意識

意識と時間

今生の世界、その鍵を握るのは、どうやら「意識」のようです。 生まれた当初、無意識だった自分は、 その環境や出来事により色々と意識される。 それは如何様にも変動し、その意味を正確に知れるごとに、 その人らしさとして覚醒する。 それが生きる醍醐味な気がします。

生まれてから死ぬまで、私たちの時間は過去から未来へ向かう法則にありますが、 その感じ方に優劣はなく、しかしその長さの感じ方は、その人により 同じではありません。 例えば、面白いと感じる時間は短く、詰まらないと感じる時間は長い。 不慮の事故などに出会い、ぶつかる瞬間の時間は、コマ送りのように 鮮明に記憶されます。

その、面白いとか詰まらないとか、或いは怖いとか感じるのが意識であり、 その意識は、更に、時間の長さを動かすトリックさえも出来る。 そう、意識が時間を牛耳っているというか、自分の人生の時計を 動かしているのです。

つまり、過去に、何か引っかかっていたり気になっていたりするものがあると、 時間がそこで止まっているように感じるというか、今を生きながら 過去に縛られているように感じてしまいます。 その時間の中に、まだ昇華しきれない、覚醒したい無意識があるのです。 意識がそれを知りたがっている。

引っかかるもの気になるものというのは、登場人物を変えながらも、 同じ内容として自分に繰り返し経験させます。無意識を覚醒さすまで繰り返し、その意味に気づくとようやく過去となれるのです。

人生って、言ってみれば自分が納得できる時間を過ごせたかどうか。 それは、自分として生きれる時間の中で、どれだけのことをするか ではなく、 いつ自分に気づくか、目覚めるか だと思います。そう、自分に起こるすべての事象が、ただ自分が覚醒するために起きている。 自分の存在確認のため、意識も時間も、あるのでしょう。

意識と無意識

心は大きく意識と無意識にわかれます。人が意識しているのはほんの氷山の一角。 だとすると、人の言動はほとんど無意識が動かしていると言っても過言ではない。 無意識がその人の真の心だとしたら、意識は社会での仮の姿? 自分の心を知りたいのなら、無意識を知る必要があるということです。

無意識からのメッセージとして感じられるものには、なんとなくとか、漠然ととか、 違和感というもの、または直感という形で感じられるものが当てはまります。 意識する部分を頭、無意識の部分をこころ、と置きかえてみると、 意識(頭)は考える・使うところ、無意識(こころ)は感じるところ、となります。 付け加えると、からだは訴えるといったところでしょうか。

日常で、ふとやってしまう、思わず言ってしまうことがある。 無意識(こころ)で感じたものを意識(頭)で考え使おうとした時、 無意識が意識を飛び越えて、おさえることができずに表現されるのでしょう。 それを意識で説明しようとすると、ついとか、なんとなくとか、漠然ととか、 理論で理解、説明できなくなるのです。 無意識は確実に、そして心の大部分に存在します。 無意識にも主張があるのです。

それを私は、こころの法則とか悩みのからくりと 表現しています。 そのメッセージを、エネルギーの動きをできる限り意識されると、 できる限り言葉で表現できると、つまり頭とこころとからだが繋がると、 生きやすくなります。楽になります。 それがあるがまま自分らしく正直に生きることに繋がっていくのです。カウンセリングはそんな無意識の部分、魂との会話です。

全ての事象は自分の意識の反映です

意識について、説明してみましょうか。 例えば白い車から赤い車に変えたら、妙に赤が目に付くようになるでしょう。 こんなに沢山あったっけ?と思うほど、赤い車に敏感になる。 ワンボックスタイプの車が欲しいなと思うと、これまたワンボックスカーに目ざとくなる。 欲しい車種に敏感に反応する、なんて経験おありですよね?

今、自分にある意識がそうさせる、自分の意識の反映に過ぎないんですね。 今、気になるから、思いが無意識に反応するのです。 反応するには必ず理由がある、ということです。 例えば、ある人に惹かれていく、妙に意識してしまうとか、ドキドキしてしまう。 思い出しすと感じる自分側の意識。 それが恋だと気づいていれば、それなりに行動できる。 想いが解っていると、それなりに従える。

しかし、ある人に対してヒヤヒヤしたり、ビクビクして落ち着かなかったり、居心地 悪い感覚があったら、それも、その人に感じる自分側の意識なんですね。 でも、なぜヒヤヒヤしてしまうのか理由がわからないと、不安になることもある。 この不安、殆どが自分の過去からくる意識の反映です。 多くは、過去の、腑に落ちていない、納得しきれていない想いが、今おきている 同じようなものに反応してヒヤヒヤしたりビクビクしたりして、不安を想い起こす。 自分の意識が、済んでいないものに対して、何らかの反応、メッセージとでもいいま しょうか、影響を与えているんです。

例えば、家族の中ではいつも親からの威圧的な空気が流れていて、自分を押し殺して 静かにしてなきゃならなかった、そういう空気に対しての反応だったりね。 そういうものがヒヤヒヤ感、ビクビク感だったりね。 そういう、過去の意識が、心の奥底に追いやられながらも、きちんと待機しながら 事実の解明を待っています。

意識は確実に、正直に、自分に従い動いています。 終われていない意識は、いつまでも反応を惹き起こします。 人生は、その為に必要なドラマを自作自演しているに過ぎません。 そして、反応に気づくまで繰り返されます。 これ、カルマとも呼ばれますが、説明がつき、きちんと納得されると、今生で 解放されます。

辛くてたまらないことも、苦しくてどうしようもないことも、落ち着かないことも、 興味の向く方向も、気になることも、全ては自分の、意志を持った意識です。 意識の解明、思い込みからの解放、今生の人生、如何様にも変化できます。 自分仕様に生きられるんですよ。

その振る舞いがその人です

人のありさまというものは、その振る舞いを通してわかります。 行動のつながりを見ていくと、その人の今を読み取ることができます。

例えば、どーしょうもない相手に、嫌だ嫌だとい言いながらも別れないでいる、 その振る舞いがその人です。 本当は嫌なんだけど我慢している、と思っても、 今我慢してそこにいることがあなたの考えであり、あなたの選択だということです。

例えば、部屋を片付けようと思いながら片付けられない、 その振る舞いがその人です。 何やかや言い訳しながらも変わらない、その状態が今のその人です。 だからといって、その行動に善悪などない。 全ては意識のなせる技。 根底の意識が動かしているだけですから。

意識では太刀打ちできないもの

更年期を通じてふと思い出すのが妊娠中のつわりの時のことです。 自分の体内で息づく異物をコントロール不可なまま、自然に任せる他なかった。 自分の体内に宿り、息づこうとするエイリアンに驚愕しながらも、 自分の内なるものが、その存在を認知し、受け入れようとしている。 つわりはそれを守りながら次のステップへ向かおうとする、慎重な準備の表れだろう。

頭で考えていることより、はるかにシンプルに、内なるものに突き動かされる。 つくづく人間はよくできているなあ、と思ったが、これ動物の本能でもある。 つわりも更年期も、人生における大きな節目、そのどちらも 意識では太刀打ちできないものに引っ張られている。 実は人間の行動の全てがそうだとも思います。 こんな筈じゃないのにと思うことも、苦しいと感じることも、 全ては内なる自分の足跡。

だからといって、それを抑えるも放っておくのもいいけれど、 いよいよ、にっちもさっちも行かなくなった時には、その正体を見るしかない。 痕跡を辿ればその流れは鮮明に浮き上がり、全ては自分の為だけの 理由と意味がそこにある。 つじつまの合わないものなど何も無い。 意識など太刀打ちしきれない、根底に眠る自分を、起こすしかない。

アマチュアリズムとプロ意識

オリンピックに限らず、スポーツは参加することに意義はある。 確かに、確かにそうかも知れない。 しかし、それはアマチュアに限る。 思うのですが、スポーツの目標とは勝つことではないか。 そして目的は、アマチュアなら参加することや楽しむことで許されるが、プロは違う、そうはいかない。 プロは、自分のプレイに対価が支払われる以上、目的は勝利、或いは、それと同等に観客を楽しませるかでなくてはならない。

目的と目標の取り違いをしてはいけないと思うのです。 アマチュアの場合、全ての主体が自分の満足であり、ひたすら自分が楽しみ競技することにある。 勿論勝ちに拘りたければそうすればよいが、勝っても負けても外野からとやかく言われる筋合いは、本来ない。 オリンピックであろうが草野球であろうが、自分が思いっ切り楽しめ、満足できれば、結果として負けても相手を称えたり、お酒を飲みながら話せたりできる。 目標が勝利である以上は、たかが遊びなんだから負けてもいいというのとは違うが、アマチュアならこれで構わない。

ではプロはどうだろう。 スポーツに限らないが、プロは、お金を稼ぐことと、お金を出した顧客の満足が必須、主体が自分であるのには違いないが、自分と顧客の両方の満足と納得が問われる。 その意味においても、勝敗への拘り、勝利への目的意識がなければプロとは呼べない。 お金を出す価値というのか、出したいほどの満足とは何だろう。

例えば、欲しいものが習得できたり、自分の舌が唸るほど美味しい料理を味わえる というような満足。 格闘技など、自分ではできないが、ド迫力だったり凄い技だったりの、魅了させられる感動パフォーマンスプレイ。 マジシャンやアーチストの作品もそう。 球団のファンやサポーターのように、自分と同一視することで味わえる満足。 小説家や演者もそう。 そして広告塔にしたい、企業などからのスポンサー契約。 こう見ても当然ながらプロの目的は勝つこと、極めることになってくるし、全力を出し切れば勝敗に拘らないという態度ではプロ失格だろう。 プロとアマチュアでは目的意識が違う。

それを取り違えなければ、自分がどちら側なのか、自分がどうしたいのかが解り易くなる。 スポーツに限らず、勝ちたくなければ、或いは顧客の満足を考えたくなければアマチュアでいればいい。 しかし、プロでいたければ、より深い追求心は必要となってくるし、それに責任を持つ以上、明確さが要求される。 その上でユーザーを選択・選別はあっていい。 それは自分の自信に対する覚悟である。

だからこそユーザー側ももっともっと選んでいく必要がある。 食堂で食べたラーメンが不味くても、お腹に入ってしまった以上、たいがいお金は支払われる。 当たるもはっけ当たらぬもはっけの占いでは、何が出ても、たいがい怒らず支払いをする。 病院やカウンセリングも然りである。 プロ相手にするには、どちら側にも選択の自由があっていいし、どちら側にも責任を持つ必要もあると思うのです。 期待に添えなければブーイングや、場合によっては訴訟も起きることもあり。

だからといって、アマチュア相手に、タダほど高いものはないということもあります。 それから、プロ・アマの意識というのは、正社員と契約社員とか、正社員とアルバイトとかの契約形態の違いではない。 正社員だろうが契約社員だろうがアルバイトだろうが、その職に向かう意識、モチベーションのこと。 そういう意味では、だらだらやってる正社員と責任感のあるアルバイトでは、プロ意識がどちらにあるかはお解かりでしょう。 だから、プロ・アマが一緒では、どちらかに不満がでる、 それも当然のことですね。

どこでもドアはここにある

ドラえもんの道具の中で、多くの人が一番欲しいものは「どこでもドア」らしいけど、 それ、みんな持っていることに気づいてない。 例えば、ラーメンが食べたければ、ラーメン屋さんへ行くでしょう。 でもめんどくさければ、家で済ませるでしょう。

そう、めんどくさいというその意識が、別のドアを開けています。 思いに沿った、一番近いドアを開けて体験されています。 ただ、みなさん意識的に行動していないので、 「どこでもドア」を開けているのに気づいていない。 意識していないと、ドアがない、開かない、なんて 悩んでみたり、自分を責めてみたり、 自分で開けたドアが不満だったり納得できなかったりとなる。

どうしても食べたければ、そこ行くだろ。 どうしてもアメリカへ行きたけりゃ、なんとかして行くよ。 どうしても本の続きが読みたけりゃ、続編が出るまで待ち遠しい。 どうしても欲しいものがあればお金貯めるでしょ。 どこでもドアを自分で開けるでしょ。

開かないのもあなたの願いです。 すでに願いは叶っています。 ただ、気がついていないし、納得していない。 だって、自分の気持ちを意識していないから。 奇跡はちゃんと、起こっています。

事件はまさしく現場で起きていた

子供というものは、その場で感じたままを表現しやすい。 可笑しければ笑うし、怖ければ泣くし、その時感じるまま言動しやすい。 そういう、その時に感じたことを、その場で表現できるということが、 自己納得の秘訣、後を引かないコツでもあるのです。

人間、その時の咄嗟の反応のほうが、自分にとって遥かに正確だし、 危機を逃れやすいのも事実です。 しかし大人になるにつれ、咄嗟に反応する前に考える人が多いのは、 自分以外の人の目や影響が気になってしまうからなんでしょうか。 そればかり重視するようになると、自分の本来したい反応がくすぶって残ったり、 後を引くことになってしまいます。

事件は、その現場で起きていたのです。 だから、自分の不全感を終結させたければ、 その現場に残る足跡を辿り、立ち返ることが大事。 その現場がどういう状況だったのか。 どういうことを考え、どういうことを感じていたのか。 丹念に今の自分が知ることで、ようやく終結されるのですよ。

最善

人の言動は、誰もがその時の最善を生きています。 例えば人と意見が合わず自分の意見を引っ込める時。 相手が正しいと思ったのではないんだけど、もめたくない、嫌われたくない、 いい人でいたいなど、自分の中で優先順位が働いていますでしょ。

あの時こうしていればとか、ほんとはそうしたくなかったのにとか、こうなったのは あの人のせいだとか思っても、その時優先された気持ちが言動を決めています。 不満や苛立ち、ストレスが溜まることも込みですよね。

愚痴を言うなとか自分の意見を貫けと言いたいのではなく、その時のあなたにとって、 そうする事が最善だったのでしょ?と言いたいのです。 小さい頃から、「いい子」を演じ続け、苦しさや違和感、生きづらさを感じてこられた方、 小さかった頃のあなたにとって「いい子」を演じる事は、そうでしかない選択 だったのでしょう? あなたにとってそうする事しかなかったのでしょ?と言いたいのです。

人の言動は、その時点において、その人にとっての最善な選択でしかないのです。

選択の基盤

全ての事象、全ての過去は自己の選択です。 それは、その時その瞬間の考えうる中から自分が選び実行したことです。 が、しかし、そのフィールドが 『自由』 だったとは限りません。 例えるならば、支配的な親の基に育つ子供に、何でも発言でき、 行動できる自由はありません。 それがその子の全世界です。

言ったら叱られる、殴られる、又は取り合ってもらえなくなれば、発言などしなくなります。 そのフィールドは自由ではありません。 例えば、今ここでお金を渡さなければ殺される。  そしたらお金を渡す以外の選択肢はなく、その瞬間に  ~たら ~れば はないのです。

人間の境遇や、降りかかる事象は、みな平等ではありません。 全てが自由なフィールド上の選択ではないのです。 しかし、その中での選択は、必ず自分の思いに沿っています。 大事なのはそこです。 「その状況下で、何らかの判断の基に自分が選択をした」 ということ。 そしてそれがあなたの志なのです。