは、なんのことはない、怖いということは変わらない。 安心感を手に入れるには、先ず 怖さを認め拒否らないこと、それが、怖さから逃げないということでもあります。

認知のズレと絶対的安心感

骨がズレると違和感や痛みを感じるように、心がズレると違和感や生き辛さを感じます。 心のズレとは、認知がズレてしまうこと。

例えば、「みんな仲良く」という教えが染み込んでいくと、人と意見が違ったとき、 我を引っ込め相手を優先させ、円満解決を目指してしまいます。 従順なばかりで自分の意見を見失い、自分がわからなくなってしまい、いつしか 親や規律を参考にしたり、いつでも誰かがいないと生きていけなくなってしまいます。

あくまでも認知は自分の見解、それを「仲良くすべし」と教わることで、相手に 同意できない何かがあっても、自分の認知(例えば、こいつと仲良くしたくない、 こいつは嫌いだ という認知)を曲げることになってしまう。 仲良しが善行という、どちらが○×かを基準に動くようになるので、 いつも世話しなく自分を戒め、裁くようになってしまいます。

これでは自分自身の認知から離れるばかりで、いつでも不安が付きまとい、 安心感など持てはしません。 自分の認知とは、自分がどう思い、どう感じるか。 その考えや気持ちからズレた行動を取り続けたとき、違和感や気持ち悪さ、 何らかの身体的症状や日常的な生き辛さを感じるのです。 もともとは、誰もが自分の認知(個性)を持ち合わせて生まれてきます。 それがズレるのは、大概が親や家族の影響です。

例えば、成績の良し悪しで、褒められれば嬉しい、叱られれば悲しい。 しかし、日常的に親の一喜一憂な態度に揺さぶられると、認められるため、 親を喜ばすために頑張るようにもなる。 そういう親の多くは、「あなたの為」を連発しやすいが、そう言うことで親の優越感や 自分の承認の欲求を「子供の為」に摩り替えている。

子供は、自分の認知のズレにも気づかず、親のために右往左往してしまう。 そう、自分の安心感と引き換えに、親の安心感を守り続けているのですよ。 そもそも自分の認知を持っているにもかかわらず、認知の上塗りをされ、 ズレまくった自分に気づいてもいなければ、苦しいのも当たり前。 だからこそ、先ずは自分の認知を再確認し、二度と奪われないようにすることです。 自分が一致していれば、絶対的安心感は得られるものです。