自分らしさ(1)

ああしろ こうしろ、あれダメ これダメ と、 正論で畳み込まれると、 行動には規制がかかってしまいます。 その正論が○で、それ以外が×となり、 ○を目指すようになっていきます。 すると次第に、 ことあるごとに何が○で、 どうしたら○かを素早く考えるようになります。

例えば、 ご飯は残さず食べるもの、好き嫌いはしないこと、 これらを正解つまり○とするなら、 ご飯を残すことや、嫌いなものがあることが×となる。 ご飯を残したら勿体ないとか、バチが当たるとか・・ そう言われれば言われるだけ○×に縛られてしまいます。

ここで、もし、負けず嫌いな性分の人は、 ○×の○を目指そうとします。 負けたくない性分が、 完食を目指そうとするでしょう。 また、真面目で几帳面な性分の人は、 やはり完食しようとするでしょう。 つまり、持ち前の 『らしさ』 に従い行動する、 自分の性分が、その行動を決定づけているのです。

とは言え、○×に縛られているので完食は楽じゃあない、 なのに辞められない という状況が続きます。 そして、自分が何をしているのか、 何が苦しくてどうしたいのかが 解らなくなってしまうのです。 こういうパターンで、自分の 『らしさ』 を貫きながらも ○×に苦しんでいる人は多いですね。

人はいつでも自分らしく反応します。 どんな環境、どんな状況下でも、その人らしさを発揮します。 ○×があればあるほど 本領発揮してしまうのが、負けず嫌いな人々、真面目で几帳面な人々。 そこから抜け出すには、 自分らしさが何なのか、見つめなおしてみることです。 どうして苦しいのか、何が苦しいのかが見えてくる筈ですよ。

自分らしさ(2)

自分らしくしてたらこうなった。 それは、どの人の言動にも現れている。 今回は、×に向かってしまう人達について書いていきます。

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いくら頑張っても認めてもらえず伝わらず、 どんだけ一生懸命やっても理解されない、 或いは 親の勝手な期待や思い込みで、 等身大の自分を見て貰えず受け入れてもらえない。それではふてくされスネるしかなくなる。 「俺が悪いんじゃねえ!」 「どうにでもなれ!」 「知るか!」と、ひねくれもする。

こうして自分の人生を放棄していくのは、 紛れもなくまともな人間です。 確かに、親のせい。 しかし、誰が良くて誰が悪いという話を横に置けば、 その親の性分がもたらす言動が子供の性分に科学反応を引き起こしたに過ぎない。 負けん気の強い性分が自暴自棄となる。 「こんなんじゃあ、何のために生きているのかわからない!」 と、 スネる、恨む、放棄する、閉じる、もしくは復讐する。

しかし、自分の人生を蔑ろにしているのだもの、 空しいのも仕方ない。 苦しいのも当たり前。 誰を恨んでも誰のせいにしても、 自分の性分、自分らしさは変わらない。 徹底的に、発揮される。 ○か×かは世間的な薄い価値観。 それらから脱却して自分の人生を生きるには、 ○だの×だので誤魔化さず『逃げない』と、決めること。 自分から逃げて生きれるほど、この世界は簡単ではない。

純粋性はバカにされる?恥と恥じらい

純粋性があればあるほどバカにされる? ええ、大概はね。でもそれで正解。 なぜならその純粋性というやつは、すべての人々の中にもつ、その人唯一の「らしさ」であるが、その独自性と奇異性に、ある種の不安とこっぱずかしさを感じ始めるにつれ、多くの人がそれを出すのを躊躇ってしまうからです。 人は人である以上、自分という独自性を持って生まれる。 しかしそれが他人を意識しはじめたとき、恥じらう。 (うちの一歳半の孫でさえ、褒めると喜び調子にも乗るが、ときおり、恥らう。だれも教えていないのに!)

そう、「恥らう」という、この人間の持つステキな振る舞いというか、なんとも微笑ましい行為こそが、人間の人間たる美しさであり、その個人のエロチシズムだと思うんです。この恥じらってしまう純粋な振る舞いを、大きくなるにつれ、人は段々と見せなくなっていく。恥ずかしいのなら当然なことでもありますが、大人になるにつれ、恥ずかしい→恥 という認識を持ち始めると、どうしても自分の恥じらいを引っ込め、引っ込めながら他人の恥じらいを笑うようになっていく。

誰はばかることなく自分のこっぱずかしさを表現できることって、本来は自然だしシンプルなことなのですが、やはり恥ずかしさを覚えた人にとっては裸であるくようなもの、「人前でそこまでやるか…?」ということになるのだろうね。 だからといって、バカにするというのはいかがなものかとお思いでしょうが…あなたはしてませんか? …そう、それも、自然なんでしょうね。

つまりね、純粋性があることは恥ではない。だからと言って、バカにし相手を傷つけていいということはないが、それを笑ったりバカにしてしまうのも自然なこと。 だから、恥をかきたくないと思っているうちは純粋性も引っ込んでしまう。 だから反対に、純粋な人でいたければ、このカラクリを理解し、自分のプライドを緩めていくことだよね。

ほんとうの自分でいられること

皆さんは、「ほんとうの自分」というものをご存知ですか? そしてその「ほんとうの自分」でいられてますか? 苦しみや生き辛さを抱える多くの方は、 「ほんとうの自分」に不誠実です。 いえ、そうでしかいられなかったのですが、 いつしか自分のほんとうが何だかわからなくなってしまっているのです。

ほんとうの姿というものは、案外、隠しているようでいて 他人には見え隠れしているもの。 それを自分がきちんと知り、 その上でありのままいられたら、 それが一番安心できるのです。 苦しみの上に成り立つ言動は、 その苦しみを緩和させようとする為だけの、 とても悲痛な頑張りや我慢でしかないものです。それは例えれば、 現状がマイナスであり それをどうにかゼロに持っていくだけの日常。 それでは喜びや楽しさは味わえないでしょう。

いつも頑張っていないで、もっと弱音をはいて下さい。 いつも我慢しないで、もっと泣き言を言って下さい。 何をされても笑っていないで、いやだ!よせ!と叫んで下さい。

相手をいつも最優先していないで、自分中心に考えてやって下さい。 もっと、もっと、じたばたして下さいよ。 もっと、ぐちぐちと、しつこく、ごねちゃって下さいよ。 もっと、自分をいたわってやって下さい。

この瞬間の自分を見てやって下さい。 自分の全てを、引き受けてやってくれませんか? 人生は、本当に、予測不可能なシナリオのドラマです。 予期せぬ出来事や突然の事件や事故も、何ともない日常も、 その一瞬は今しかない。

だけれど、頑張ったり我慢する時間があるのと同じくらい、 弱音を吐いたり、泣き言を言ったり、怒ったり、 閉じこもったりする時間もあっていい。

気が済んでいないことは、そこまで、その一瞬の時まで戻ってやって下さい。 自分の気持ちをもっと、引き受けてやって下さい。

自分を変える必要はない。その裁きが余計です。

私はきれい好きなほう。ところが息子の部屋は散らかり放題。 だから私は立ち入らない、つい口を出したくなるのが嫌なのでね。

散らかっている部屋のほうが落ち着く人と、きれい好きな人。 落ち着ける状態が違えば話は噛み合わない。 しかし、それを批判しあうこと、善悪を説くことは邪魔なだけ。 そう、お互いに自分を変える必要はない。

自分を変えず、相手を変えようとせずにいられるのは、どちらにも○×がないから。 どちらの好み?も尊重しあえばいいだけのこと。 ちなみに、彼女が来るときの部屋はキレイだ。何も言うことはない。

例えば、心配性の人がいたとして、それを治す必要はない。 心配しないようにするほうが落ち着かないなら、変える必要はない。 自分のために心配したらいい。 心配というものは、期待したり、他人への迷惑を慮ると増していく。

全ては心配している自分のためです。 その心配は自分のもの。だから思う存分すればいい。

知るための体験でしかない

苦しみの根本は、所詮、境遇ではない。 全ては個の素質だと、そう思う。同じ親でも兄弟によって、受ける反応や生き辛さの感じ方が 違うことを考えればお分かりでしょう。 過酷な家庭環境は認知を歪めますが、親の抑圧や特異な体験がなくとも、 素質があれば世間から叩かれ、きちんと苦しみ傷つく。 傷つきの深さの違いによっては、気づく時間に違いがでることはありますが、 だからとて早い遅いに優劣はない。

上記でいう素質とは、敏感さ、繊細さ、純粋さ。計り知れない感受性や鋭敏な感性の備わりによって、味わうべくして味わう事になる。 どこにいても、何をしても、結局は、苦しみを知る事になる。 苦しみは、多く自分を傷つけるというか、多くを感じさせられる。 しかし、その痛みがメッセージとなり解放への扉の鍵となります。

ある意味、傷つく、痛む事によって、自分を知る手がかりを、自分を知る足がかりを、 自分の為に自分が残しているのです。 そうまでして、結局は自分を知ることの大きな意味を感じているのでしょう。 諦めることを望んでいないのでしょう。

全ての体験は、自分が何者かを知る為でしかない。 問題は、それを気付こうとするかどうかにかかっているのです。

ちょっとの違い

敏感な神経の持ち主達は、他人のちょっとした言動にも敏感に反応します。 例えば、千原ジュニアの著書「14才」をお読みになった方はお解りでしょうが、彼は特異すぎる自分が押しつぶされないように、自分の部屋に篭った。 通学に黒以外の靴下を履く、カバンに沢山のシールを貼る、髪を金髪に染める、 鉛筆をナイフで削る、ただそれをカッコイイと思う自分は誰からも認められずに、自分でも解らない混乱の中で、自分を守る為、そして自分と闘い、誰とも違う自分になるために篭ったという。

ごく普通の両親からごく普通に育てられながら、だからこそ彼は混乱した。 親のせいでもなく彼の個性が通るプロセスだったのでしょう。 彼が目覚めたのは、兄からの誘いでお笑いを披露した時に、 ただ自分の琴線にどっか~んと触れる衝撃を覚えたことだという。

自分が心から面白いと感じれるもの、自分が自分に触れなければ終れないし始まれない。 人と違うということを理解することはできても、それじゃあ自分が何なのか、そして自分のリングを探すのには時間はかかる。だったら、千原ジュニアも言うように、学校へ行っている時間はムダかも知れない。 篭るもよし、他人を感じる自分の感覚を知るために世間の中で過ごすもよし、でしょう。

ちょっとの違い、それにこだわりたがる人間の本質とはなんだろう? 人間の拵えた二元論、善か悪、優と劣、天使と悪魔は、単に支配欲の賜物なんじゃないか。 ちょっと上かちょっと下、それが支配と服従の構造を生む。バカバカしいが、これも共存の刺激薬か。

人間の目の上のしわがあるかないか(二重まぶた)で違う世界に挑もうとする人。 100メートルを9秒台で走るのと10秒台で走る人。 孔雀の羽。機能性より美しさを手に入れたオスの羽。あの羽に描かれている目玉のような模様、その目玉の数は150~160個位らしい。 メスがオスを選ぶ時、メスは一瞬にして、広げたオスの羽から、目玉の数の多いオスを選ぶというのです。 強い子孫を残す、種の保存と同じなんだろう。 どれもちょっとの違い、僅かな誤差。

他の生き物も、それから自然も、知ってか知らずか、その違いの中に生き、それらを自然に使っている。 この予測不可能な必然の流れ、現象がカオスなんだろう。 ヒラヒラと舞うチョウは、カラスやスズメなどの鳥から追われないらしい。 あのヒラヒラがまるでカオス的な飛翔曲線を描いていて、進路を予測不可能ゆえ、外的に襲われにくく何万年も生き残ることが出来たともいう。

ところが兄弟関係にあるガは、チョウに比べ羽が小さく体が大きい分、スピードも速く直線的に飛べる為、進路予測がしやすく鳥も襲い掛かり易いのだそうだ。 このカオスというか、単純な規則で動いているにも拘らず、複雑・不安定に振舞う予測不可能な現象こそ、人間の心であり、宇宙の森羅万象の、シンプルな必然法則に則っているのです。

この予測不可能だが完璧な仕掛け、必然なズレ、揺らぎが自分を導いたのなら、それを遡れば、自分の本質に導かれるでしょう。 チョウのように、自分にだけ委ね、その意味を知っていくだけでね。

楽になるということ

対人関係において、自分が楽に生きやすくなるということは、 自分の素に基づいた言動を取れることであって、 世間を気にせず、物怖じせず、堂々と振舞えるようになることでもなく、 例えば相手に、はっきり 「No!」 と言えるようになることではない。

堂々と意思表示できること、それは逞しくカッコよさげで、憧れてしまうが、 そういう人間が○な訳ではない。 相手に Noと言えることは大事な意思表示であり、強い自己主張表現。 しかし大事なことは、それができるようになることではなく、Noと言えない自分、 言いたくない自分でいられること。

自分が何を思い、何を感じてその、Noを言わない選択をしているのか知りもせず、 理解もせずして闇雲にカッコつけようとするのは、陳腐な道化師みたいだよ。

言えない自分 ≠ ×(バツ)

理由は色々あるだろう、でも今、言えてなければそれが自分。 先ずは、今の、そういう紛れもない自分を、『これが私だ』と認めること。 それは同時に、カッコワルイ自分を認めることでもあるが、ここでも カッコワルイ ≠ ダメ・バツ  なのだ。

物怖じせず堂々と振舞おうだとか、No と言おうとか、そこに神経を使うなら、 むしろ、堂々と怖がれること。楽になりたければ、そうしながら、その行動の真意を自分が知っていくことです。

自分のフィールド

今、あなたは自分のフィールドに立っていますか? 自分のフィールドとは、
①自分が自然体でいられ、
②その中で自分の特性が無限に発揮でき、
③尚且つ安心感の持てるポジションにいられること

①、自然体というのは、リラックスしたいときにでき、 緊張したいときにできること。 この両方が自分に合わせてできること。 笑いたいときに笑え、泣きたいときに泣け、 悔しければそのまんま表現できること、 そして、ガチでぶつかることも出来ること。 つまり、自分があるがまんまでいられること。

したくない無理、したくない我慢などはもってのほか、 そういうのがあったら自然体ではいられないから。 ただし、敢えて無理する、敢えて我慢することはある。 悔しくて負けたくなくて勝ちたいときなどがそうでしょう、 苦しくても辛くてもやる、 という感覚です。 歌っているとき、泳いでいるとき、パチンコしてるとき、 自分が自然体でいられたら、 それはあなたのフィールドかもしれません。 家の中でも、大事な人といるときでも、 自然体で居心地がいいと感じたら、 その関係は長続きするでしょう。

②、自分の特性が無限に発揮できること。 先ず、自分の特性とは何か、そんなものは初めからわかる筈はない。 だから、とにかくとにかく、 面白いものやワクワクすることがあれば、方向はそっち。 それがゲームでも漫画でも、何でも、 そこに例外を設けてはいけない。 それに携わる時間が、自由で延び延びしていられること。 また、やってみて面白ければ続くけど、飽きることだってある、 その繰り返しに諦めてはいけない。

繰り返しを止めさえしなければ、自ずと導かれる、 飽きずに続いているもの、そっちそっち。 面白くてワクワクするものなら、もっと楽しみたいと思うようになる、 すると考える。 構想を練ったり、創造を膨らませていったり、 その繰り返しの中で、 気がつくと人より詳しかったり秀でているもの、 そこに無限性を感じたら、それが自分の特性となる。絵を描いているときの自分、 戦略を考えてるときの自分に無限性を感じたなら、 そっちそっち。

③、安心感を持てるポジションにいること。 その環境の中での自分のポジションのこと。 例えば・・サッカーをやっていたとする。 面白くて、そこそこ上手くて楽しめていた。 しかし、ある時期、それ以上、 自分の思うような成果が出なかったり、 満足いく手応えを掴めなかったり、イマイチ楽しめなければ、 その自分の、プレイヤーとしてのポジションに安心感がもてなくなる。 私が思うに、その当時の結果が全て。 ~たら~れば は、ない。 プレイヤーとしての才能、そのポジションが 自分に最適かどうかを考えた方がいい。

繊細で敏感な人は、 そのスポーツの選手に向いているか? もしかしたら指導者が向いているのかも知れない。或いはサポーターとして共に戦うことで自分らしさが発揮できるのかも知れない。サッカーというフィールドが同じでも、 そこに関わる自分が一番自然でいられ、 自分の特性が発揮でき、安心して居られるポジションはどこか。 それは、体験の中で、自分が感じながら掴めるものだと思うのです。

結果に嘆くのもいい。 勝てないことを悔やんだり、しゃにむに頑張るのもいいが、 そのポジションが自分にとって最適かどうかを考えた方がいい。 どの人にも、自分の最適なフィールドはある。 そして、そのフィールド、ポジションに優劣はない。 それこそ、適材適所なだけ。 自分が自分のフィールドにいられると、勝敗に関わらず、 自己納得は促されるものです。 それが何なのか、どこなのか、 それは案外、身近なところにあるものだと思うのです。