感受性

感性をもてあましている方へ

感性とか感受性の大きさは、人によって違う。 それは、生まれつき持って生まれたものであって、その違いに優劣などない。 しかし、感受性の鈍い人には敏感な人の気持ちはわからない。 計り知ることはできない。 だって、違うのだから仕方ない。

だから敏感な人の気持ちは敏感の人にしかわからず、感性豊かな人が、自分のそれをもてあましていたり、 周りから押しつぶされれば、それほど苦しいものはないでしょう。 その深さ・鋭さゆえ周囲から理解を得られず、否定されたり変人扱いされれば、自分でも、理性で押さえ込もうとして、 酸欠状態のような息苦しさを味わってしまうでしょう。

楽になるには、先ず、そういう自分の感性・感受性の強さに気づいて、 開放するしかありません。変わろうとしないで、消そうとしないで、自分仕様に動かすのです。 それには先ず、自分の姿を確かめること。 自分の感性を自分で把握すること。 自分を熟知してこそ、自らの中から起動し始めるのです。

感度がよくても、大雑把に生きることはできます

感度がよすぎると、周囲の雰囲気、空気を読み取ってしまいます。 他人の気持ちを過敏に察知、反応してしまいます。しかし、それに惑わされず、引き込まれず、振舞うことは可能です。 要は、他人の‘気’に囚われないことが必要ですが、その為には 自分理解、価値観の点検が先決です。

例えば、敏感な人が、相手の機嫌が悪いのを察知すると、自分が何か 気に障るようなこと言っちゃったかなとか、悪い事したのかなとか 振り返ってしまいます。 そんな筈はないと思っても、それこそ、その敏感さで自分側を点検するでしょう。 相手が怒ってるとか、又は悲しんでるとかが瞬時に伝わってくると、それはもう、 一体どうしたんだろうと、先ずは自分側の落ち度を考え始めます。

先ず、自己否定や自分処罰から入るのは、 自分に嘘のつけない、責任感の強い方ならではの行動です。 つい、他人が求めるようにやってしまうのも、素直さの所以でしょう。 幼少時の境遇や親の状態によっては、自分の感性の敏感さが働き、 つい、役割を担ってしまったこともあるでしょう。

例えば、いつも悲しそうにしている母親の愚痴を聞いて、よい子になる。 いつも叱る父親から逃れる為、いいなりになる。その基準さえ一貫性はないのですが、親から方向性を刷り込まれた敏感な子ほど、恐怖と不安を煽られ、マインドコントロールされてしまう。 そしてどんな状況下でも、持っている感度を最大限に活用していたことでしょう。その行動には、感情の優劣、行動の善悪、 そういうものが作用していた筈です。

しかし、感情に優劣はない、 悲しみも怒りも、嬉しいという気持ちと同じ、優劣はありません。ただその状況下では 自分が(親を)放っておけなかったと理解できると、その時その時の 自分の感じていた、弾いていたものが肯定されはじめます。 自己否定せざるを得なかった自分、(親の)気を察知し 状況にあわせて行動していた自分が、自分らしかったと認められるのです。

すると、次第に、敏感な自分の感性や細かすぎる‘気’が、愛おしくなったり、 自分に対してよくやったなと感じ始められます。 自己肯定感が増していくと自分が感じたまんまの、 ムッとする自分、悔しがる自分、悲しい自分のまんまでいられるようになっていきます。 人の気が解っても、自分の気に従えるようになり、やりたくないときに ぐうたらできることも大いに増えます。 ある部分には拘り、そうでない部分は大雑把でいられるようになります。

敏感が鈍感にはなれません。 しかし、敏感に反応していることを放っておけることは出来るのです。 敏感さ故に楽しめる面白がる自分の人生を謳歌するには、 その感性を自分自身の為に、最大限活用できる事です。 それは自他共に、善悪優劣のよりなくなる居心地のよい方向ですから。

精神感応

そういえば幼稚園時代、私は引きこもっていた。 家の裏に保育園があって、覚えているのは、嫌々やった主役と 、家のカーテンに隠れていた自分。 すぐ裏に位置する保育園から見つからないようにそうしていたのだと思う。

何故行きたくなかったのか・・保育園では先生に叱られないおとなしい子、 そういう自分が窮屈だったのだと思う。 注意や叱られる友達を見ていて、先生がイヤだった。 しかし何故か小学校から中学卒業までは無遅刻無欠席だった。 勉強は嫌い。楽しめる会話を友人とした記憶はない。 私は私の世界の中で生きていた。

中学のある授業で、次の発表者を指名するルールがあった。 そこで必ず私を指名する人がいた。 一度も話した事がないクラスメイト。 しかし私の中ではいつも同じ匂いを感じていた。 たまに感じる同じ匂い、しかし私はあえて言葉で会話しようとはしなかった。 言語の対話では雑な気がしてたから。

私は自分の感性に、より忠実だった。 それ故か、あまり後悔はない(失敗はあります)。 何故なら、その時はそうしたかったんだろうと思えたから。 後付けの理屈や言い訳で終わりにしたくない、それも雑すぎて落ち着かないから。

例えば、フラれたとき、とことん寂しくて仕方なかった。 だから泣き喚き暴れたりもした。出 口のない暗闇だったけど、そうしてたら何かが変化していった。 理屈や言い訳してもひたすら寂しさは消えないことを知っていたからね。

みんな、自分の中に、自分の世界を持っている。 感じる、感じあう。それは誰にも邪魔されない、精神の自由な交流の世界です。 私にはそれが一番信じられ、面白いことだった。

感性のアンテナ

自分の中から伸びるアンテナが「ん?」って感じるものには、必ず理由がある。 匂いとか雰囲気とか、漠然としたものであっても、 私自身も今までそれと対話してきて、その意味が解ったんだ。 あん時の匂いはこれかぁ・・とか、 この雰囲気、こういうことだったかぁ・・とか、 とにかくシンプルに辿っていくと見えてくる純粋性の痛み…子供のような大人。 おそらく、みんな、ほんとは自分の感覚を完璧に信じてる。そして大事。

だから、それと違うことを言われたら、更に、ん?て感じてる。 でも、その、ん?を否定されたり、取り合ってもらえなかったりすると、 基本的には、何故だろうと思う。 それが日常となれば、その何故を納得しようと、理解しようと考えだす。 ん?を表現したことで、相手から受け入れられなかったり、 相手が傷ついたなんてことがあれば、自分の至らなさを点検し、 一生懸命に直そうとか、引っ込めたりもする。

例えば、友達との会話で自分が感じたことを正直に言ったら、「○○ちゃん、こわ~い」とか「○○ちゃんに傷つけられたー」なんて言われたり、 親から 「そんな風に思っちゃいけません」なんて叱られたら、もうアウト。 裸の王様に出てくる子供のように、「王様は、ハダカだー!」なんて言おうものなら、 「しーーーっ!!!」って総攻撃を食らってしまい、訳わからぬまま、 厄介者扱いをされてしまう。 そこで、更に、ん?と反応したら、もう輪に入れてもらえない。

それは本意ではない、 自分はみんなと、単に仲良くしたいだけだから。 そうなると、自分の感覚を自分が見張り、 感じてることを相手にも悟られないよう注意し、自分のアンテナで人の気持ちを拾い、 穏便に円満に済むようにしてしまう。 それでも感じる自分の感覚を恨んだり、 何の疑問も感じない他人が羨ましくて、しょうがなくなる。 自己点検、自己否定の連鎖が始まり、罪悪の塊に埋もれる。

感受性豊かな正直ものは、こういう状況下では、こうなるよ。 それでも自分のアンテナは衰えることなく、ん?を辞めない。 この状況から解放されるには、もう一度自分の、ん?に立ち戻って、 検証してみる必要がある。 そこに全てが網羅されていますから。

純粋性の痛み…子供のような大人

人間関係において、多くの人びとは最初優しく近づいてきて、もともと深い関係の友人同士だったんだ、というような素振りを見せる。 温厚でなんでも聞き入れてくれそうな雰囲気をかもし出す、そう、お互いにね。 それが段々と相手の癖というか個性を垣間見るに連れ、合うか合わないか、又は必要か必要でないかによって選別されていく。 初めは社交辞令というか、よい関係を築きたいので、「温厚でなんでも聞き入れてくれそうな雰囲気」を作る。

その上で、自分にとって気が合う人あるいは必要な人を選別して、段々と洋服を脱ぐように心を開いたり、上手く利用したりしていく。 これは当たり前というか自然なことでもあるが、そういう中において、初めから開けっぴろげで自分をさらけ出し、しかも相手の反応に敏感な人は、たいがい傷つく。 この違いは、簡単に言うと、「子供と大人」をイメージすれば解り易い。 子供はストレートに物を言い、素直に自分の気持ちを話す。大人は場の空気を読み、相手に合わせつつも自分の欲求を満たすため、自分に都合のいいように振る舞う。

どちらも悪くないが大人と子供が一緒にいたら、たいがい大人が先に疲れる。 本当の大人と子供であれば、何とか大人が我慢して合わせたりするのだろうが、実際、「子供のような大人」に対する対応はシビアだろう。 するとここでいう「子供のような大人」が、ショックを受けたり自分卑下をして、人間不信にもなってしまうと、どうしていつも上手くいかないんだろうと思ってしまい、自分を引っ込める癖がついていく。

どちらも悪くないし、どちらもそうなるだろうという感じではあるけど、そこには紛れもなく個性の違いというか、価値観の違いがある。 ただ単に子供が育っていないというのでもなく、アイデンティティの違いがあるんだろうね。

例えば…お笑いの千原兄弟の兄、せいじ。 彼のくったくのない物言いは子供のまんまというか純粋で、それでいて相手の反応に物怖じしないので、ただ自分でいられる。 彼への好き嫌いはあるだろうが、本人には全く関係がない。これぞ完成と思わされるほど楽しそうに見える。しかしどうだろう、もしも相手の反応に敏感だったら自分らしさは引っ込んでしまうね。 それが弟のジュニア。

彼は自分の繊細さゆえに一度引きこもった。彼の強いところは、自分の細かさを世間から守るために自ら引きこもったと言えてる所。 まあ、それはさておき、どちらも純粋ではあるが、ジュニアの方が、相手の空気を読んでしまう所があるので、結局は傷つきやすい。 だからといって、兄せいじを目指そうというのではなくて、自分の体質を熟知し、それを自分が守れれば傷はつかないばかりか、相手の反応はそのまま自分への褒め言葉として受け取れるようにもなる。 若干、生意気で自惚れ屋にもなるが…

天才の皆様へ

ホント、お客さんたちは天才ぞろい、変人ぞろい、宇宙人。敏感で、真面目で、一生懸命で、こだわりがすごくあって、純粋で、 そして真剣に悩んでいる。だからこそ、今まで我慢して苦しんできたんだろうな。

天才を作りたいと思う親がどれほどいるのか知れないが、 そもそも、天才とは生まれながらの資質、 であれば、安に、天才が素晴らしいという認知は捨てたほうがよい。

天才とは凡人の反対というか、 ともかく世間の枠外にいる人たち。だからこそ、わかってもらえない苦しみに潰されそうな人も多い。 自分の持つ特異性ゆえ、 自分が何者かもわからずにもがいている人も多い。 周囲の扱われ方、関わり方にも困惑する。

しかし、早く突き抜けてください。 あなたたちをどう呼び、どう扱うかは、 周囲の勝手な判断でなされます。 あなた達のせいではありません。 それにいちいち関わっていてはもったいない。 我慢して、結果ぶち切れて病院や監獄の檻に入れられるより、 きちんと自分を把握して、 自分の居場所を自分でこしらえたほうがいいですよ。

自分自身に気づいた天才は、 たった一人になってしまったとしても楽しめます。 なぜなら、自分を自分が面白がれますから・・・ ですから、どうぞ早く、目覚めてください。

超天才は、はじめちゃん?いえいえ、バカボンのパパですよ

バカボン一家のはじめちゃんが天才だとするなら、 バカボンパパは超天才なのだ~。

どうでもいい話ですが、世間というのは、 超天才がバカボンパパだということを知っているから、 はじめちゃんのような天才を目指そうとするのかしら。 そもそも、それだってムリなのに、 少しでも近づこうと頑張った満足感を味わおうとしているのかしら。

バカボンパパには、子供を裏切らないという常識はない。 バカボンパパにとっては、天才のはじめちゃんは、 ただの息子にすぎない。 勿論、バカボンも同じ。 子供が賢ければ親が喜ぶという常識もなければ、 親は子供よりしっかりしているという常識もない。 ただやりたい事をやりたいように、 生きたいように生きていくだけ。

純粋に、シンプルに「~なのだ。」と言い切れるのだ。 不条理をも、これでいいのだ~と肯定しきってしまう、 現況を認め受け入れたうえで、 「これでいいのだ~。」と自己決定できるのだ。 率先してママに飼われ、自分を楽しんでいるのだ。 あの一家、ママも天才、バカボンも天才、天才ぞろいだ。 バカボンパパを認め自分からプロポーズしたママの眼力。 どこまでも自然体でいられるバカボン。 純粋な天才的バカ。 みごと天才! 家族全員に自分卑下がなく、ゆえに周りの全ての人に優劣がない。 ああ、見習うべし!

ん・・ あなたがバカボン一家だったらどうでしょう。 はじめちゃんとバカボンの兄弟を、平等に、公平に扱えますか? バカボンに勉強を仕込んだり、馬鹿にしたり、 はじめちゃんを特別扱いしませんか? バカボンパパを恥ずかしいと思ったり、見下げませんか? あなたがバカボンパパなのに、 バカボンママになろうとしていませんか? あなたの子供はバカボンなのに、 はじめちゃんに仕立てようとしてませんか? それを辞めればいいだけなのですよ・・・ 天才の芽をつんだら、ダメですよ・・・