生きる

自分でいられるということ

電車の中で楽しそうなグループを見ていて思い出した。 昔の私は自分のまんまでいることが恥ずかしかった。 人の振る舞いがとても自然に見えて、自分の言動のぎこちなさが自分で 歯がゆくて、息苦しくて、内心ではホトホト参っていた。 学校時代は、休み時間が苦痛だった。 無邪気に楽しそうに振舞って見える雰囲気の中にいると、自分の何かが刺激され、 もの凄い居心地の悪さを感じていた。
人といるとポツンと置いていかれるような感覚、初めそれは、 人に反応しているように思えてたのだけれど、どうやら、自分が自分の無邪気さを 置いてきぼりにしていたようだ。 私は思い違いをしていた。 何をせずとも、ただそこに居ていいんだということ。 そうすれば、自ずと自然に無邪気に振舞えるんだということ。 これを許可していなかったのは自分だった。
おどおどした本性が泣き出してしまいそうで、それがみっともなくて、隠そうとした。 自分が自分を認めていなかった。 私になるには、私を許すことだった。 静かに自分と向き合い、正直になることだった。

今、この瞬間を生きること

つくづく思う、「今」の大切さ。

今この瞬間の自分がどうしたいのかを知っていると、その延長に納得はついてきます。 自分を誤魔化し、我慢していては、心から納得できる未来はついてはきません。 今を軽んじ無視し続ければ、身体や心に影響もでます。

今、わくわくしていないことで、将来わくわく出来るだろうか? 苦しさを誤魔化し美化して、何が生まれるだろうか?

今の自分を大事にしてください。 自分の気持ちに目を向けてください。思い通りの人生は、この瞬間の自分に正直に、 できるだけ忠実に表現し続けた延長にまっています。

今苦しくて不安なら、それを無視しないで立ち止まってください。

今、気になっていること、起きていることに集中してください

以前、ダウンタウンの松本さんが、「彼女と別れ話をしている時、UFOを見た。 でも全然感激せずむしろ鬱陶しい、あっち行けと思った。」と言う話を聞いたことがあります。

これって、自分がそれどころじゃない時に何を持ってこられても何も感じない、気に していられない。今気になっていること、今起きていることが終わらなければ、 その他の事に目は向かないということですね。

例えば、自分が辛い時に他人の幸せなんてどうでもいいし、失恋した時に友人の結婚を 祝福なんてきないし、自分の機嫌悪いと八つ当たりしたくなるということと同じです。 そんなもんです。

人間、自分の気が向いている方向に反応してしまう。他に気がいかない。 それ以外のものがおろそかになるのは当然です。

この簡単な道理が理解できると、自分が集中できない理由が納得できる。 つまり、気がそっちに向いていない、ただそれだけのことです。

分かり合おうなんて、100年早いよ

わかり合おうなんて、100年早いよ。やりたいようにおやりなさい。

自分のやりたいこと、貫いたらいい。 それを死守したらいい、大事にしたらいい、真剣になったらいい。 誰に反対されようと邪魔されようと、やってみたらいいと思う。 誰かにわかってもらうとか、わかりあうって、当たり前にできることではない。 相手には相手の意見、考え、気持ち、見方があっていいのですからね。 相手が失敗を恐れていれば、反対するのは当たり前、 要するにわかり合えなくても自然なことなのです。

そもそも、お互いがわかり合うということは、内容にOKをだすことではなく、 その人自体を認めること。 だから、お互いが、違うということを認めること、許すとか受け入れるのでもなくてね。 つまり、その人のやる事は嫌いなままでいいし、好きになる必要もない。 わかり合う事って、お互いがそういう気持ちになるってことですから、 お互いに自分を全うしていくことを、相手がどう取るかでしかないんですよ。

相手がどう思うかは相手の問題、それを向かせようとすると、どうしても自分の やりたいことにブレが生じやすくなる。 そう、完全にわかり合うなんて、奇跡に近いこと。 分かり合おうなんて、100年早いよ。 あなたはあなたのお好きなようにおやりなさい。 生きたいように生きなさい。 誰かにわかって貰おうとする前に、自分をわかっておあげなさい。 わかり合おう、なんて考える必要ありませんから。 自分に、夢中になってください。

やらなきゃ…損?

惚れるのと惚れられるのと、どっちがいいですかねぇ… 私のことで言えば、惚れられたときのことはあんまり覚えていない。 惚れてたときのことは凄く覚えている。 ガムシャラになって、 本気モードになってる自分だったからかな。 そのときは苦しかったし辛かったし(笑) でもどこか自分の自己満な想いだけが先行して、 相手のことを考えていないというか、 そうしてぶつかって相手の気持ちを知り、多くは失恋。 きちんとズタボロになった。なってようやくケリがつき、次に進める。

人生などプロセスの連続に過ぎない。 それはもしかしたら、死んだところで同じかもしれないですよ。 そのプロセスの一場面を 他人からいちいち評価・批判されたところで 凹んでも、辞めるわけにもいかない。 人を自分の思い通りにはできないけど、 自分は自分の気の済むようには生きれるんだ。

やりたいように、 生きたいように、 やってみたいように、 生きてみたいようにしていいんだ。 恋愛に限らずですが、やらなきゃ損、損。 失敗か成功かなど、入る隙などないですよ。

誰もが自分中心に生きてますから

言い訳…その場をやり過ごすのに大事なアイテム。 子供の為、親の為、夫の為、妻の為・・そりゃみんな自分の為だろうに、 そういうとき責任を負いたくないのに使うアイテムが言い訳。 そこのところをわかってて使う分には構わないんだけど、 認めちゃうと、自己中だと思われたくないから上手く誤魔化そうとする。 辛くて苦しいけど、そこから離れられない。

この子のために頑張らなきゃ。 多かれ少なかれ、みんな、そう言う。 でも、誰もが自分の為に、自分中心に、一番都合のいいように生きている。 なのに、誤魔化す。 悲劇のヒロインになることでモチベーションを上げる。 そんな必要ない。 誰もが自分の欲求に沿ってますから。

そこのところを認められないと、承認欲求は満たされてこない。そこのところに納得しはじめると、すり替えはなくなる。もっと、楽に、オープンに、 「俺のために生きてくれ」「私のためにこうなってよ」と言っていい。 空々しく飾らなくても、もう少し正直になっていい。 どうせ、バレてますから。

生きてるだけで丸もうけ。 生きることって暇つぶし。 もっと好きに生きりゃいい。

オンナは強し

女性ってのは歳をとるに連れて本当に強くなって行く生き物なんでしょうかね。 特に「母は強し」とはよく言いますが、あれ、よくよく考えると、母が強くなって行くのは子供のためなんかじゃなくって、自分の傘下ができる事でどんどん図々しくなっていけてるんじゃ、ないでしょうね?

子供の為と言いつつ、それ言い訳にしながらどんどん前に出れるし、そりゃ勿論、子供のためってのもありますよ、 でもさ、やっぱりそうは思えない場面一杯ありますよね。

そもそもは、出産を経て子供を育てる過程でキレイごとなど言ってられず、なりふり構ってる暇などない経験も多々あったでしょう。 その慣れも手伝い徐々に開き直れた延長に、まってましたと言わんばかりに図々しさが開放されていくのでしょうか。

例えば、スーパーでのセールの時の、あの勢いや、場所取りの時のすさまじさ。 みんな少女時代はあった筈なのに、でも多分誰一人として今のオバタリアンの自分に否定感はない。 なぜなら、今の方が楽だから。 それに尽きる(笑)。 そう、この世はそんなんでいいんでしょうね、きっと。

生き方に思う

基本、人の生き方に興味はない。 生真面目でこつこつ努力型の人生でも、放浪人生でも、極悪人生でも、 反対することは何もない。

逆に、テレビなどのレポーターや評論家の類にはムカつくけどね。 勝手に、上げたり下げたり何してんだ?って、腹立つ。 もし私自身の生き方が罪に問われたら、悪あがきはするかもしれないし、 戦うかもしれないが、たぶん、生き方は変わらないと思う。

法律度外視しようっていうんじゃなく、生き方の中に法律があると思ってるからね。 必要なのは自己責任と潔さ、あと求められたときの説明くらいかな。 世の中、人の人生に批判しすぎ、首突っ込みすぎ。 肝心な自分の人生、棚上げしなさんなって言いたくなる。

まあ、どんな生き方したっていいんですけど、 やりたいことやって生きたいように生きてる人って、けっこう、あっさり死んでくように思うし、 反対の、我慢して生きていた人が死に直面したとき、やり残しや思い残しが多すぎて、 なかなか往生し得ないように感じるのは間違ってるかしら。

往生際の悪いヤツ

往生際の悪いヤツは最後までジタバタする。 恋愛で言えば、しつこく付きまとったり、ストーカーになったりするかも知れない。 カッコよさやプライドなんてなんのその、とにかくやり尽くすまで付きまとう、 食い下がる。 相手が嫌がれば、思い切りフラれる。

自分をさらけ出した分、相手からも思い切り返ってくるから、わかりやすい。 結果、事実を認めざるを得ない。結果は後から付いてくる。 悪戯を働きバレたとき、往生際の悪いヤツは必死に誤魔化す。 そして悪あがきして観念し、ようやく思い知る。 案外、思い知るまでやれると、認めざるを得ず、それなりに終了できる。

往生際にいるとき、物事の善悪を考える暇はない。 あるのは自分の思い、それを済ますのが目的。 ほら、死に行く際、往生する際って、そういうもんでしょ?

何が言いたいのかというと、往生際は悪くていい。 そこで周りを気にしたり諦めてしまうと、中途半端になってしまう。 そうすると、終えたつもりでもずっと引っかかりっぱなしだったり、くり返される。 悔いを残したくなければ、往生際でジダンダ踏むことを恐れないでいい。 日々そうして生きていたら、死に行く際では案外、あっさりと行けるもの。 死に行く際で、まとめて悪あがきするもよし だけどね。

生きてくことは暇つぶし、気づきはおまけみたいなもの

生きてくことは暇つぶし、気づけば気づくほどそれでいいんだと思えてなりません。 人は誰もが自分だけの特別な人生を歩んでいます。 そして、その特別なシナリオの端々に‘錯覚’というスパイスを盛り込み、 その錯覚の意味に気づくことで、自分というものが、 まさに生きていることを実感しているように感じます。 時として錯覚には、深い悲しみや憎しみのドラマがあります。

しかしどれをとっても自作自演のドラマ、 その目的は、『今ここに自分が生きている』ということに気づくこと。 そんな、簡単で難しいパズルを解くために、 まるで暇つぶしのゲームをしているようでもあります。 しかしだからといって、誰もが、何にでも、その意味に気づく訳ではありません。 気づいたら詰まらないこともありますのでね。 生きてることは、ワクワク・ドキドキ・ハラハラの連続、 気づき始めるとすれば、それに飽きたころでしょうか。

気づきはおまけみたいなもの。なくてもいいがあると倍楽しめるようなもの。 そうすると、自分におきる体験が必然でおきていて、 大いなるものに動かされている感覚を味わったり、 宇宙の法則・カラクリに触れたりします。

でたらめに起こっているように見える全ての事象が、 実は、一寸の狂いもなく絶妙に噛み合った必然であることに 納得させられるようでもあります。 まるで暇つぶしをしていたかのように、単純なカラクリに、 感動と落胆を一気に味わうようでもあります。

気づけば気づくほど、さらに自分の感覚に委ね、 さらに暇つぶしに生きてみようと思えるこの頃です。 暇つぶしを楽しむには、真剣にぐうたらすることかもしれませんね(笑)。

庶民でよかった!負け惜しみのしあわせ

「親ばか」に代表されるように うちの子カワイイ、カシコイでしょというような 特別に見られたい願望は多かれ少なかれあるだろう。 しかし、だからといって本当に、 「唯一特別な人」になりたいかと言えば、 実際のところそうでもないみたいだよ。

例えば、昔 ファミレスに個室を作ったが思うように利用者がなく廃止されたという。どうやら、全部が見渡せる空間で、他人の行動を横目で見ながら自分が人と何となく同じだったり、少し他人を笑ってみたりしながらみんなとおなじ安心感と楽感を感じられることが好まれるようだとか。 これは、ファミレスの話なので、特別感を味わいたいときには それなりの場所を選ばれるのでしょうが。

人がリラックスしていられるには、 普段着で普段通りの話をみんながしていられる空間に自分と同じような人がいるということ、それが一番気楽なんでしょうね。つまり、特別なのはたまでいいということか。 ほら、アイドルに憧れていても 結婚相手に選ぶのは自分と同じような 楽で居心地がいい人でしょ。 高級住宅街に住むのは夢だけれど いつも気取ってかっこつけなきゃならないとすれば かったるいもんね。

労働してきて「あー今日はキツかったなぁ」「あの上司ムカつくなぁ」「今日のキャベツは10円安かった」なんて言いながら 「ビールがうめえなぁ~」って言い合えてたら それ、幸せなんじゃないですかね。

大事なのは そういうことを言えること、そして言い合える相手がいること。 それには、たまのお気取りもいいけど 単純でシンプルな日常での会話を 忌憚なく言える庶民でいられることが 一番強いんじゃないですかね。だって その庶民が日本を支えているんですから。素でいられること、そういう関係があること、それが何より大事なことじゃないのかな。

人のこころ

日本には、四季があり、義理も人情もあり、侘び寂びの心がありますよね。それは見方によっては曖昧で、見方によっては訳がわかりにくい、白か黒か、イエスかノーかの世界じゃなくて、もっと微妙なニュアンス。

人はどうして苦しいのでしょう、どうして悩むのでしょう。 こころは自らの意思のままに感じ、意思を左右できないのです。

人のこころって見えません。でも感じますよね。 苦しい、生きづらいって・・・ こころに法律はありません。 欲望も恐怖も自分自身が感じる主観。 あるのは法則、自然の法則、宇宙の法則。 法則に逆らうと苦しくなるのです。

こころ自体が自然生命体なんじゃないのかな。 ほら、引力に逆らって空に物をほうり投げると必ず落ちてくるでしょ。 これ、悩みのからくりの原型、つじつまはあうのですよ。

気付いてください。 身をゆだねると、こころは感じられるのです。

ただそこにいることの意味…生きているということ

大それたテーマなどではなく、誰もがこのテーマに沿って関わりあって いるのだと思う。 今回は、‘癖’という言葉を使って話してみます。 人間は、その人の持つ癖で生きている。 癖とはその人の肌感というか好みや反応の仕方。 ただ自然にいたらそうなったという、単に‘そうでしかない’もの。 自分らしさ、持って生まれた成分といったところかな。

それは今日の天候を暑いと感じるか寒いと感じるかや、 この料理を美味しいと感じるか不味いと感じるかなど、 自分以外のあらゆる物や人・空間などに対して どこをどういう風に思うのか感じられるのかということであって、 誰一人として全く同じではないのです。 癖のない人間、それを神と言うなら少なくともこの世界では生きれない。 もし、その人の癖がその人仕様に働いていなければ生き苦しく感じる。そう感じられること自体、その人らしい癖の反応だからです。

人間は、自分の愛する人、(例えば親)から自分の癖を否定されると、自分は受け入れられない存在なんだと思ってしまう。そして自分の癖に価値を見出せないと、 「うっそ?私ってダメなの?生きてちゃダメか?」と感じてしまい、その確証をとことん掴もうとします。その過程で、人に認められたいと思う気持ち、人から嫌われたくないと思う気持ち、それから見捨てられたくないと思う気持ちが付随します。

例えば赤ちゃんが空腹を訴えたとしよう。 そのとき当然その子の癖(泣き方や泣き声の大きさ、どれだけミルクが欲しいか)がでる。 そして、その子が納得いくように受け入れられれば落ち着く。 → そうか、この癖のまま生きていていいんだ~と安心する。 しかし成長とともに次第に親の癖とぶつかり、お互いに認めさせようと関わる。もう食べれないと訴えているのに残さず食べろと強いられたり、 人参は嫌いだと訴えているのに無理強いされ続けると、 癖が癖としていられなくなる。 いくら説明しても、しまいにゃ「親不孝者」と言われちゃ、堪らない。

でも、一番の問題は、自分でも自分の癖を嫌ってしまうこと。 まんまでいることを認められなくなること。 だから、自分がいることの意味が解らなくなる。 無くて七癖とはよく言うが、癖には色々なものがある。 一挙手一投足まで、共感できるものから他人には理解できないものまである。 困っている人を見れば、ここぞとばかりに自分の癖をご披露する人もいれば、 見てみぬフリをする人もいる。 皆それぞれの癖で関わり、それがどう映るのか、試し確かめている。 癖は許されるものというよりは、認められるべきものではないでしょうか。

ところで、 この世界の中で、物質が存在するのに必要不可欠なものは、 空間・時間・そして癖の3つです。 例えば、水(H2O)というものはこの地球の時間の中で、水素と水素と酸素という それぞれの癖が結合して、水という癖が出来上がる。 どれが欠けても存在しない。 無色透明、熱していけば気化し始め、冷やしていけば凍る。 このような癖は許されるというより認められている。

人間も同じですが、個人としての自分が存在するのには、 自分という癖なくして存在はし得ません。 つまり人との関わりとは、自分の癖は~なんだ、ということが理解されない ことに苦しみながら、自分でもその癖に翻弄され、 使っていいものか、あっていいものかを確かめる道程なんだと思う。

‘癖なくして自分はない’ 。人間、ほっときゃ癖はでる。 そのまんま、そうでしかない自分になる。 ただ居ること。 ただ在ること。 いかにそれが凄いことか!

大人になるということ

大人になるということは、上手く生きれることではない。 我慢が増えたり、嫌なことでもしなければいけないようになることではない。 まして、世間からどう見られるのかが大事になることでもない。 それでは、人間から遠ざかっていく。

善悪の区別は小学生くらいになれば大体わかる。それをくどくど説かれ、失敗経験や怒られ経験を避けていては、責任というものが何なのかはわからず、自立は程遠い。 世間体や体裁優先では、不安を煽り、自信などつきはしない。

世の大人は「人並みの生活」を期待しすぎ。 人並みから外れないよう、必死で枠から食み出さないよう、子供の大事な芽を摘んでいる。それでは大成できないよ。 人並みってなんだい? 世間は親より、「世間」ってヤツをちゃんと教えてくれる。 約束破れば、クビになる。金儲けの苦しさ、面白さ。お客さんに喜ばれる嬉しさ。失敗の後始末・・

家庭に必要なのは、何でも語れる環境。善悪説いたり説教されたり規制ばかりでは何も育たない。 学校へ行きたくなければ行かなきゃいいじゃん。学歴なくて世間からどう扱われるか、それを体験してみる方がよっぽど大事。

例えばうちの息子は高校時代にホストのバイトで、飲み(お酒)の辛さ、お金をもらう嬉しさを感じたそうだ。 大学に入ったものの面白さを感じず、1年で中退したが、その後の人生に全く影響はないと感じたそうだ。 人によって感想は違うだろうが、だからこそ身を持って体験してみること、それにつきる。

子供だからとか大人だからとか、そんなでたらめな既成概念に囚われず、もっと人間になったほうがいい。 自分に忠実に、大声で泣いたり、いつまでもうじうじしたり、いちいちカッコつけてみたり、好きなように生きたらいい。

私ら、人間、ロボットじゃないんだからね。 もっと、もっと、正直に、人間臭くなっていい。 大人気ない と思う親。 あんたが子供を見習ったらいい。

私と夫

私の夫は、小さいときから自分の感情を表に出してこなかった。 それが当たり前すぎて、そうしていることにも気付かずに、 生きてる実感が掴めず、苦しんできた。 それは、一族の一員として、 その役割を担ってきた姿でしかなく、 夫に限らず、夫の一族達は、 誰もがそれを暗黙の了解としていた。 勿論、いうまでもなく、今も 一族達は皆、一族の一員としての自分を 何の疑いもなく生きている。

それが、夫は私と会ったその瞬間から、自分の感情をぶつけてきた。 本人も、訳がわからないうちに、 でも当たり前のように感情をぶつけてきた。 今まで、抑えるのが当たり前だった感情を どういう訳か、その瞬間から出せていた。 無意識にも、私には大丈夫、という 絶対的安心感があったからだという。

でも、夫は言う 。 私に対して出せたって、世間の人にはそうはいかない。 今まで出せないでいた、出してこなかったものを はい、もういいですよ と言われたって、 そう簡単に出しきれるもんじゃない。 だって怖くてたまらないんだとさ。

出してくしかないと解っていても、 今まで出せないでいた悔しさと今さら出すもんかという意地があって、 素直になりきれるもんじゃあないってね。 まあ、その通り。 それじゃあ、そのまんま死ねと私は言う。 おお、死んでやる。 夫はフランダースの犬に出てくるネロなんだとさ。

2人の間では、ケンカ、家出は日常茶飯事。 家出は、早く出たもん勝ち。 感情の激しさでは誰にも負けない私と 互角に渡り合おうなんて百年早いわ。 こんな人がよくもこれまで、 自分の感情をおさえこんで来れたもんだ。(2010年記)

離婚…決断の理由

2月に知り合った人と、7月末から暮らし始め、 23年間連れ添った夫と9月に離婚した。 子供達(22歳・20歳)に包み隠さず説明、 了承を得、夫と家を捨てた。 先日、ホームページで近況報告させて頂いたとおりです。(2010年現在) 私は11月で50歳になり、相手は27歳となった。

(もと)夫にバレた?とき、多少の修羅場はあったけど、 はじめから隠すつもりなどなかったし、 そもそも バレて困ることはないので、 なんのためらいもなかった。 男同士の対峙があり、(もと)夫婦の対峙があって決断に至った。 現在、(もと)夫とは、現時点での最適な距離感で関わっている。

離婚を決意したのは、出会ってしまった以上、これからの人生、 自分を抑えることができないと判断したから。 (もと)夫には、考え直すように言われたが、 確固たる私の決意と、この私の性格を熟知しているので、 なす術もなかった。 私には、自分を騙して暮らしていくことはできない。 それが(もと)夫への誠意だと、今でも本気で思っている。

(もと)夫以外の人に気持ちが動いてしまったことは、 ただ運命としかいいようはない。 美化するわけではなく、出会うべくして、待つべくして、 探すべくして時が訪れたとしか言いようがない。 とことん生意気なふたりの気持ちが噛み合った。 さらけだしあい、響きあい、面白い!と感じ、自然に傍にいた。

年齢も、富も名誉も関係がない。彼は無職。 日常は、何もかも、今やれる方がやる。 体力がある方が荷物を持ち、肩を揉む。稼げる手立てがある方が稼ぐ。 時間がある方が家事をする。 ただ自然な時間が流れるだけ。 セックスから死ぬこと、お墓のことまで正直に語り合う。 いたわり、ねぎらい、妥協せず話し合い、 ケンカしながら、日々変化している。

互いの家族には世間並みの反応を経て承認された。 私が思うに、自分達が決断していれば、反対はされにくい。 反対されても変わらないし、その決意が伝わるからね。 自分に正直に生きてきた延長に今がある。 別に今まで、不幸などなかった。 今までも今も、自分の納得する生き方でしかない。 新たなスタート。 人生 妙味。 まだ、これから。

悩み

不倫・不登校・神経症・うつ・性同一性障害で苦しむあなた…

今のあなたがあなたです。

社会が、世間が、学校が、…あなたの何と関係ある?

善い悪い より 好きか嫌いか、どうしたいのか。

悩むというのはホントの自分が動きはじめた、 顔を出し始めた合図です。

自分でいること

みんな自分でいることしか出来ないのに、何故か誰かになりたがる。 どう真似たって、結局自分にしかなれないのに。

例え強いられても自分はどこへも行きはしない。 自分の中に巣くっている。

自分が自分でしか生きられないのは、 そうでしか安心できないということを知っているからさ。 後はそれに確信を持つだけだよ。

この世は自己確認と自己納得の世界

この世の中、自己確認と自己納得のためにある。

自己確認とは「自分が本質的に何者か」ということで、 自己納得とは「それでよし」と思える事。 見られる自分でなく自分が感じる自分を、 言ったり行動することによって発見すること。

社会ありきの前に自分ありき。この世の中心は自分ですから。

人間の不安とお金の関係

メンタルがリラックスできない…まさに今、多くの方の心境ではありませんか?そんな世の中を見るにつけ、つくづく人はじっとしていられない生き物なんだな、と思わされます。

自粛・動かないでと言われても、不安な時こそ難しい。マスクから始まりトイレットペーパーやティッシュペーパー、更には食料品まで備蓄に奔走。良くも悪くも動いてしまう。

だって困りたくないもん。そう思うと、居ても立っても居られないですね。
不安とはわからないこと、まさしくそれが行動の源。わからないからこそ動きたくなる。

だけどやっぱり、じっとしてること、今は、それがいいらしい。そしてそれをみんなが出来たら終息するらしい…震災の時のような誰かを助け合う動きから、ひとりひとりが動かない姿勢へ、不安を怖がらずにじっとしていること…私もそう思いますからそうしてますよ。でも、人間だからそれが難しいんですね。

さて、生きていくなかでの不安には、健康面と生活面(経済)の2つがあります。特に生活面における不安は、まさしく今の自粛をなかなか容認できない要因でもあるでしょう。

例えば公務員や大手サラリーマンのような安定した収入がある方と、自営業やフリーランス又はアルバイトなどの方では、正に雲泥の差。日銭を稼がないと明日には潰れる。私とて人ごとでありませんからね。

今の状況が有事なら、その状況下における命の危険を考えれば、お金の有る無しは二の次となることは誰でもが分かる話。ですが生きる為、自粛と並走しながらもお金を作ることに奔走せざるを得ないギリギリの選択もまた、あるのです。

と、今日はコロナ関連における不安から少し離れ、掘り下げて人間の不安には「お金」が密接だというお話です。

簡単に言います。

「お金」に縛られてこられた方は多い。言い換えれば「お金に使われている」人は多いというお話です。

間違えたくないのは、お金は大事であり大切です。私もお金は大好きです。だけどお金があれば幸せになれるのではなく、賃金の差を意識した職業や人の選択は、どこまでいっても自分の上昇意識や一流・成功こそ勝利という価値観から出れなくなります。

例えば、好きなものを職業にして転んだら自分の事として考えられるが、金で選んだ職業は転んだら始末が悪くなりやすい。多くは更に上を目指したり本質から遠ざかる。不安は付き纏う。

好きな人を伴侶にするのと金で選んだ人を伴侶にするのとで考えると、分かりやすいですかね?

お金、それは権力でもあります。権力を笠にきた人を配偶者や親に持った人に自尊心は低く、その多くはその権力の元で潰されています。

お金を稼ぐ者にとって、そのお金は、大切な家族の為に使われるものではないですか。本来ならば、お金に使われるのではなく、みんなでお金を大切に使えるのです。

お金は使うもの、流すもの。その使う人の意識次第で、汚くもなり綺麗にもなる。それがお金です。

不安にもなり不安を薄めてくれるものでもあるお金。その意識が心の豊かさと自由度に反映するのです。

「自分は何が食べたいのか」が先、その後で「使えるお金はいくらあるのか」で決めるのです。

「自分は何になりたいのか」が先、その後で「それで食っていくにはどうしたらいいのか」と考えるのです。

お金ありきではなく、自分の気持ちをちゃんと汲むこと。その結果の我慢なら、その我慢はあなたの自尊心の基で、「諦め」でなく「納得」や「悔しさ」でいられます。

「どうせ…」から、「いつか…」に意識は変わり、自分の人生を切り開く芽は必ず伸びますからね。

お金ありきの人生の選択には不安が付きまとう、というお話でした。

自分にとってのお金、或いは自分の身近な人とのお金についてご一考ください。

それにしてもこの世界の状況、兎に角、粛々と待つのみ。