生き辛さ

生き辛さとは窮屈な服を着ているようなもの

生き辛さとは、窮屈な服を着ているようなもの。 そもそも服を着ていることすら気づいていなかったり、 その服が窮屈だとか、動きにくいとか、着心地が悪いとか、 全く気づかずに過ごしているようなもの。 気づいてしまえば、ぬいだり着替えたり自分仕様に合わせるだけなんだけど、 この気づきがなければ始まれない。

自分が、きつい、ダブダブ、と感じなければ始まれない。 自分が感じないのならそのまんまでいいのだけれど、 合わない服を着ている以上、行動に何らかの支障が出てくる。

例えば、少し動いただけで息苦しかったり汗びっしょりになったり、 原因はわからないんだけどなんか変だなと思う、 これが生き辛さのカラクリ。 この、気づきを促していくのがカウンセリングなんですが、 服の着心地より見栄えを気にしているような状態では解りにくいし感じれません。

つまり、人からどう見られるのかが気になっているうちは、着心地がどうかなんて 気にしていられないということ。 服の批評こそが重要だと、いくら着心地が悪くてもそんなもんだという事になってしまい、 服に合わせて振舞うようになってしまいます。 服の評価が自分の評価となり、着心地が悪くても 感じないように振舞い続けて生きるようになってしまうのです。

合わない服を着ていると、または、服を着ていること自体に居心地が悪いと、 しっくりしません。 何かが変だという感覚は残ります。 どんな人でも、自分にしか解らない、自分でしか感じようのない感覚です。 いつでも自分に合わせて、 今日は作業着、今日は勝負服、と、意識的に着替えられたら楽になれますよ。

生き苦しいのは自分に適応していないからですよ

生き苦しさの原因は窮屈な服が自分に合わないということ。その表現を変えれば、それは自己不一致状態であると言えます。 社会に適応できないからでもなく、他人に迎合できないからでもありません。 自分に適応できていない、自己不一致な状態なのです。

人はどうしても、他人と関わりあって生きています。 関われば比較が生まれます。 嫉妬、妬み、僻み、自惚れ、傲慢などなどが生まれ、 欲望が芽生えたり執着が生まれたりします。 自然で当たり前な人間の心理です。

ところが 自分の感じるものが、人とおんなじ、並み、普通の幅に入りきれていないんじゃないかって思っちゃうことが続くと、自分だけは弾かれ外されてしまうんじゃないかって不安になるんだよね。 そこに苦しむ。 それ故に頑張ったり我慢したり、社会に適応しようと、他人に迎合しようと必死になる。 人間同士の関わりというものを意識するので、そうなるのも当たり前。

でもね、そうして自分を見失い、疲れていく。 だって、自分の適応範囲から外れていくもん。 自分の考えてること、思ってること感じてることを、世間の一般概念に押し込めようとするので、しっくりこず違和感を持ち落ち着かない。 自己不一致、自分不適応状態となる。 社会に適応し、他人に迎合していけばいくほど、生き苦しくなるのです。

不毛な完璧主義、そしてプライド

プライドが高く、自分の中の完璧をイメージしている人は、 全部を完璧にしたがる。 すると絶対、時間が足りない。 すると益々忙しく、完璧から遠ざかる。 従って焦る気持ちを抑えられなくなる。 これがストレス生成方程式。ストレスが溜まり過ぎるとかったるくなる。 先が思いやられてきて、嫌気が差してきて しまいには自分に、 根性ないな 根気ないな 俺ダメじゃん! そういうのなれっこないじゃん! と思うようにもなってしまう。

こうなり始めると危険、 どつぼに嵌る入り口付近です。 いろんな場面で完璧を目指してしまえばしまうほど 途中挫折感は増え、 自信喪失となっていく。何気に上手くいってるときには気づかなくても、 完璧主義であればあるほど どこかで破綻する。 頑張ってる俺好き!と言えてるうちはいいが、 そのうち、必ず苦しくなる。 ストレスは付き纏う。 ところが プライドが高いままの人はそれを受け入れられず、 顔で笑って心で怒っている。

完璧主義でプライドの高い人の盲点は、 完璧になれば勝てる 優位に立てる 好かれるというような、 賞賛と承認が手に入るんじゃないかという エサがぶら下がって見えること。だから辞められずに 止まらなくなる。 それが幻想だとわかってきても辞められないのは、 高すぎるプライドがあるからだろうね。 プライドとは、 負けを許せない自分の 『無価値感への恐怖と承認欲求』。 でもやってもやっても得られないどころか、 どんどん独りぼっちになり 孤立していくばかり 本末転倒… それでスネて引きこもっちゃう人は いますけどね。

このカラクリに身に覚え、ありますか?どうしても辞められないのは、そのプライドの奥にある承認欲求がどんな犠牲を払ってでも 喉から手が出るほど欲しいものなのでしょう。しかし、そこから抜け出るには容易ではありません。敢えて言うなら、孤立とプライドを天秤にかけ 孤立したくない気持ちが優位に立ったとき 初めて自分の無力さに気付け、 完璧主義の力は緩み、ようやく等身大の自分が、 他人に 「頼ること」と「甘えること」を許可できるのです。

恐怖の土台

カウンセリングをしていて思うこと。 自分が自分の事を、弱いとか暗いとか恥ずべきな存在など、自分に対する自己否定が強いうちは、なかなか自分を見つめたり過去を振り返ることがはかどらない。 そういう自分に対する自己否定感が少しづつ緩和されてこなければ、自分と対峙することは難しい。

そもそも自分の事を、弱い、暗い、恥ずべき存在だと思われてるいう疑惑があったり、実際に言われ続けてこられた経験があると、そこから逃れるために自分を封印し他人から好まれる自分を演じてしまう。 そしてその疑惑があるうちは、どうしてもその疑惑の思考から考え行動する。 それだもの自己否定しかなく、というより自己否定の縛りで、その下の本来の土台を封じ込んでしまう。 「オレが弱いからフラれたんだ…」 「ワタシが暗いから仲間に入れてもらえないんだ…」とね。 「だから、もっと堂々としなきゃ…」 「だから、もっと明るく振舞おう…」となる。

しかしその疑惑からの思考ということは、その時点で、その言動は本来の自分自身の思考ではなく、『本来の思考』の土台の上に作られた『恐怖の思考』の土台からの発信ということになる。しかも、それは本来の思考を否定し、恐怖の思考を肯定している。従ってそこから発信される言動は、本来の土台を完璧に見張った、安心感など全くない恐怖と不安だけが渦巻いた世界です。

先ずはこのカラクリをきちんと自分のこととして理解することが先決。 カウンセリングとは、自分が弱いとか暗いとか恥ずべき存在で、そういう自分を変えることではなく、ただ認めるだけではなく、恐怖の土台の奥に控えている素の自分の声を聴き、素の自分を引っ張り出すことなのです。

自己否定感

自己否定も、なきゃ我慢できなかったからね。 自分卑下も、しなきゃ頑張れなかったからね。

例えば、自分のせいだ、自分が悪いと思えれば、引く事も 収めることも出来ますからね。 そうするしか、手立てがなかったのでしょう。 自己処罰も罪悪も、必死に人と交わろうとする、認めて欲しい、 仲間になりたいと思う意地だよね。 それには敬意すら感じるけれど、 生き辛さや不自由を感じているなら、再考した方がいい。

自己否定は後付けの認知、過去に刷り込まれたマインドコントロールなので、 今、もう、いらなきゃ取れる。 しつこく染み付いているけれど、自分に必要がないと解る毎に、軽減されます。 自己否定が入ると、そこで止まってしまいますからね。 例えば、人に騙されたり、フラれたとき、自分のせいだと思うと、そこ止まり。 仕方がないで終ってしまう。

自分の欠点や落ち度を探し改善するのは構わないが、 自分卑下があるのでつい相手の気に入るような路線を目指してしまう。 自分の中の反応に肯定感が持てないので不全感が残るし、 同じことを繰り返してしまう。 いつまで経っても、幸せになれないなと感じ、 そういう自分を、また否定してしまう。 そんな迷路を彷徨っている感じがするなら、立ち止まって下さい。

今まで培ってきた自分の否定感を、大事に扱って、 きちんと自分を振り返ってみると、次第に解ってきます。 自分が、なぜ否定感を持ち続けてきたのか、自分を卑下してしまうのか。 解ってきて、はじめて、どうしようかと思案できるのです。

自己否定、それもいいんじゃない?

自己否定には意味がある。だから、したいだけすればいい。 自己否定には、強い力があります。 それだけで自分のエネルギーを一旦止められ、 自分以外を円く収める効力があります。 そうする為の苦肉の策?そうまでしたい何かが存在しています。 自己否定や自分責め、自己処罰に苦しむことで、 もう誰にも責められたくないという意地が見えます。 自分が自分を裁くことで、誰にも攻められる余地を与えない、 苦肉の防衛壁です。

つまり自己処罰や自分の心や身体を傷つけること、或いは病気になることで、自分の奥から溢れ出る感情や感覚、意識をそらし、平衡を保とうとします。 自分を苦しめることで、人に伝えたいことや得たいものをアピールします。 または、自己否定することで、欲求を押さえます。 でもどれも、すり替えです。 もしも自分が悪くないなどと考えようものなら、そこから湧きあがる感情の凄さ、自分の怒りの大きさに打ち震え、そういう自分の凄さに恐怖を感じてしまいます。

まるで自分が悪魔になってしまうような、ひとりぼっちになってしまうような、そんな恐怖感を抑えるのに、まさしく自己否定は有効です。 誰にも迷惑をかけない究極の抗議であり、究極のファンタジー、自己陶酔がそこにあります。

自己否定には、人の為ではなく自分の為の訳があります。 自己否定をしてまでも守りたい自分の何か、自分の事情、 自分の主張が隠れています。 自分を否定するのって、訳もなくしませんからね。 好む好まないはともかく、確かに意味があります。 気の済むまでやることもよし、そして、否定が済んだら、見えてきます。

とらわれの2パターン

誰でも、不快な気分に陥ることがあるでしょう。 例えば、「こうあるべき」という思いに裏切られた時、「こうあるはずではない」という 不快な気分に陥いります。 その不快な気分に思い悩み、その気分を否定し、それを振り払おうとすれば するほどはまり込む状態が「とらわれ」、エネルギーがそこに偏っていく状態です。

それに執着しやすい方にはあるパターンがあります。 例えば、電話恐怖の場合、電話が鳴った時ドキドキしてしまう。 恐怖や不安などが襲ってきて、その不快感を抑えようと、消そうとする。 けれども一旦感じてしまった不快感を無いものにすることは無理。 にもかかわらず、振り払おうと格闘しその矛盾にとらわれていく。 電話の音が恐怖なのではなく、その時に沸き起こる不快感に。

それは、以前に電話業務で味わった憤りや不満、恐怖など、抑圧されていた感覚を 思い出したとか、母親からひどく叱られ、自分を否定されたと感じたときに 電話が鳴り響いていたとか、そういう経験と結びつく事があります。 それが電話の音と繋がるとその気分にとらわれてしまうのです。

このようにエネルギーが偏っていく状態を「神経症的傾向」とすれば、もうひとつ、 エネルギーがなくなっていく状態の「うつ的傾向」のパターンがあります。 うつになりやすい方は、「こうあるべき」という主観に向かって、頑張って頑張って、 優、上、美、明などを求めて振舞い続け、ある時自分の主観としての理想から、 劣、下、醜、暗などの立場になった時エネルギーが減少、なくなっていく状態です。

例えば、よき妻・よき母を目指し、無理や我慢を美徳と考え、他人や社会を意識し、 明るく立派に振舞い続け、ふと理想より劣っていると感じたとき、または、装うのに疲れた時、何もやる気がなくなってしまう。 或いは、第一線で活躍していたサラリーマンの退職や、大きなプロジェクトを退いた時、 自分を、無用・価値が無いと感じてしまうと一気にエネルギーが減少していく状態。

どちらのパターンにもいえる事は、自分のこころのあるがままを拒否していること。 そしてどちらも共通して、思い込みの価値観から反応しているのです。

不安の正体

人間は、脳の発達に伴い不安を生んだ。 それは脳が「死」というものを理解し始めたときから始まった、 人間特有の産物だと思う。 例えば、死を目の当たりに意識すると不安を感じる。 しかし不安の完全消滅は果たせない。

そこで創り出したものが、神や死後の世界、或いは善と悪、天使と悪魔。 それらの出現は、私たちが神に近づけるような錯覚を刷り込ませた。 善行に励むことで不安を取り除こうとしたり、上昇や成長により 不安から目を背けようとさせる。宗教の出現はまさにそうだろう。 現代では、富や名声、権力で不安を安心に変えようとやっきになっている。

しかし、生きている限り不安は付きまとう。 不安は消せない。 そして、不安はあっていい。 不安とは、『わからないこと』。 正体が見えないこと。 未来のことなどわからない、ゆえに不安はつきもの。 それならできる限り不安を減らすには、やはり、この瞬間を生きること。 過度な善悪感を減らし、上昇志向から出来る限り脱却することです。

今、不安で一杯なら、もう一度自分を見つめなおすことをお勧めします。 過去を過去にすることで今に焦点があってきますのでね。

不安と不自由の関係

カウンセリングでは、ひたすら自分を直視していく作業の繰り返しです。 ですが皆さん、自分の本性というものは、案外、うすうすではありますが、気がついているものです。 しかしながら、うすうす気がついているというものの、それを意識上にはっきりとさせていくことに躊躇があるのは、自分の本性を認めるのが怖いのではなく、本当の自分を認めてしまったら、そういう自分は誰からも相手にされないのではないか、 誰とも関われなくなるのではないかという不安が、現実のものとなってしまうのではないかという恐怖があるからです。

自分の本性が、いかに激しく、いかに頑固で、いかに鋭く、 いかに拘ってしまうのかを知っていて、そういう自分を一番裁いていて、一番ビビッているのが自分です。 自分の本性に自分が怯えているので、そこから動くなんて到底できないのです。 素の自分で生きる不安より、周囲を優先させ自分が不自由でいることの方が、安全なのです。 素の反応を打ち消す為に自分を見張り、周囲に紛れることの方が、安心なのです。 アタマではね。

しかしみなさん、心の奥底では案外、というよりは当然、自分の本性は、嫌いではありません。 嫌いなら、自分を悪だとか劣だとか本気で思っているなら、当の昔に変わっています。 努力不足なんかじゃないことは、ご自分の本性が一番知っている筈です。 どこまで行っても、自分からは逃げられません。 自分の影からは、到底、逃れられません。 この世に地獄があるとすれば、それは自分の心の中にです。

自由でいるには、不安に苛まれる自分との同居を許すことになります。 それは、不安でいるのは嫌だけど、不安になるのはダメじゃないと理解できることです。 自分が勝手に感じてしまう気持ちに対して、「そうだ。」と自分に対してきっぱり言い切れることです。 ただ正直に、ただ自分の気持ちを「そうだ。」と言うためには、その気持ちの裏づけを取っていくこと、即ち、ひたすら自分を直視していくことです。 自分は自分にしかなれない。 自分になることでしか納得できない。

~だったらどうしようという不安

~だったらどうしよう という不安は ~だったらどうしようと思うことで、 そうならないように回避したいための 自己防衛。 自分が窮地に陥らないために自分を見張る、 自分の中の本能的な 回避規制。 しかし、 ~だったらどうしとう という不安があるということは、 もうその時点で、そのものに対して恐怖を感じている。 もうその時点で、それを怖がっている。 だから、その不安、恐怖がある時点で 安心して、そのものに向かえる筈はない。

従って、成功などするはずも無く、 ~だったらどうしよう と思っている通りになってしまい易い。 それをなくすには、不安や恐怖を克服するのではなく、 不安や恐怖があるということを認めること。 そして、自分は不安だ、自分は怖い、という事実から逃げないこと。 逃げない と決めることだ。

つまり、「~だったらどうしよう」「~なってしまったらどうしよう」と、 ~ならないことを願ったり、~ならないことを目的にしても意味がなく ~なってしまっても 自分はその事態・その事実を受け入れる。 そういう覚悟を持つことが、自分から逃げないということであり、 責任ある一人の人間として生きていく唯一の方法だ。

ミスするのが怖い → ミスしないようにしたい → ミスしないためには  という思考回路ではなく ミスするのが怖いが、ミスしたらそれは自分の責任で、 その事実を受け止める覚悟があるかどうか。 大事なのは、ミスするか成功するかではなく 自分の成すことがどういう結果になろうと、そのことに胸を張って 「自分がやりました」と言い切れることである。

心配は自分のためにある

心配は自分のためにある。 他人のためにするというのは、言い訳、すり替えでしかありません。 例えば、遅くまで帰ってこない家族が心配なのは、事故しやしないか、 悪いことしてないか、事件に巻き込まれてないか・・ なんて、そうなったら嫌だと思う自分の不安な感情です。

心配というのは、自分が巻き込まれてしまうことや自分が困ってしまうこと、 自分が責任を負うことになることを恐れる不安な気持ち。 自分ごとではないのでどうすることもできないジレンマです。

例えば不登校の子供を心配する親。 卒業できるかしら、将来どうなってしまうんだろう・・という心配は親のもの。 世間体や自分の期待を裏切られたくない不安な感情。 安心感のなさから生まれるザワツキを放っておけない、自分の気持ちです。 特に、家族や親しい人などに対し、期待や依存があれば、自分の思いが乗っかり 心配は増幅されます。

また、状態や状況に優劣や善悪感情が強い方ほど、時にはその相手に心配を 押し付けてしまいます。 しかし、私が言いたいのは、「心配するな」ということではなく、「その心配は自分のものだ」ということを理解せよということ。 それを相手に押し付けるなということ。 相手の人生は相手のものです。 相手の責任は相手のものです。 それが少しずつ理解できると、自分と相手が少しずつ切り離せ、 心配をする必要性も減ってくるということです。

苦悩と向き合うこと

人の苦悩というものは、その人らしさの象徴です。 例えば、苦悩の中に、「寂しさ」があります。 心の寂しさの多くは、心の自由を妨げられ続けた過去の意識です。 当時の環境や境遇の中で、感じたことを自由に表現することが出来なかった為に、 置いてきぼりをくった、心の声です。 境遇というものは、実際には、取るに足りないものです。

例えば、周りの事柄や、周りの人と絶縁できたとしても、自分自身と絶縁することは 出来ない。境遇が変わっても、新しい境遇に、自分自身の苦悩を移すだけのこと、 影のように、苦悩はついてきます。 新しい境遇は、その苦悩を映す鏡に過ぎません。 なぐさめてくれる何かを探しても、物足りなさは消えません。 他に求めても、逃げても、自分が向き合おうとするまで、終わらないからです。

心の自由を妨げられるとは、両親が不仲だったとか、貧乏だったとか、 そういう状況で生じるものではなく、どんな状況下でも、あるがままの状態、あるがままの 気持ちでいることを否定されたり誤魔化されたりし続けると起こるものです。

例えば、忙しい商人の家庭で、親が子供に関わる時間が少ないとする。 これがうちの普通、自然なことと考える親であれば、子供は、それなりに寂しくとも、 その家庭の状態を知っていく。 ところが、子供に関われないことを、不憫に思う親は、子供に、いつもすまないと謝ったり、 物で埋め合わせしようとしたりする。 そうすると、子供は自分の状態を、不憫な可愛そうな子と認識したり、すまなそうな親 に対して、寂しいと言えないばかりか、明るく振舞ったり、孝行な子を演じようとさえする。 そうする為には、自分の心で感じる淋しさを封印する必要があるのです。

また、例えば、傲慢な父親に逆らえなかったり、世間体や体裁を気にする母親が、 聞き分けのよい子や大人しい子を作ろうとする。 あたかも子供の為、と称して、自分の防衛のために子供を利用する。 母親を不憫に思う子供は、親に気を使い、一生懸命理想の子供になろうとする。 そこにあった理不尽を、すでに解っていながら通さざるを得ないときは、 湧き上がる怒りと悲しみの全てを封印せざるを得ない。 自分の心に感じる自由を封印せざるを得ない。

環境が変わっても、満たされなかった心は、自由を求めようとするが、今となっては 何がなんだか、自分が何を求めていたのかすら解らなくなってしまう。 いつも何かが違うと感じつつ、同じような繰り返しに不全感が残る。 孤独感、承認欲求が付きまとうということです。 苦悩を終えたければ、苦悩と向き合うこと。辛い状態をすり替えず、 ひたすら、浸ってみることです。

克服や強い人間になろうとする方法など、問題外。 置いてきぼりの感情を味わいに、封印を解くこと、自由になりたい気持ちに責任を 取ってあげること。 過去に残る想いを辿り、事実を突き止めてあげることです。

足長おじさんにプレゼントはない

困っている人を助けてくれる足長おじさんに援助者が現れないのは、 彼がプレゼンター(提供者)だからです。 理由はどうあれ、その人がプレゼンターである限り、 周囲は、そうとしか見ない。 援助されたければ、そう(援助されたいと)見られる必要があるのです。

足長おじさんが、実は、自分の寂しさや悲しみを紛らす為でも、 相手の気持ちや状況を慮れる人であるほど、 自分側の気持ち、自分の状況を隠す事に長けています。 相手への配慮、気配りから、 努めて自然に、或いは当然に振舞うでしょう。 サンタクロースのように、 どこからみても無理を感じさせない雰囲気を装うでしょう。

いつかは自分にも現れるんじゃないかと思いながら、 親切丁寧に振舞えば振舞うほど、 相手からは、そういう人だとしか感じられません。 ありがとうと感謝され、 一時の喜びに包まれても、自分の孤独感は満たされません。

プレゼンターが趣味であるなら、 自己満足であるなら、大いに結構。 しかし、いつか自分も満たされたいと願うなら、大変なご苦労でしょう。 足長おじさんがプレゼンターであることを自覚していないと、不全感が生まれます。 プレゼンター(提供者)が要求したら、それは、おかしい、となるのです。 プレゼンター(提供者)が提供しなければ、これまた、おかしい、となるのです。 すでに条件つきの人間関係に陥っているのです。

要するに、「相談役」というカードを掲げている人が、「相談者」のカードを出しても、 「相談者」のカードしか持ち合わせていない人から、「相談役」のカードは 出ないのですよ。 足長おじさんにプレゼントはありません。あっても、感謝状くらいでしょう。

もし、自分へのプレゼンターをお探しなら、 その足長おじさんを、自分に向けて下さい。 せめて、サンタクロースならクリスマス。 サンタクロースに期待するのは、年に1度のクリスマス、 そういうもんだと解っているからね。 いや、それでも、かったるいけどね。

「数に入れられない」ということ

恐くてビビるのもドンくさいのも、カッコ悪いし恥ずかしい。 臆病なのはダサいし、弱虫なのはダメ。 みんなと同じことができないのは、目立つし屈辱。 ちっちゃい事でも気になり、細かいことに引っ掛かる。 それをからかわれたら悲しいし、悔しいけれど、平気なフリして笑ってる。 恐がりで弱虫で臆病な自分、些細なことに拘りたくなる自分、 そういう自分を気にしていないように振舞ってきた。

いつもそうして自分を騙して、フリしてる自分を悟られないように生きてきた。 カッコつけて気にしていないように、どうにかバレないように生きてきた。 だって… もし自分が、本来の恐がりで弱虫で臆病で些細なことに引っ掛かる自分のままでいたら… …

フリしてフリして平然を装って、そうまでしても欲しいもの、それ以上に嫌なことがある… それは、 人から相手にされること。 自分も数に入れられること。

その為なら、どう思われどう見られようと、バカになることなどへっちゃらだ。 自分が無価値じゃなくなるためなら、どんなこともいとわない。 相手にされなくなること、それこそが人からバカにされるということそのものだから。 バカにされないために、自らバカになってきた。 自分の尊厳を切り売りしてまで、「数に入れられない」寂しさを感じたくなかったということか。

ちゃんと知られたい

自分のことを知られたい。 自分が今、怒っていることを知られたい。 自分が今、悩んでいることを知られたい。 自分が今、悲しんでいることを知られたい。 自分が今、とっても寂しいことを知られたい。 ちゃんと知られたい。

でも、気付いてくれないから、ずっとスネている。 知られないからスネている。 スネてるから、自分のネジは止まったまんま。 そして年月が過ぎ、 ずっとスネ続けているということを、自分でも忘れてしまう程の年月が過ぎ、 それでも知られるまでは動かない。

手柄

人へのお世話が手柄だと思っているうちは、それに対する賞賛や価値を与えられないとき、鬱憤や怒りがたまる。

人へのお世話は、時にめんどくさくやってらんねぇと思うことでもあるのに、それを感じられてない。

おそらくその境遇から培ったことであるのだろうが、その気持ちを抑え、通り越して、認められることに欲求があること自体がゆがんでいる。

それだもの、人へのお世話などせず、自分のしたいこと言いたいことを心置きなくしてる人に腹がたつのは当たり前。

人生が立ち行かない人達に見られる2つの壁

自分の人生が思うように行かない、何をやっても上手くいかない。そう訴える人の多くにある症状は「対人恐怖」であり、怖いという自覚をお持ちの方は多いです。が、その怖さが何で何処から来ているのかについてはイマイチ分からない。怖さというものは何者をも覆い隠し、止めてしまう力がありますから。

今回のテーマは、その怖さの奥にあるものに踏み込んでいきます。

そして、どうしても自分の人生が立ち行かない、何をしても上手くいかないと悩んでおられる方のご家族に分かって頂きたいのは、【そこには長年の間に積み上げられた積年の想い】があるということです。
ご本人はもとより、是非ご家族にも読んで頂きたいと思います。

【恐怖の奥にある2つの壁】

ひとつは、許せない「怒りの壁」
もうひとつは、認め難い「思い込みの壁」

この2つが地層のように固くて分厚く積み上げられいます。
しかし自分が生き生きと人生を掴むには、この2つを理解し溶かすことが必須です。
説明していきますね。

●許せない「怒り」の壁

自分というものの存在が「ありのまま」でいられない、その原因が何であろうと、その期間が長いほど心は鬱屈する。自分の個性・癖・気質、そういうものに光が当たらなければ心は育たず、その心は次第に空しく荒れ果て行き場を失っていく。
そうして誰にも見出されなかった心は、次第に自分自身からも見放され、出口のない怒りで充満してしまうのです。

その怒りは、自分いじめや強迫神経症となったり、慢性的に何かにキレていたりと、いつでも怒りの矛先を探してしまう。出してもしんどい、出さなくても辛い。何故なら怒りという感情は、ホントはとてもデリケートなもので、自分の心に直結しているからです。

そして、怒りの解決を親や周りに求めても責任を請うても、所詮は自分で向き合うほかなく、だけどこの大きすぎるまでに膨らんだ怒りを自覚して対峙するには、自分ひとりではなかなか太刀打ちできない。
こうして意識下で暴れまくる怒りを心に閉じ込めたまま、何年も何十年も先送りしてしまうのです。

カウンセリングにおいて先ず止まり抗うのがここ。怒りの深さに気付きたくない、気付いても出したくない、心は暴れそして拗ねる。逆にキレっぱなしで言うことを聞かない。どうせ分かりっこないと更に閉じこもる。
と、これまでに溜めた「許せない怒り」がいろんな形で噴出し始めるのです。

怒りに触れていくのは心に触れていくことなので、それはそれはデリケートで難しい作業です。カウンセリングの現場では激しい感情や言葉が行きつ戻りつし、抵抗し辞めたり再開したりの繰り返しもあります。
これが現実、だけれども、それでいい。何度でも、この怒りから逃げず、触れること話すこと、言葉に変えて行くことを辞めてはいけません。

●認め難い「思い込み」の壁

本来なら、生まれつき持ち前の気質や癖に興味と関心を持って生きてこれたなら、その心は、ただあるがままの唯一無二の存在として生きていくことができます。

しかし周りの環境次第で、その性質は如何様にも変化しやすく、特に慢性的な抑圧下における心は、その環境に適応しようと必死になります。

例えば、置かれた環境下で状況把握をせざるを得ず「良い子」でしかいられなかった子。従順で逆らうことを知らない子。或いは、友達と馴染めない自分はダメだと自信を失う子。そんな子は沢山いるとお思いでしょうが、慢性的に蓄積される悔しさを誰にも見出されずにいたのなら感情は抑圧され、自分というものの存在、つまり自分がどういう人なのかが分からなくなっていきます。
これは本当はとてもおかしなことなのですが、良くも悪くもこうなります。

人間は、置かれた状況下で自分の価値を見出そうとし、その為には自分を捨ててまで誰かに迎合・融合し、その環境下に適応しようとする。つまり「擬態化」してしまうことも多く、そうして先に書いたような怒りを増幅させるのです。

その陰で起きる1番の問題、それは、本来ならば自分が育つためにしてこなければならなかった、又は経験することで育つはずだったものが「手付かず」なことです。
これはコミュニケーションや行動の経験・体験の全てに関わるもので、実体験での失敗もない代わりに成功もなく、そこからはチグハグな思い込みが生まれてしまいます。

小さい頃から人に従順になることで褒められ、人を思いやれることで感じた「自分は分かっている」「人より凄い・偉い」という思い込み、「自分は間違ってない」という思い込み、或いは実体験のなさからくる「やりさえすれば出来る」という思い込み、逆に「どうせ出来っこない」という思い込み。これらがどれほどイビツで、人から認識される自分像とかけ離れていることに気付かなくなってしまうのです。
この「思い込みの壁」は少なくとも自己防衛としては有効ですが、人と関わり主体的に清々とした人生を送るには邪魔でしかない壁です。

この壁はコンプレックスの意識とも類似し、先に書いた怒りとも相まって、自覚したり認め受け入れるのは非常に厄介で、そうしているうちに、やってこなかったことのツケはどんどん溜まってしまうのです。
思い込みは自分の姿にフィルターをかけ、その結果人生が立ち行かなくなるということです。

これへの対峙・取り組みこそがカウンセリングですが、先の怒りの噴出も加わって、自分の人生に本気になろうとしなければ頓挫してしまいます。
真実を突きつけられようと、ピンとこないから受け入れられず認めない、自分の意識ではそんな事実はないのです。現実を直視する苦しみ、こんな苦しさに耐えられる訳はなく、只ひたすら無かったことにするのです。

……………

怒りの壁と思い込みの壁、そのどちらもが、これまで社会の中で自信のない自分を奮い立たせるバランスアイテムだったのかもしれませんね。
そしてそれに恐怖で蓋をすることで自分さえ欺いて来られたんでしょう。
ひとりでは出られない暗闇の中で、頑張って生きてきた証なんですね。
ですが、それでも、怒ったまま思い込んだままでは、あなたの人生は立ち行かないままではないですか。

それほど溶かし難い2つの壁。だけれども、何度でも諦めないこと。
真実を突きつけられ、それに争(あらが)いながらも認め受け入れていく中で見えてくる本当の姿、その延長にあなたの人生が待っています。
してこなかった経験、対話、それらがあなたの人生に色を付けます。

本人はもとより、ご家族もこの話の関係者です。それ故に感想や想い、言いたいことはあるでしょう。が、是非あなたの大切な家族が「怖くて動けないでいること」、その奥にこんな2つの壁があることを知ってください。