事件

地下鉄サリン事件から20年

2015年3月20日は オウム真理教による 地下鉄サリン事件 発生から20年だそうです。20年前のこの日 私もテレビに映し出される不可解な光景に、得体の知れない恐ろしさを感じながらも、まさかこれは宗教がらみなのでは…? と感じたことを覚えています。

事件と向き合ってこられたご遺族にとっては まだまだ終わらない事件。 当時、この事件をきっかけに 犯罪被害者支援に関わるようになった私も、 オウム事件で駅助役だった夫をなくされ 犯罪被害者の会の世話人として活動開始されていた 高橋シズエさんのお話しを 静岡市でうかがったことがあります。

オウムの拠点だった場所は ここ沼津からもさほど遠くはなく、 今でもドライブの折に通ることがあります。 人間の心の闇を巧みに利用した教義により 忠誠を誓わせ 、何のためらいも疑問もなく 人の命をも奪おうとする恐ろしさ。 ただこれ、オウムだけにあらず。

出口のない無間地獄の前身には、紛れもなく親が教祖の家庭があります。何の疑念もなく従っている頃はよくても、得体の知れない不安感から逃れようとしたその先に待っていた教壇の教義には、その不安さえも感じさせない、更に出口のない無間地獄だったのですから。

自分の教祖は自分なり。 自分の教義は自分で作るなり。

少年法改正に思う

最近のインターネット上における少年犯罪における 「実名・写真」の掲載。 その殆どは誰が書いたのか分からないもので、 真偽不明なうちに 「住所」「交友関係」「家族」にまで及ぶ 無責任な拡散、 「犯人探し」と「私刑」なるものなどが書き込まれる 野放し状態が続いていますね。

確かに、残忍な犯行であり、 「少年法」にて守られることの理不尽さは あまりにも納得しがたく心が痛む。 だからといって、 その被害者・加害者を含めたその事件に関わる 全ての正確な情報を知らずして、 また掲載主を明かさない安易な発信を鵜呑みにして 何が分かるのだろう。

そのどこに責任があるのでしょう。そこにあるのは、 「ワルに対してだから何をしても赦される」という、 いかにも正義の影で、 自分のうっぷんを晴らそうとする 稚拙さが垣間見える。 これでは、 稚拙さだけ取り出せば、 その加害者と変わらないではないか。

そう、こういうネット上にまき散らかす殆どが 同じく少年たち。 今また少年法を変えろという声があります。 でも、この何でも晒(さら)しちまえと 無責任に巻き散らかす若者たち(大人もいますけどね) を含む世間において、 その稚拙さが進んでいる少年たちに対する厳罰先行に、 何の意味が生まれるのだろうか?

少年法改正の議論が、 無意味に思えてならない。 変えるべきは法律だろうか? こういう世間の中で守られるべき子供たちを このような世間にしたのは 私たち大人。 そしてその背後に見え隠れするメディアの戦略。 勝手に人事のようなことを 口から漏らす前に私たち大人は、 子どもがいま何を考えているのか、 もっと耳を傾ける必要があるし 私たち大人が、 責任とは何か、尊重とは何かを 学んでいく必要があるんじゃないのかな。

元少年A 手記出版から

神戸連続児童殺傷事件の加害者 元少年A が手記を出版したとか。被害者のひとりである土師淳君の父親は出版中止と回収を求めるコメントを発表しましたね。彩花ちゃんのお母さんのコメントも出ましたね。なんともやりきれない想いでいっぱいでしょう。

先だっての文藝春秋の5月号にはこの事件の家裁決定の全文が公表され、私も読みました。感想としては、今まで表に出てこなかった生育暦の記載もあり、鑑定人による、彼の「母子一体関係が最低限の満足を与えていなかった疑い」を指摘している箇所もあり、当然ながら、やっぱりとは思いました。

が、その鑑定は2人の精神科医による、たった3ヶ月半程度、しかも週に一度程度の観察によるものです。そんなに短い間に、その少年の心の何がわかり、何に触れることができたのか。自分の心も知らない少年が、打ち開けることも、打ち明けるものもあるはずはなく、鑑定文からはまったくもって、彼の心の闇、その家族との実像は見えてきませんでした。

ということより、精神分析の浅はかさに呆れてしまったほうが強いですかね。また、その後の医療少年院での関係者、それからそこを出てからの人間関係、僅かな人、少しでも彼の心に触れ、彼の心の闇に光を灯した人はいたのでしょうか。

いえ、同情や社会復帰を希望している訳では全くなく、ただ、闇に近づけ、闇を解ける人は、そうはいなく、まして彼の心を再生するには、自分の人生を彼と共にするくらいの熱意でもなければ難しく、しかもまだ、さほどの年月が経っている訳でもない中では彼の闇は終わっておらず、いまだ苦しく、闇の中を彷徨っているだろうことは想像がつくのです。

その証拠に、今回の手記を書くに当たって彼は、自分が生きるにはこれ(書くこと)しかないと言っています。苦しさからの自己救済がこれだというのです。つまり、現、社会の中に彼の落ち着ける居場所、安らげる人はいないということです。

生まれつきの殺人鬼はいません。だからと言えども、幼少期からの劣悪な生育暦を連想させるのは確かですが、家族でもない他人を殺めたという事実は、14歳であろうとも赦されることではありません。

最近のことでも、佐世保の高校生の事件、名古屋大学生の事件も、それから川崎の事件も、です。また、これら事件の報道によって、心を揺さぶられ、自分の加害衝動を抑えている人々が多くいるのも事実です。

加害者へと変貌する前、誰もが元は、変わらぬ人間です。そして、その怒りの衝動を抑えきれないほど抑圧を受けてきたのも事実です。いかにも彼らは、逸脱した心の持ち主、いえ感情のない人間のようにも見えるでしょうが、その衝動が、「心のない異常殺人」に向かう前に正しく導かれたなら、加害者も被害者も生まれないのです。何故なら、こういう彼らには、前兆や兆候といったものが必ずあるし、周囲はそれを認識しているのですから。

鬱積が爆発して犯罪者や異常者となったとき、その親たちの多くは、いかにも自分も、その被害者であるかのような態度を取ります。呆れるばかりですが、だからこそその子どもが「こうする他なかった」と証明しているかのように見えてくるのです。

しかし事実はひとつ。淳くんと彩花ちゃんは亡くなり、そのご家族の苦しみは癒えないということ。その罪に元少年の境遇は関係ないということ。

放射能被害について

東日本大震災に伴う原子力発電所の放射能漏れ( 放射能被害 )について、 いろんな話がでていますね。 信憑性のありそうな話からそうでないもの、また風評までが一緒くたとなり、 民衆の不安が掻き立てられていますね。 今回の災害に限らずですが、今やネットを探れば情報の嵐です。 しかし、これはもはや人類のもっとも重要かつ深刻な事態の一つ、 この国の、いやこの星の一大事であることには変わりないでしょう。

そして、人間が作ったものだからいつかこうなることも覚悟しなきゃいけない、 「安全」が机上の話になることもあるというのも覚悟しなきゃいけないんじゃ ないでしょうかね。 国が政治家が決めたこと と言い逃れはできない。 だって、私達の誰もがほんとはひどく危険な原子力を使って作られた電力を ふんだんに使い、飽食の限りを尽くし、便利で快適な暮らしを謳歌している。

煽るな、不安だ、恐怖だ、どうしようと嘆くもいいですが、 結局最後に選択、決断するのは自分自身です。 留まるか離れるか従うか従わないか、一緒か一人か、 全てが自己責任でしかないのです。 政治家は、「直ちに健康被害が出る訳ではない」と言いますからね。 原発周辺の皆様には、特に大変な決断となる事態。 起きている事象の全てを速やかに明確に正確に把握することは難しいです。 しかし目の前に現実は起きているのです。

「ご無事ですか?」

「 ご無事ですか? 」 初めて使った言葉です。 私の夫の実家も宮城であるため、地震直後は、家族、親族の安否確認に翻弄した。 皆さんご存知の通り、地震直後の携帯は繋がらず。 解らないことほど不安にさせるものはない。 運よく、家族、親族は皆無事。 市内にある実家は5日目に電気、8日目にして水道が回復し そこに親族達が集まった。

「ご無事ですか?」 色々な人が使ったことだろう。 東北の地震の数日後に、ここ沼津のある静岡県東部を震源地とする地震でも、 私から人に、人から私に交わされた言葉でした。 ご心配頂いた皆様、本当にありがとうございました。

「ご無事ですか?」 それ以外に思いつく言葉がないとき、 それ以外に周りができることはない。 人間の叡智を駆使した原発も、自然の脅威の前には無力だ。 スーパームーンの影響か、マヤの予言か。 はっきりしていることは、地球は生きている。人間は生きている。 互いに絡み合い、化学反応を起こしている。 こんな時人間にできることは、富も名誉も捨てて助け合い生きていくこと。 それが常でいい筈なのに。

災害に遭われた方々への心のケアについて

地震に遭われた方々への心のケアについて。 早々に、 被災体験 を語らせたり絵に描かせたりしないでください。 被災体験は、安全・安心・信頼の関係性のなかで表現されてこそ 回復への力になります。 逆に、安心・信頼のないなか表現を強いることは、二次被害を与えます。 静かな時間が大事な薬です。

怖いと感じる気持ちは命を守ろうとする正常な感情です。 こういう時に心身に起きる変化は、こういう時の当然な反応です。 いじってはいけません。 ただ側にいて守ってください。 関心を寄せることです。 専門家でなくても、誰にでもできることです。 どんな状況下でも、本当の飢餓は、「無関心」だからです。

安心と安全 豊洲移転問題

豊洲移転問題 の中でも飛び交う言葉…安全と安心。どちらにも絶対はないのかも知れないですが…。ここで言う安全には基準値なるものがあり、その基になるものは化学だったりするという。じゃあ、安心は?

…昨夜のテレビ番組で、「安心には歴史が必要」とおっしゃっていた方がいました。そうですね。安心は、経験値の中から創られるもの。そしてそれは、人と人との関係を通して得られるものなんじゃないかと思います。

マザーアースの基本姿勢の中でも「安心感」という言葉を綴っておりますが、立派な家や尽きない食料・財力は、安定した生活を送るのに大切なものでしょう。しかし、それらがどんなにあったとしても、そこに暮らす人々が安心するには、そこにいる人々同士が互いに理解し合い尊重し合い、支え合え合う延長にあるのだと思うのです。

ある程度の生活レベルがあっても、家族の歴史の中で、人と人、親と子が、自分のままでいることを認められなければ、社会の中での自己の確立は難しく、対人に不安や問題が起きやすいでしょう。

豊洲移転問題について話を戻せば、搾取しあい誤魔化しあい隠しあうのではなく、それをオープンにすることからでなければ、安全も安心も、見えてこないのではないでしょうか。

「安全」にも「安心」にも絶対はない。だけれども、自分の考えや気持ちを暖かく受け入れられ育まれた人には、自分を信じ生きて行ける「生きる力」が備わり、問題や困難にも毅然と真摯に立ち向かえる。そういう人の作る家族や仕事、創作物に安心と安全はあるのではないのでしょうか。

自死

高校生の死。部活での体罰が理由だと。ある体験者は、「弱りすぎると死ぬこともできなくなる」と言う。 欝から回復に向かい始めるその時が最も危ないとも言う。 行動に移すエネルギーが無いと死ぬこともできないと言う。

さて、果たしてその差は一体なんだろう。  やはり、、その行動を起こさせるものは、何らかの意思というか気持ちというか、 生きてる者へのメッセージ性のようなものではないか。 行動に移す人の多くは忍耐強く真面目な人が多い。 その力が及ばなくなった無念さの象徴なのか…

部活の強豪校。目的も目標も勝利のみ、勝って当たり前。 そんな環境のなかの指導者が、一神教の神様のように振る舞い扱われることは多い。 時に込み上げる感情が爆発することもあろう、が、暴力や体罰というものは そうしてしまうその人本来の中に持つ、思い通りにならない怒りの矛先でしかない。 だから逆を言えば、怒りを抱える指導者でなければ、暴力や体罰は絶対にない。

勝利至上主義の中での関係では、必ず上下がある。それ自体は当たり前である、が、支配がまかり通る環境はおかしい。 どうしたら回避できるか。 私が言えることは、少なくとも、連続的な自己否定感を感じ、「死にたい」と思い始めたなら、すでにその環境がおかしいんだと思っていいということかな。