自由

個性の尊重とか、自由な選択とか言われ始めてしばらくたちます。 確かに情報はあふれ、多くの方が自由な表現しはじめていますよ。でも、人と違うこと言ったりやったりして、 それを受け入れるというか認めるというか、 そういう土壌はまだまだない。みんな違ってそれでいい、認め合おうとか、口では言っているけど。

自由な言動、表現て何? 自由には責任がある、覚悟といってもいいけど。 自己責任の覚悟がなければそれはただのわがまま、自分勝手です。360度の中からの自由な選択には覚悟がいります。 自分に正直じゃないと責任て取れませんから。

自由とは責任

「自由」とは「責任」。 自由には責任が伴うと言ったらいいかな。 「責任」とは、謝罪や義務の遂行ではなく、 自分の言動を自分の意思・判断で遂行するということです。

例えてみましょう。 車の運転をするとき、 自分の判断でハンドル操作ができるのはとても楽しい。ハンドルを握り、 アクセルとブレーキを自由に操れる喜び。 しかしそこには操作を誤ることでの危険も伴う。 つまり運転責任があるということです。 逆に助手席の人、 操作に伴う判断責任はないし何しろ楽です。 しかしハンドル操作の爽快感や、 目的地選びも運転手任せ。 更に言えば自分の命も、 運転手に預けることになる…

自由とは、何にも囚われず縛られない状態であるが、 それは、責任でもある。 だから人は、自由を恐れる。 さて、 あなたはどちらを選びますか?

自由と自己納得

自由を掴むには責任が伴う。 ・・何度も申し上げていることです。 しかしそれは、他人に迷惑をかけてはいけないとか他人を傷つけてはいけないということではありません。 いえ、迷惑かけていいとか傷つけていいと言いたいのではありません。 例え結果そうなっても、それが予測されても、自分の勝手を承知で、 その自分の気持ちに責任を取ってやるということです。

ですから、他人への迷惑や犠牲があればそれなりの対応や謝罪、償いもする。 逆にバックレてもいい。 そしたら周囲から干されるかも知れない、 それ、込み込みで、オール覚悟・オールOKという姿勢が必要となります。 要するに、自分の尻拭いは自分でしろ というだけのことです。 自由から責任を外せば、ただの自己中・わがまま、 しかしその責任というヤツは外からあまりわかりにくいもの。

だから、外からどう見られるかが気になっているうちは、やはり、自由を手中に収めるのは難しいでしょうね。 言い換えれば、善人を辞める覚悟とも言えるでしょう。 人間、どうしても欲しいものは、少なくとも手に入れたいと思うものです。 その時に、どこまで自分の勝手を許せるか、自分の気持ちに正直になれるか。 もし、外野のことが気になったり、いい人でいたければ、多少不自由であっても、それが今の自己納得なのかも知れないですね。 自由が不自由より勝っているという訳ではありません。 肝心なのは、今の自分が落ちるけるのはどちらか、それを理解した上で自分が選べることです。

自由に生きるということ

自分の生き方に満足している人はどれ程いるのだろう。 自分の人生を自分らしく生きることにためらいは無用。 ためらうとすれば、それは、 自分の人生にただ責任をとりたくないからとしか思えない。 かっこ悪くても、アホでも、ドンくさくてもいいじゃんか。それをどう見られるかが気になっているうちは、本当の自由はない。

自由を自己中・我がままと混同する人がいる。 自由とは先ず自分の言動に責任が持てること。 責任とは、その言動の意図や真意が自らのものだと言えること。 そこに善悪などいらない。 それに必要なのは、ただ自分にとことん正直になれるかどうか、それだけ。 いやいやな行動や納得しがたい行動には責任を持つことなどできないからね。

そう、自由に生きるには自分に正直な気持ちに責任を持つ覚悟、 つまり、自分を大事にしてやればいいのです。 責任取りたくなければ主体的な自分の人生など送れるはずはありません。 良いとこ取りはありえません。 自由を獲得するには、先ず、自分がどうしたいのかを知ること、 自分と向き合い本心をしっかり確かめることが先決です。

先日、引きこもりのテレビで、1年半自分の部屋にこもっている中1男子の部屋から 父親がその子を引っ張り出している場面があった。 確か、カウンセラーに促され、父親が息子をひっぱたきながら、 「何の努力もせず、いつまでこんなことをしているんだ」とか何とか言っていて、 それに対して息子は「呼吸することを努力している」と言い返してたな。

・・・息子、よく言った。部屋中穴だらけで、物はビリビリに裂けたゴミ箱の様な室内で、 頑張って呼吸してたのか・・と思う。 私自身引きこもった経験はないが、引きこもりは理解できる。 本人が深い迷路にいるのなら、それなりに時間は必要だろう。 自室に引きこもり、他者を排除し、自分だけと向き合うことによって 見えてくるものはある。無駄はない。

むしろ、家族に言いたい。 腫れ物に触るように扱ったり、否定しといて世話を焼き続けたり、 なんとも中途半端。 親として家族として向き合う覚悟もなければ、対処の一貫性にかけている。 そういう中途半端さがその子に影響し、反映させただけのように思う。 子供は家族全体の鏡なんだよ。

つまり突き詰めると、家族全体が自由を知らないのです。 やれ世間が、社会が、誰それがと、規制に縛られ、 自分の意思を見失っている。 自由の放棄。 自由なヒッキー(引きこもり)と仙人は、そんなに違わないとも思う。 とことん自分に従い他人をうらやむこともなく 人里離れ独り生きることを楽しむ ・・ありゃ、それってどこか自由なホームレスと同じか?

羽ばたくために必要なもの

所属している会社なりチームなり、今の環境やポジションから 容易に降りれる人とそうでない人、変えれる人とそうでない人、 それを実行するかしないか、そこに必要なものって何だろう。 それは、 他でもやっていける「自信」というよりは 他でもやれるという「自由」だと思う。

自分に自信があるというのは、動きやすく フットワークが軽くなりやすいのは事実だ。 自分は他で通用するのか、他で結果を残せるのかなど 考えてしまうのも当然の心理。 しかしそれでは、自信をつかむまで動けないことになる。 自由とは、人より秀でているかどうかという比較の外(そと)、結果の跡ではなく、 そこにいたいかどうか他へ移りたいかどうか。

自分の中に《俺がどこでやるのかは 俺が選択していいんだ》 という自由があると、 結果や評価の前に自分の希望や夢の実現に近づくことができる。 やってみて打ち砕かれることはある。 しかしそのとき、 自分の中に後悔やら反省やら或いは悔しさや納得が生まれる。 それが大事。 それが次の布石となりまた歩みだすことができる。 人生などその連続に過ぎない。 自由の行使、 それこそが誰もに与えられている平等な権利ですから。

やっぱり自由は自分の内側、既成概念の外にありそうですよ

人間、嫌なものには反応しますね。 戸惑ったり、二の足を踏んだり、当然楽しく感じないもの。 だから、自分に合ったものを見つけたければ、 先ずは、気が向かないものを、どこまでもやらずにいてみること、 とことん自分の反応を優先してみることです。

嫌なものを辞めていったら何も残らないと思ってしまう人は、 今まで、いかに自分がやりたくないものをしていたかということですね。 また、やりたい事しかやらないと、我儘だと言われそうですが、 それは既成概念に囚われた言い訳に過ぎません。 「気が向かない」と自覚されることは、自分への告白であり、意思表明です。 そしてそれに従うには、自分に正直になるしかない。

例えば、やりたくないから「もう少し待って下さい」とか、 やりたくないから「代わりにやって下さい」と言う。 相手から「ダメ」と言われ、 「仕方がない、やってみる」となるなら、それはその人の意思です。 相手がなんと言おうと頑固に貫くもよしだし、 もし相手が「わかりました」となれば、交渉成立ともなる。 つまり、「しなければならない」と思いがちな人は、 自分の意思の所在が解らなくなります。

例えば、「自分が~したいんだ」とか、「自分は~したくないんだ」という、 自分自身の気持ち、意思が語れなければ、当然、責任も負えません。 これではやりたい事が何かなど見つかる筈はありません。 楽しいことを見つけるには、 楽しく感じないものから逃げずに正直になること、 嫌なら嫌だとしっかり感じてみること、 つまり、それまでの世間体や既成概念を一度ぶち壊す必要がでてくるのです。

どのような状況にも優劣や不幸などありません。 支配したい者と支配されたい者が噛み合えばギブ&テイク。 どう感じるのかは自分の主観のみ。 自分が幸せだと感じるなら幸せだろうし、不幸だと感じるなら不幸でしょう。 そして変えられるのは自分の意識しかありません。

さて、人間万事 塞翁が馬(じんかんばんじ さいおうがうま) ・・人間の吉凶・禍福は変転し予測できないということ。 福は禍となり禍は福となる、世間とはそういうものだということ。 世の中には、今の状況が、選択の余地などない方もいらっしゃると思います。 だから頑張るのでしょう。 しかし、自由を掴む入り口は、 やはり既成概念を取り払い、自分の意識の内側に入っていくことでしかありません。 そして、誰でも、教わるより自己体験が一番です。

失敗体験は自由に近づく手がかり

自由に生きている人というのは、自分の選んだ経験・体験で物事を味わっているので、 愚痴や言い訳が出にくいものです。 先ずやらされているという言い訳がないので、批判があるとすれば全部自分、 そうすると自分が嫌な想いをしないように考えるようになる。だからといって、 自分が辞めたければいつでも辞める。 要は自分の気持ちに任せられ、それに善悪がないのです。

悔しさは味わうほど真剣にならざるを得ないので、成果は上がってきやすい、 そうすると、その時の喜び・妙味が格別になります。 こんなシンプルな事が解らないのは、いかに世間の大人が自由な自分の選択で行動 してきていないか、自由の境地を味わっていないかということなんでしょうね。 失敗や挫折の心配ばかりを気にして体験という経験を避けてばかりでは、なんにも 見えてこないばかりか自立なんてできっこない。

だからみんなで手を繋いで、出来るだけおんなじことして励ましあい、ちょっと変わった事 する人を排除したがるようになる。 皆で大学行って皆で資格を取って、同じ方向向いていれば、誰かが何とかしてくれると、 まだ本気で思ってんのかな? 皆と同じなら何でも構わないのかな?

一人一人が自由に生きようと思ったら、家族であっても意見や考えの違いが出てくる のは当たり前。 親はどこまで子供を手放す事ができるかだし、その前に自分が精神的な自立をして いないと、子供に頼ったりもたれかかり、期待、不安を押し付けてしまいます。

自由な家族というのは、バラバラになっていくのではなく単体として自立している 集団です。 だから、親の自由度が低く精神的に自立していないと、どうしても子供に負担がかかり、 感受性の強い子供ほどAC度が高まるのです。 自由度の低い人ほど失敗を恐れるので、その子供は親の狭い価値観を 押し付けられてしまうのです。

ちょっと世間のお母さん達を見てください。 自分はパートで働きながら、子供の為家族の為だと愚痴をこぼしている人、 いるじゃないですか。 子供に多大な期待をかけ高学歴を好み、権力に弱い人、沢山いるじゃないですか。 明らかに周りを意識し、比較しながら上を目指していますが、それは構わないのですが、 自分はさておき子供にそれを強いるのは、おかしいでしょう。 自分の生き方に生きがいを感じられている、そういう人は子供の生き方も尊重 しやすいでしょうが、そうでないとその分、押し付けたり寄りかかったりしてきます。

お分かりのように、自分自身に対する見方が、他人への見方に繋がります。 自分の価値観が狭いと、他人の見方の枠も狭くなります。 失敗を恐れて世間並みに納まるか、失敗を繰り返しても自己納得の人生を歩むか、 どちらにも優劣はないのですが、自己納得の人生でこそこの世のカラクリがわかってきて、 生きている事が面白くなります。

なんやかんや言っても、世の中、確実に拡がっています。 自由はあなたの手の内、世間を甘くするも厳しくするも、どうするも自分次第です。 それから、親の意見をはね返し親から自立していこうとするのは、我儘でも自己中でも ありません。むしろ、優しいです。 先ずはあなたが親から自立し、親を手放してやって下さい。 手放す事がどれだけすごいことかを、親自身の体験で味あわせてあげて下さい。