人間関係

本気な関係

自分を出してぶつかって、それで切れる関係なら、それはそもそもそれだけのもの。 その関係が合わないというだけ。 喧嘩してさらけ出して、そこで切れるなら、そりゃそこまで。 でも、多くの人はそこまでも行ってない。 つまり、ぶつかったりさらけ出したり喧嘩したり、 そういうことを避けて、妙に仲良しごっこ上っ面な付き合いばかり。 本気の会話などどこにもない。

虫の居所が悪い時や、ミスや思い通りにいかない時、ムカついたりイラついたりするし、 本気で付き合っている人が側にいたらそれを隠さないし、 そういう自分を出したら、そりゃ喧嘩や不穏な雰囲気になると思うんですよ。 それが出し合えない関係、そういう時に喧嘩できない関係のどこが本気なんだろう。

イラついたり時にはへこんだり、そういうことを安心して出せる相手と、 出されたほうも我慢せず、自分の意見や気持ちを その時の自分の感情のまんま出せる。 本気で怒り本気で叱れる、そういう対等さがあるから100%ガチで挑める。 全てにおいて同じ価値観の人などいない、 だからこそイヤなとこ違うところをさらけ出せ、 自分が自分らしく生きていけるよう 自分のしあわせのために、出し惜しみせず協力し合える。化かしあいではなくて、利用しあう、 それが尊重。大人な関係。本気の付き合い。

信頼関係

『信頼とは対等な関係性にのみ築ける相互間の平等な利益である』 …by マザーアース

信頼とは、約束なり契約なりを、過不足なく、滞りなく勤められること、 それは、片方にのみ喜ばれることでも、片方にのみ利益が生まれることでもなく、 双方に同時に発生するものである。 例えば、直径20cmのイチゴのケーキを明日の3時までに依頼されたら、 直径は15cmでも25cmでもなく、全く同じ大きさの同じ味のケーキを時間通りに提供できること。 もし、直径が25cmであったりイチゴの数が多ければ、それはあくまでもサービスであって、信頼とは、本来なんら関係のないことである。

むしろ、信頼とは約束を約束どおりに果たせること。それに尽きる。 そういう信頼を感じれて互いの関係は成立する。 そこではじめて、今回はサービスしようかな、とか、 お礼しようかな、とかの気持ちにもなれる。(なれなくてもいいんですよ。) 例えばそういうパートナー同士においては、互いに出し惜しみなく思いやれる気持ちとなるのです。 それは、人間とペットとの関係にも生まれる。「互いにただ居てくれること。」何の駆け引きもなく、互いの願いが一致した場合に感じれるものでしょうね。

親密な関係

親密な関係の獲得、 それは、自分の深いデリケートな部分に踏み込まれる可能性に対して、 恐怖や不安を冒してまでも踏み込む許可を、自分に与えられるかどうか。 したがって、自分に踏み込まれたくない領域がある以上、 親密な関係にはなれないだろう。

親密な関係の獲得、 それは、相手に気持ちでぶつかれるかどうか。 勝ち負けの外、自分の気持ちに、ただただ正直になれるかどうか。 一般論はもとより、礼儀や弁(わきま)えの類を持ち出して、 論破に終始してるようじゃ、始まらない。 理論武装を脱ぎ捨て、気持ちでぶつからなければ、壁のない関係にはなれない。

親密な関係、それは当然、相互関係でなくては成立しない。 だから、例えば食い違いが起きたとき、 気持ちでぶつかれない相手、ケンカをしたくならない相手とは、無理だろうね。

親密になれない

うちのお客さんがこう言った。 今までずっと自分を否定してきた。 自分がおかしい、自分の何かが悪いから上手くいかないんだ ・・・と、ずっと思ってきた。 だけど、気づいたことがある。 もしかしたら、私(の心)はずっと開いていた。 ずっと、ただ、仲良くやっていきたいと思ってきた。 私は開いていたんだ。 閉じていたのは相手のほうだった。 ・・・と。

そのとおり!

いや、ほんとうに、空々しい世界ですよね。 全ては、気配で伝わっているのに。 ただ、仲良くしようと、開いているだけなのに。 それが人間なのに。恐れているのは、 人を蹴落とすゲームだと気づかずに、 脳みそだけを駆使して 閉じている人たちのほう。

漂う空気に、胸くそ悪さを覚えたら、 そういう時は、離れること。 非情になること。 自分のために、相手のための、それが最高の優しさ。 自分が開いていることに気づいた人は、 もう、その感覚を置いてきぼりにしないで下さい。 自分の感覚でよかったのですから。

ちょっとしたいざこざを通して

以前、親戚間でちょっとしたいざこざがあり、1人が1人を罵倒した。 それをキッカケに相手も黙っていず、ごちゃごちゃになったことがある。 あの時こう言ったとか言わなかったとか、こう思っていたとか、、

そしてそれを通して感じたことがある。 人を罵倒するのがいいとは思わないが、本音トークのキッカケとしては十分。 感情論のぶつかり合い、正論、一般論のバトルの中から垣間見える本音。 今までの誤魔化しがそっくりバレる。 これぞ人間の会話って感じがした。

聞いていて思ったのは、やはり、悔しさや憤りには必ず原因がある。 お互いに、或いはどちらかが、はなからキチンとした関係を結ぼうと思っていない場合。 或いは、片方の優劣意識から相手をバカにしているか、 もう片方が、自分を卑下している場合。

そういうものが、何かのきっかけで一気に爆発してしまう。 でも、それで破綻する関係ならそれでいいじゃないですか。 なるべくしてなると思うしね。 上っ面で繋がっているよりいいじゃん。

お互いが噛み合わなければ、同じ土俵、同じ環境の中で対話するのは無理。 それを誤魔化してお付き合いしようとするからおかしくなる。 世間のお付き合いには多い関係。 いずれにせよ、本音が出てきて初めてわかること。 そこから先の関係が妥当なんだと思う。

人間の対等感

車が欲しければ、お金を貯める。 例えばベンツが欲しい。自分の給料なり貯蓄と照らし合わせ、 時間がかかりそうでも、どうしても欲しければ一生懸命貯める。 そうしてやっと手に入れた車への愛着はひとしおだろう。 また、新車が無理なら中古でもいいかとか、ベンツが無理なら もう少し安めの車にしようとか、自分の嗜好と納得に向いた車を探す。

どちらにせよ、自分の想い欲求を自分の手で掴めてこそ、 心から、嬉しさ、やったー感が沸き、当然、大事に大切に扱う。 想いに沿った欲求に沿った行動を取ると納得しやすいということや、 人の体験を奪うなということは、今までも常々書いていることですが、 そういう体験や経験こそが、貴重な貴重な人生であり大事な布石となることを、 もっと慎重に扱ってほしいと思うのです。 自分の体験でしか、嬉しいも悔しいも本当には体感できないといいたいのです。

例えば、進学や就職などは、本人に任せろということ。 決めかねている本人をとことんほっとけということ。 そこからでしか自分がどうしたいのかなど見えてこないのだから、 世間の価値観、親の想いを押し付けるなということ。 人が困っている、真剣に悩み考えている、その人の貴重な体験を 奪うなということです。

つまづいて転んた時、側にいる人がいつも手を差し伸べたり、 先回りして前にある石を取り払ってはいけない。 安易に人助けをするなということ。 本人が口火を切る前に、押し売りをするなということです。

お節介や施しなど、する方の自己満足の記録でしかありません。「かわいそう」こそ偽善です。 優しさなんていう言葉も、あえて言うなら、 誤魔化さず事実を突きつけられる勇気を優しさと呼ぶのではないでしょうか。

対等なお付き合いをするには、どんな状況下でも本人の選択をどこまでも 見ていられるか、人間尊重がどこまでできるかが重要です。 勿論、意見を言うことや、手伝いを申し出たり、相手から求められれば好きなだけ好きなようにしたらいいでしょう。 でも、感謝や見返り恩返しなどを期待したり、自分の流儀を押し付けるようでは対等ではありません。

対等の関係性では、想いの貸し借りがない。つまり、してやってると感じないし、 してもらってると感じない。 あるのは、行為に対する自分側の気持ち。礼(礼儀)。 自分の想いを相手の想いとすり替えてはいけないのです。 対等の関係では、遠慮なく発言できる、そして、遠慮なく自分を感じれる、 そういう付き合いです。