恐怖

恐れを抱いている人へ

今が怖いのは、過去に生きている人です。 当然、未来など怖くてどうしようもない。 過去の思いが残っていると、その感覚が似たような出来事に同じように反応し、 同じパターンとしてできてくる。 それが生き辛さであり、過酷な体験ほど反応は強烈で、今を脅かされるような怖さとして、 日常のはしはしで反応してしまいます。

しかしその反応は過去のもの。 それを過去とすることで、つまり思い出となれることで、今この瞬間の怖さはなくなり、 生き易くなります。 過去にするには、残っている感覚の痕跡を辿り、その時まで行ってみる。 するとその時に、自分がどう感じ、何を考えていたのか、はっきりと蘇ることが できるのです。

少しずつ、こういうことがあった、こんな感じだったという事実を再体験し、 過去の、当時の自分の思いをきちんと感じ切ることで、過去のその場所が埋まり、 安堵できるのです、 まるで忘れかけていた残りのピースがはめ込まれ、自然に馴染むようにね。

意味不明な恐怖

自分が子供で、親や大人から意味不明なまま怒られるような環境にいたら、 大人の怒声や怒っている雰囲気に、過剰反応するのは当然のことです。 これが日常的に続いていたら、もはやその、怒声や雰囲気に呑み込まれ、 何が起きているのかということより、そこからどう避難しどう居たらいいのかしか 考えることができなくなります。 いち早く察知し、或いはそうならないように先回りし、 自分の安全を確保することに終われます。

そこで何がおき、どうしてそうなるかなどは考える余裕がなく、 または考えても解らないのです。 俗に言うヒステリーな親、独裁的な親など、 自分の気分で周囲を振り回す人の存在は、子供にとっては意味不明で、本当は意味などないということを、 当時の子供が知る由などないのですよ。

怖いと感じられることの意味

怖い、淋しい、怒る、これらの感情は人が自分らしくいられるにあたって大切な感情です。怖いというのは、ゴキブリが出た、雷が怖い、蜂が近づいてきた、ノストラダムスの大予言が怖い、人混み、集団が怖い、そして人そのものが怖い…などなど、人から見たら「え、そんなことが?」とか「わ、はずかし!」など思われることも多いし、仕事だったらそんなこと論外と言われてしまいますね。

そして、怖いまんまでいることって気が休まる暇もなく、生きた心地がしないのも事実。そのなかにはトラウマ的な要素や何らかの感情の抑圧があることもある。それを基にして言うならば、安心して自分らしくいられなかった生育暦、環境下で優先されるものは、自分の感情や気持ちのままいられることではなく、いつでも「どうすればいいか」にあります。

例えばトラックにぶつかりそうな瞬間、自分の感情は止まり、その状況をどう乗り切るかどう回避するかに全神経が注がれます。そしてそのひとコマひとコマは、まるでテレビドラマのワンシーンのようにスローモーションで記憶の中に取り込まれる。つまり感じる暇もないほど怖いとき、人はその感情を味わったり出したりするより、その対応に追われる。咄嗟に避けたり回避することに集中する。そして恐ろしさに耐え難いとき全てがフリーズし、その時が過ぎるのを待つのみとなる。

だから、助かったーと思った瞬間に怖さを実感し、思わず声を出して泣き出したり、心臓のドキドキを感じたり、生きてることを実感する。「あー怖かった」「びっくりした」というような気持ちは、怖ければ怖いほど、振り子が鳴り止むように、そして確実に鳴り止むまで続く。フラッシュバックという現象はこれにも当たります。

繰り返します。人は怖さが尋常でないとき、感情よりも思考100パーセントでそれに臨みます。勝負などもそうかもしれませんが、怖いなど感じていたらもうすでに負けなんですよね。怖い自分を見せたら、怖い自分のままでいたら負け。そんな自分では強くなれないので、怖い感情など捨てるように抑圧するのです。

でも、そんな日々が続いたら、もう素の自分など分からないし、いつでも緊張と不安が入り混じりながら、怖さを押さえつけ何とかやり過ごすだけの毎日となる。ビクビク、オドオド、そんな緊張と不安を押さえつけながらでは仕事などできるようになっていける筈もない。そしてこうなってしまうと勝負に勝つなんてことも無理だろうし、人間関係を築くなんてもっての他。

こんな状態の方はうちのお客さんの中にも多いのですが、この恐怖心は現在進行形なんですね。ということは、未だに感情ではなく思考重視で、なんとかその場を乗り切ることしか考えていない。頭では怖い怖いと思っていても、感じているのとは違っているようです。そうです、怖いという感情を感じることを、未だに許していない。怖くちゃいけない、怖くなんかない、と思おうと必死なのですよね。怖いという感情のみならず、自分の感情を許さず流さずして始まれるものは何ひとつありません。仕事も人間関係も、或いは何をみても湧きあがる感動などはないでしょう。

この世に産み落とされ、ひとりで生きて行くのは誰でもが怖いものです。それを早い段階でしかも極度に味わってしまった方にとって、生きるのが辛いだけなのも頷けます。しかし、『怖いのだもの助けてもらおうお互い様』これがあなたたち家庭では得られなかったこの世のルールなのですよ。今回は、「怖い」という感情に拘ってみませたが、「怒る」「淋しい」という感情も同じこと。要するに感情を取り戻し自分の中で流せる(まわせる)こと。留まって固まってしまったものは、あなたにとって大事だからこそ、そこを動かずにいるんじゃないでしょうかね。

赤ちゃんが注射で泣く理由

初めての予防注射で泣いている赤ちゃん。 殆どの赤ちゃんは泣くだろう。 俺は泣かなかったという人、それはあまり自然な状態ではないですよ。 赤ちゃんにとって初注射、 それは 『痛いから泣く』 というより、『怖いから泣く』 のです。 大人になっても注射は痛いもの、それでも泣いている大人はいません。注射自体は痛いけど、怖くないから泣かないのです。

人間は本能的にどちらが強いか知っている。 赤ちゃんが、大人を怖がるのも当然で、 赤ちゃんに、見ず知らずの大人が物々しい表情で迫り、 安心している母親から引き離されそうになれば、 それだけで怖くてたまらないでしょ。 突然に迫るその恐怖ったら、おそらくは初めての体験な筈。 このシチュエーション、お医者さんとお母さんの違いがそこになくっちゃ、 恐怖も不安も差がない。だから、もし泣かない赤ちゃんがいたとしたら、そのほうが怖いな。 日常的に恐怖や不安が赤ちゃんにあったら、注射は怖くないでしょうからね。

うちの夫は、幼稚園の入学式で、他の子供達が皆泣いているのを見て 不思議でしょうがなかったということを覚えていると言う。 それ、さすがに夫の方が不思議だわね。 振り返って夫は、 「おそらくだけど、入園前のいつでも、独りぼっちだったんだろな」 と言う。 う…ん、なるほど… もしかしたらコイツ、初めての注射でも泣かなかったかもな…

恐怖と向き合う

恐怖と向き合うということ、それは恐怖の克服とは次元の違う話です。 先ず、「向き合う」ということは、それと対峙することであり、その恐怖している自分が 恐がったまんまでいる理由、その意味を正確に腑に落とすことなのですが、 怖がっている以上、ビビッてしまっていて、対峙なんかするどころじゃないということを しっかり自認することが先決。 恐怖の土台から感じ考えることは、『怖いから』という 条件付きの思考の上に成り立っているということを、しっかりと押さえておくこと。

怖くて怖くて仕方ないという感覚がベースの上に成り立つ思考では、 その恐怖感をいかに察知し、回避したりやり過ごすかしか考えられない。 そう、恐怖感から逃げることしか考えてないということを自覚することです。 そりゃ本気で怖いので当たり前ですが、実のところ、怖くて怯えているような人でも、究極のところでは、 自分の信念というか意思を曲げてないことが多い。

例えば、叱られるのが怖くても遅刻をやめない。 おかしな話ですが、怖がることと自分の行動が一致していない。 叱られるのが恐ろしくてビビッているなら、遅刻しなければいいのだがそうではない。 また、遅刻しちゃうものしょうがねえじゃん にはならない、 この不一致に見える自分のギャップを紐解いていく、それが見つめるということです。

一つの例を紹介しよう。 うちの夫は、以前、オバケ・幽霊の類がもの凄く怖くて恐ろしくて堪らなかった。 突然のもの音や気配などを極度に怖がっていた。 特に霊感がある訳でもないのに、びっくりするほど怖がり怯え、 ありふれた日常の生活音、ある種の人間にも敏感に反応していた。 それを慎重に紐解いて見えてきたものは、『オバケや幽霊を怖がること、それは、怖がることでそういうものに畏敬の念を払い、 怖がることで、私は何もしませんよ、だから何もしないでくださいね』  というシンプルな発想だった。

それは、まるで神様を崇めることで守ってもらいたいと思うような気持ちに似ている。 そしてそれは、夫を取り巻く環境の中で夫が作り上げた、自分を守ろうとする 術のようなもの。 夫は、傍目には裕福な、何不自由のない家庭に育ちながら、たった一人で 何事も考え決めて生きてきた。 オバケは怖い、それは大概の子供なら当たり前だけれど、その怖さを一人でやり過ごし、 対処していくのは、夫の環境下ではとても自然で妥当な考え方だった。

いつしかそのカラクリが自分で訳わからなくなり、怖いと感じるもの全てに同じようになり、 ただ怖さだけに振り回され、怯えるようなっていったのです。 オバケや幽霊の類も相当怖いけど、いつしか人間関係にまで及んでしまったことが一番怖い。

しかし、全ては自分を守るための自作自演。 だから紐解くには、自分の協力がなければ見えてこないのですよ。 恐怖と向き合い対峙するということは、その本人にしたら並大抵のことではない。 しかし、怖がっていたい理由、怖がらなければいけない訳は必ずあります。

怖くて当然、だって出来ないんだもん

怖くて当然、だって出来ないんだもん。 そうだよ、出来てないんだもん、怖いのは当たり前。それを怖くないフリしたって、怖いものは怖い。 怖がらないようになろうとしても、そのものが出来るようにならない限り 怖さからは逃げられない。 なら、出来るようになればいいのか?

そう、そりゃそうなんだけどね、それじゃあ本末転倒。 怖さが先行している以上、そこから先には進めないんだ。 だから、『怖くなくなれば出来る筈』という思い込みを捨て、 『自分は出来てない』ということを認めること。 『怖がるから出来ない』のではなく、『出来ないから怖くなる』のだということ。 そしたら、なぜ怖くなるのかが自然と身に染みてわかる。 人に対しても同じこと。

出来ている人に対して、自分が無条件に恐怖してしまうのがよく解る。 その上で、じゃあどうしたらいいか。 出来ないことを認めるという事は、自分が、下、劣だということを受け入れること。 これ、あくまでも一堂に並べたときの評価であって、イコール ダメじゃあない。 ここのところ、お間違えなく。 それが承認されれば、そこから見えてくるものがある。

対人恐怖の正体

対人恐怖の正体、それは、自分として生きることを放棄した自分の泣き声です。 怖くてパニくって、どうしたらいいか考えられない。 そのため相手が気に入る言動しか取れず、疲労困憊しいつもしんどい。 そういう人の心の奥には 「憎悪」 がある。 そしてまた、その心の奥の奥底には 「怯え」 がある。

そういう人の内側で起きていることは、 心のなすがまま居られないことに絶望した自分が、 心のなすがまま生きることを放棄した結果、自分の言動に無責任となり、 自暴自棄に自分の心から逃げ続けながら、絶望感にさいなまれている。

自分の存在を拒否り、反応を隠し、ただ相手に合わせたり相手を持ち上げたり、 それだもの、人と深く繋がりを持てる筈はない。 そういう、まさに身代わりの術を使って生きていても、 いくら、そうやって生きていても、 ビクつきは止まらず、絶望感、虚無感は消えない。 その奥底で怯えている心を掴まなければ、絶対に絶望感は消えない。

怖くて不安で、どうしようもない心に気付きそして触れ、その怯えを掴むこと。 そういう自分が居るということを理解し、 今までのことを、 「そういう自分がしてきたこと」と認めること。 「自分は、そういう自分の意思で存在してきたんだ」と感じることだ。

しかしその前に、意識的にひた隠しにしてきた憎悪について語る必要がある。 内面に溢れる憎悪、それを正しく吐き出す必要がある。 ここを通らずして開放はない。 先ずは、ふて腐りたくなった気持ち、スネたくなった気持ち、憎らしくて仕方ない気持ち、 そして、淋しくて悲しい気持ちを思い出して。 そうしてようやっと、泣き声は次第に次第に静まり、 ただのちっぽけな自分が、ただそこに居ることを許可された安堵感に満ち、 失敗はしても怯えない、安心して、ただの人間となる。

対人恐怖のカラクリと本質1

親だからという建て前で、子供の自由を奪っている親はごまんといる。 ああしろ、こうしろ、お前の為だと、無自覚なまでに理不尽を押し付けている 親の威厳?を、責任感のある子供が支えているということにも気づかずにね。 親が気づかずにやっていれば、子供の方も気づきにくい。 そういう当たり前の日常がどれほど恐ろしいことか。 結論から先に言うと、対人恐怖というものは、こうした、気づかないうちに受けている理不尽な押し付けで、がんじがらめの押さえ込みの中から作られた、癖です。

説明していきますね。 そもそも人と関わるのが怖くなるというのは、自分本来の反応が出せないということ。 その殆どは、親との関わりで身に付いたものです。 特に、親が権力的、支配的だったり、子供に無関心で自己中な場合、子供は自分の意思を表現するという自由を知らず、ビクビクしながら親の意見を当たり前のように、或いは仕方なく受け入れています。 それはあたかも義務のように、それが自由を奪われていることにも気づかずに、巧妙に入り込んでいくから恐ろしい。

小さい頃から、自分の責任だけに留まらず、必要以上の義務を感じてしまう、いや背負わされてこられた結果です。 そうして染み付いた反応パターンは、他の人間関係においても同じく、特に親と似た人に対しては更に色濃く現れます。 人と話していてビクっと怯える、自分の意見が言えず、ありのままでいられない、そういう対人への恐怖が自分の自由を阻止しています。 人と関わること、或いは接すること自体が怖くて、ただ自分の殻に篭り、自己否定の迷路に陥ってしまうのです。

人が怖くて、人を感じる自分の感覚が怖くて閉じこもりたくなるのも無理ありません。 そうしてないと、これまで阻止され続けてきた、その奥の自分が顔を出しそうになってしまうのでね。 対人恐怖になられる人々の多くは神経細やかで、自分への拘りと人への思い遣りに溢れています。 それ故に、親を支え、人に尽くすことで、自分の存在をアピールします。 しかし、忍耐の奥で感じていた違和感、いえ憤りは、押さえ込んで消えるものではありません。

その奥に潜んでいる自分の本性が、今か今かと出番を待っているのですが、何しろずうっと我慢を重ねて来たものですから、出るのが怖くて怖くて、それでいつまでも人が怖いと思い込みます。 そうです。 対人恐怖の本質は、自分を解放させたい自分との葛藤です。 解放させるには、自分の感じていた気持ち、或いは感じるべき気持ちを知り、それらが妥当な反応だったと確認していくことです。

親との対峙も大事ですが、いくら親に食って掛かっても、例え親が謝罪をしても、自らが解放されなければ本当の自由はありません。 今までの自分を、「そうでしかなかった」と自然に感じれたとき、人への恐怖は終焉を迎えます。

対人恐怖のカラクリと本質2

「わからない」という答えはあっていい。 「今日のテストどうだった?」と聞かれ、「わからない」と答える。 大概のお母さんは、「なんでわからないの?」と言うけどね。 「やるのかやらないのか、どっちなの?」と聞かれ、 「わからない」と これも大概の人から、「はっきりしろ!」と言われるだろうね。

ワンパターンの質問にもいい加減慣れてくると、敢えて「わからない」と答えることで、うざさ を表現している人もいる。 わからない気持ちを大事に扱われないと、自分の気持ちや言葉自体に劣意識を持つようになる。 いや、持たされる。 挙句の果てに、本当にどうしたいのかを考えることができず、結局は自分の真意が見つからなくなってしまう。

こういうことが起きるのは、質問者(殆どが親)が、自分の不安を相手の答えによって拭って欲しいと思っているから。 なんとも身勝手な、依存的仕業ですね。 どちらか決まらないとき、或いはどうしたいのか迷うときなどは、誰にもあります。 決めかねているとき、吟味したいとき拘りたいとき、困難なときなど、「わからない」という答えが妥当であり、むしろそれ以外にはない。

わからない気持ちに踏みとどまり、じっくり考え感じてみなければ、結論など出てこない。 わからないを蔑ろにするから、肝心な結論は見えてこない。 例えば「どうしたいの?」と聞いたら「やる」と言ったり、 完璧にやり通す自信がないと、「やらない」と答えてしまったりする。 どうしたいの?と聞いた時点で、責められていると思い込む癖になってしまうからね。 わからないということが、いけないことだと思っているので、わからないでいることが、もの凄く不安になってしまうからね。

そう、問題は、「責められていると思い込む』ことと、 『わからないでいることの不安』だね。 これでは対話のテーブルについて貰えない。 わからないでいいし、どこがわからないのかどうわからないのかを聞きたいのにね。 これじゃあ対話が始まれない。 日常生活ではよくあること。 私だって確実に決まるまでは、長い時間、迷いだらけ。 それまでは、「だって、まだ、わからないんだもん」それでいいのになぁ・・・ もっと、わからない気持ちを大事にして、それについて対話したいものだ。 やるのかやらないのかという結果より、そのプロセスに、その人の人間性とか面白さとか味が垣間見れるのになぁ・・・

職場における対人恐怖

今回は、職場においてその怖さに呑み込まれ、流せずフリーズしてしまっている状態について書いてみます。

引きこもり系のかた、自分に自信がない人、それらの人にとって仕事というものは、なかなか上手くいかない。人間関係もスムーズにはいかず、対人への恐怖はなかなか減らない。その理由は、承認欲求が強く、見捨てられ不安が強く、自分の評価に気を取られ、相手からどう思われるのか、しか頭にないから。

厳しく言えば、これは自分のことしか考えてない自己都合による意識の使い方であり、これでは仕事への集中力は散漫となる。自己都合を咎める気などさらさらありませんが、自分がなにをしているのかに気づかなければ、怖さは永遠に消えはしない。例えば、自分のために誰かに何かを要求しようとする。とたんに怖くなり、相手の顔色を伺い躊躇し、やらずじまいなんてこと、あるでしょう。

ところが、誰かのために何かをしてあげるとき、その怖さはたちまち自分の原動力にすらなる。してあげれる優越感、喜ばれる快感。それを考えたら、いつもの恐怖は鳴りを潜める。しかし、「仕事」という場面に直面するや、たちまち怖くてたまらない。

そこでは自分の能力・実力だけが試され、いつもの気遣いや配慮など、あっても当然それに過大評価はない。しかも悪く言えば、人のため会社のためという意識より自分の評価・価値のために働いているのだから、それを与えて貰いたい顧客や雇い主の見る目が怖くてたまらないということに繋がる。仕事の出来・不出来というよりは、苛立たせなかったか不服はないかというようなね。

顧客はその対価として正しく支払いをし雇い主は正しく賃金を払う。しかし彼らにとっての喜びは、「賃金」でなく「価値」。「金銭欲」よりひたすら自分への「承認欲」にある。  だからこそ労働における自分は、絶対に逆らえない奴隷そのものになってしまうんでしょうね。

この思考回路では、怖くない筈はない。ストレートに言えば、職場で自分の価値を求めるというおかしなことをしている限りそれは得られないということと、仕事に意識が向いていない以上、全うな職務が果たせる筈はなく、しいては評価が低いのは当たり前だということですかね。

怖さの本質が自己価値の低さにあるのなら、それに目を背けず怖さの中にそっと入っていくこと。怖いという感情を恐れずに、そっと感じてみること。それに付き合ってくれる人を信頼してみること。

仕事に行くのが怖いということ(6/16)

仕事に行くのが怖い。

仕事が出来ないから、覚えられないから、ついていけないから、ミスしてしまうから、、これら作業における自分の不甲斐なさに打ちのめされ、出勤するのが怖くなってしまうパターン。

仕事や作業自体は問題なく出来るけど、そこで関わる人間関係が怖いというパターン。

その両方のパターン。

これら、世間では大概、弱い・情けない・ダメ・みっともないという印象というか評価をされる。 自分でもわかっているから更に嫌気が刺して、自己嫌悪のループに嵌り、ダメな自分は何をやっても失敗するに決まってるという認知となる。

この状態・この状況は、そこで関わる同僚・上司・雇用主そして顧客たち人間全てから向けられる眼や想定される認識への恐さであり、仕事や作業はその結果の恐怖である。 これでは人との気軽な接触を遠ざけるだろうし、ゆえに仕事場は無機質な空間となり、職場における楽しさは到底期待できない。

「仕事に行くのが怖い」という心の中にあるもの

さてそれでは、仕事に行くのが怖い人たちにとって、「仕事に行くこと」の心の中にはどんな認識があるのだろう。

その殆どにあるのが、同僚・上司・雇用主そして顧客たち人間全てに『言うことを聞く・従わなければいけない』という認識。ですが、実際にはこういうはっきりとした認識があるのではなく、『自分の意見や主張をしていいという概念がない』のです。

そもそも、怖いという感情は人間の優れた危機管理能力で、本来ならそれを察知した時点で何らかの手を打ちたいところですが、それを小さいうちから直面し続けたら打つ手はなく、耐えるしかなくなりますよね。

つまり、「仕事なんだからやらなきゃ・仕えなきゃダメ」という我慢の連続、或いは「そうしないと相手を怒らせる・嫌われる・居られなくなる」という誤認が決定的に自分の中で決められているのです。

それは自分の感情、特に苛立ちや不満・拒否など相手に不都合な気持ちを持つという、自分にとっては更に不都合な心を封じ込んでいて、そのうえ労働対価としての「お金」への認識が絶対権力のように自分を抑え込み、更にひれ伏すように心を牛耳られているのです。

背景にあるもの

仕事に行くのが怖いと言う人の中には、口答えのしない従順で無口な人は多いです。おそらくは生育歴や境遇から、「親の言うことを聞く良い子」または「従うのが当たり前の家庭」だったことが見え隠れしています。

つまり、自分という人間の思考や感情が優位に立てず、自分以外の人の意見ありきの上に成り立ってきた行動様式では自分という存在に肯定感は芽ばえず、「下手をしたら何をされるか分からない」という危機感、もしくは「何をされても仕方がない」という自己虐待がまかり通る心の世界を作り出してしまうのです。

仕事とは本来なら、自分の人生を豊かにするため、自分の人生計画に必要なお金を得るため、全てが自分の為の労働である筈なのに、お金を頂くんだから、雇って頂いたんだからという本末転倒な認知を肯定してしまっているのです。

人に仕え更にお金に使われる。こんな世界、世界観の中で自分らしく表現することは不可能に近く、これでは人が、仕事が、怖くない筈はない。
子供時代から学生時代まで人に従ってきた上、今度は「社会人なんだから」「お金のため」と更なる苦行でしかないイメージが、これらの人達には現実の世界なのです。

ここで1つはっきりしときたいのが「甘さ」との線引き。
仕事に行くのが怖い人達の多くは自分の至らなさを自分の甘さと理解しているところがあります。しかし、ただ甘いだけの人は仕事に行くのが怖いのでなく、ただ「嫌」なだけ。その違いは根底にある認知が、「自分が従うのが当たり前」か「相手が従うのが当たり前」か、です。

理解

さて、仕事に行くのが怖い、いくらそれを全て自分のせいだと思っていても心は言うことを聞きません。

なぜならば、従うことが至上命令である自分の思考が自分の心を押さえつけているので、他人に対して感じていい筈の心、例えばイラつくムカつく、嫌だな不満だよ、それから不安だなというような感情を、自分でも見つからないくらい奥底に封じ込んでしまい、だからこそ、何が起きるか分からない職場の仕事や人間関係には、怯えしか残らないからです。

心が怯え、ビビリっぱなし。他人に従い仕事をこなそうとしても、その怯え、その恐怖を抑えるのに精一杯。それでは本来ならできる筈の仕事に専念できないのはお分かりでしょう。

「怯え」それは「恐怖感」です。状況や理由はともあれ、自分は自分以外の人や価値観で生きてきたということ。自分以外の人から承認を委ねて従ってきたということ。それがこの、「仕事に行くのが怖い」という状況を作り出しているのです。

されど簡単に、「人に従うべきという価値観を捨て、自分の思考や感情に従い行動していい」とはいきません。
けれども自分の恐怖の原因が、自分以外の人に従い続けてきたからだと理解できたなら、ゆっくりでいいから、人に対してや仕事に対して、「自分はどうしたいんだろう?」「自分は何を感じているんだろう?」と心に聞き始めたら、少しずつ心は動き出すと思うよ。