愛について

愛を語る前に、勘違いのないよう、少々、人間について理解しておきたい。 私ら人間は、人に与えたら自分も欲しいと思うし、もらえなければ寂しくなったり 悔しくなったりすることもある。 それが生身の人間ってもん。 与え続ければいつか貰えるとか、愛し続ければ愛される? そんなことない、 そりゃ錯覚。 人間だもの、一方通行だけじゃ物足りなく感じることがあったっていい。 生きてるんだもの、神様とは違うからね。

愛って、自分側の気持ち。 相手に対する自分の気持ち。 心地よさだったり、安心感だったり、満足感、いとしさ、そういう自分の、 自分側の極上の気分、味わいなんじゃないかしら。 だから愛には色々あっていい。 押しまくる愛、見ている愛、奪う愛、ストーカーの愛、待つ愛、殺す愛、 つまり全てが自己愛。

慈悲を無償の愛という人がいる。 与えた見返りを求めない愛だというが、例えば親が子にしてあげることが喜びなら、 それも、そういう自分の自己満足、してあげる自分への自己愛でしょう。

では、見返りを求めたら愛とは呼ばないのか? いえ、冒頭に書いたとおり、 私ら生身の人間ですから、見返りを求める有償の愛もあっていい。 人間、こっちのほうが多いんじゃないかしら。 つまりね、無償の愛だけが愛じゃない、 人間が愛するんだから見返りが欲しくなったっていい。 要するに愛というのは、見返りを求めようが求めなかろうが、それに関わらず 自分が相手に釘付けになっている間の、自分の喜びの気持ちなんだと思う。

だから無償だろうが有償だろうが愛に変わりは何も無い。 ただし、親から有償の愛を受けた子は、愛とはどういう気持ちなのかが 気づきにくい。

人を愛するということ、それは自分を愛すること。 誰もが心の奥底に巣くっている無限のエネルギーなんだと思う。 ところで、愛と憎しみは裏返しというけれど、憎しみも愛のうちかもしれないね。

自分を愛するということ

自分を愛するということは、自分の持つ感情を許すということ。相手を愛し自分を愛するということは、 例えば1つしかないケーキを全部相手にあげるのでなく、 半分自分が食べることを許すということです。 自分の欲求を許し、相手の欲求も認めることです。

自分を愛するということ、つまり自己愛というものは、 極端に言うと、自分が一番だということ。 1つしかないケーキなら、独り占めにすること、 或いは、最大限、それを6対4に分け、6を自分、4を相手にあげるようなもの。 だから、それを半分づつに分けるということは、最大の、 自分を大切にしつつ相手を大切にするということなのです。

思いやりを知るには、先ず、自分を思いやれ!

人を思いやるには、先ず思いやりがどういうものかを、自分で体感することです。 例えば、大勢の中でひとり盛り上がれない人がいても、盛り上がらせようと 誘導することが、思いやりとは限りません。 その人が、励まされたり勇気付けられることを望まなければ、それは 思いやりにはなりません。 その人が、ほっといてほしければ、ほっとけるほうが思いやりに当たります。

そうです。思いやりとは、その人の気持ちを認め、尊重できること。 励ましや勇気付けなどいらない。まして、代行してあげることでもない。 盛り上がれないということに、評価やダメ意識、劣意識がなければ、必要以上に 反応はしないもの。 その人の問題として、その状態を認めてあげるだけでいいのです。

思いやりを知るには、先ず自分を思いやってみること。 自分を大切にでき、自分の気持ちに添えることの安心感を知っている人は、 相手の気持ちをいじりません。 物事や状態を、善悪や優劣の目で見ないので、出来るだけ、そおっとしておけるのです。