苦悩と向き合うこと

人の苦悩というものは、その人らしさの象徴です。 例えば、苦悩の中に、「寂しさ」があります。 心の寂しさの多くは、心の自由を妨げられ続けた過去の意識です。 当時の環境や境遇の中で、感じたことを自由に表現することが出来なかった為に、 置いてきぼりをくった、心の声です。 境遇というものは、実際には、取るに足りないものです。

例えば、周りの事柄や、周りの人と絶縁できたとしても、自分自身と絶縁することは 出来ない。境遇が変わっても、新しい境遇に、自分自身の苦悩を移すだけのこと、 影のように、苦悩はついてきます。 新しい境遇は、その苦悩を映す鏡に過ぎません。 なぐさめてくれる何かを探しても、物足りなさは消えません。 他に求めても、逃げても、自分が向き合おうとするまで、終わらないからです。

心の自由を妨げられる、とは両親が不仲だったとか、貧乏だったとか、 そういう状況で生じるものではなく、どんな状況下でも、あるがままの状態、あるがままの 気持ちでいることを、否定されたり誤魔化されたりし続けると起こるものです。

例えば、忙しい商人の家庭で、親が子供に関わる時間が少ないとする。 これがうちの普通、自然なことと考える親であれば、子供は、それなりに寂しくとも、 その家庭の状態を知っていく。 ところが、子供に関われないことを、不憫に思う親は、子供に、いつもすまないと謝ったり、 物で埋め合わせしようとしたりする。 そうすると、子供は自分の状態を、不憫な可愛そうな子と認識したり、すまなそうな親 に対して、寂しいと言えないばかりか、明るく振舞ったり、孝行な子を演じようとさえする。 そうする為には、自分の心で感じる淋しさを封印する必要があるのです。

また、例えば、傲慢な父親に逆らえなかったり、世間体や体裁を気にする母親が、 聞き分けのよい子や大人しい子を作ろうとする。 あたかも子供の為、と称して、自分の防衛のために子供を利用する。 母親を不憫に思う子供は、親に気を使い、一生懸命理想の子供になろうとする。 そこにあった理不尽を、すでに解っていながら通さざるを得ないときは、 湧き上がる怒りと悲しみの全てを封印せざるを得ない。 自分の心に感じる自由を封印せざるを得ない。

環境が変わっても、満たされなかった心は、自由を求めようとするが、今となっては 何がなんだか、自分が何を求めていたのかすら解らなくなってしまう。 いつも何かが違うと感じつつ、同じような繰り返しに不全感が残る。 孤独感、承認欲求が付きまとうということです。 苦悩を終えたければ、苦悩と向き合うこと。辛い状態をすり替えず、 ひたすら、浸ってみることです。

克服や強い人間になろうとする方法など、問題外。 置いてきぼりの感情を味わいに、封印を解くこと、自由になりたい気持ちに責任を 取ってあげること。 過去に残る想いを辿り、事実を突き止めてあげることです。

足長おじさんにプレゼントはない

困っている人を助けてくれる足長おじさんに援助者が現れないのは、 彼がプレゼンター(提供者)だからです。 理由はどうあれ、その人がプレゼンターである限り、 周囲は、そうとしか見ない。 援助されたければ、そう(援助されたいと)見られる必要があるのです。

足長おじさんが、実は、自分の寂しさや悲しみを紛らす為でも、 相手の気持ちや状況を慮れる人であるほど、 自分側の気持ち、自分の状況を隠す事に長けています。 相手への配慮、気配りから、 努めて自然に、或いは当然に振舞うでしょう。 サンタクロースのように、 どこからみても無理を感じさせない雰囲気を装うでしょう。

いつかは自分にも現れるんじゃないかと思いながら、 親切丁寧に振舞えば振舞うほど、 相手からは、そういう人だとしか感じられません。 ありがとうと感謝され、 一時の喜びに包まれても、自分の孤独感は満たされません。

プレゼンターが趣味であるなら、 自己満足であるなら、大いに結構。 しかし、いつか自分も満たされたいと願うなら、大変なご苦労でしょう。 足長おじさんがプレゼンターであることを自覚していないと、不全感が生まれます。 プレゼンター(提供者)が要求したら、それは、おかしい、となるのです。 プレゼンター(提供者)が提供しなければ、これまた、おかしい、となるのです。 すでに条件つきの人間関係に陥っているのです。

要するに、「相談役」というカードを掲げている人が、「相談者」のカードを出しても、 「相談者」のカードしか持ち合わせていない人から、「相談役」のカードは 出ないのですよ。 足長おじさんにプレゼントはありません。あっても、感謝状くらいでしょう。

もし、自分へのプレゼンターをお探しなら、 その足長おじさんを、自分に向けて下さい。 せめて、サンタクロースならクリスマス。 サンタクロースに期待するのは、年に1度のクリスマス、 そういうもんだと解っているからね。 いや、それでも、かったるいけどね。

「数に入れられない」ということ

恐くてビビるのもドンくさいのも、カッコ悪いし恥ずかしい。 臆病なのはダサいし、弱虫なのはダメ。 みんなと同じことができないのは、目立つし屈辱。 ちっちゃい事でも気になり、細かいことに引っ掛かる。 それをからかわれたら悲しいし、悔しいけれど、平気なフリして笑ってる。 恐がりで弱虫で臆病な自分、些細なことに拘りたくなる自分、 そういう自分を気にしていないように振舞ってきた。

いつもそうして自分を騙して、フリしてる自分を悟られないように生きてきた。 カッコつけて気にしていないように、どうにかバレないように生きてきた。 だって… もし自分が、本来の恐がりで弱虫で臆病で些細なことに引っ掛かる自分のままでいたら… …

フリしてフリして平然を装って、そうまでしても欲しいもの、それ以上に嫌なことがある… それは、 人から相手にされること。 自分も数に入れられること。

その為なら、どう思われどう見られようと、バカになることなどへっちゃらだ。 自分が無価値じゃなくなるためなら、どんなこともいとわない。 相手にされなくなること、それこそが人からバカにされるということそのものだから。 バカにされないために、自らバカになってきた。 自分の尊厳を切り売りしてまで、「数に入れられない」寂しさを感じたくなかったということか。