不安の正体

人間は、脳の発達に伴い不安を生んだ。 それは脳が「死」というものを理解し始めたときから始まった、 人間特有の産物だと思う。 例えば、死を目の当たりに意識すると不安を感じる。 しかし不安の完全消滅は果たせない。

そこで創り出したものが、神や死後の世界、或いは善と悪、天使と悪魔。 それらの出現は、私たちが神に近づけるような錯覚を刷り込ませた。 善行に励むことで不安を取り除こうとしたり、上昇や成長により 不安から目を背けようとさせる。宗教の出現はまさにそうだろう。 現代では、富や名声、権力で不安を安心に変えようとやっきになっている。

しかし、生きている限り不安は付きまとう。 不安は消せない。 そして、不安はあっていい。 不安とは、『わからないこと』。 正体が見えないこと。 未来のことなどわからない、ゆえに不安はつきもの。 それならできる限り不安を減らすには、やはり、この瞬間を生きること。 過度な善悪感を減らし、上昇志向から出来る限り脱却することです。

今、不安で一杯なら、もう一度自分を見つめなおすことをお勧めします。 過去を過去にすることで今に焦点があってきますのでね。

不安と不自由の関係

カウンセリングでは、ひたすら自分を直視していく作業の繰り返しです。 ですが皆さん、自分の本性というものは、案外、うすうすではありますが、気がついているものです。 しかしながら、うすうす気がついているというものの、それを意識上にはっきりとさせていくことに躊躇があるのは、自分の本性を認めるのが怖いのではなく、本当の自分を認めてしまったら、そういう自分は誰からも相手にされないのではないか、 誰とも関われなくなるのではないかという不安が、現実のものとなってしまうのではないかという恐怖があるからです。

自分の本性が、いかに激しく、いかに頑固で、いかに鋭く、 いかに拘ってしまうのかを知っていて、そういう自分を一番裁いていて、一番ビビッているのが自分です。 自分の本性に自分が怯えているので、そこから動くなんて到底できないのです。 素の自分で生きる不安より、周囲を優先させ自分が不自由でいることの方が、安全なのです。 素の反応を打ち消す為に自分を見張り、周囲に紛れることの方が、安心なのです。 アタマではね。

しかしみなさん、心の奥底では案外、というよりは当然、自分の本性は、嫌いではありません。 嫌いなら、自分を悪だとか劣だとか本気で思っているなら、当の昔に変わっています。 努力不足なんかじゃないことは、ご自分の本性が一番知っている筈です。 どこまで行っても、自分からは逃げられません。 自分の影からは、到底、逃れられません。 この世に地獄があるとすれば、それは自分の心の中にです。

自由でいるには、不安に苛まれる自分との同居を許すことになります。 それは、不安でいるのは嫌だけど、不安になるのはダメじゃないと理解できることです。 自分が勝手に感じてしまう気持ちに対して、「そうだ。」と自分に対してきっぱり言い切れることです。 ただ正直に、ただ自分の気持ちを「そうだ。」と言うためには、その気持ちの裏づけを取っていくこと、即ち、ひたすら自分を直視していくことです。 自分は自分にしかなれない。 自分になることでしか納得できない。

~だったらどうしようという不安

~だったらどうしよう という不安は ~だったらどうしようと思うことで、 そうならないように回避したいための 自己防衛。 自分が窮地に陥らないために自分を見張る、 自分の中の本能的な 回避規制。 しかし、 ~だったらどうしとう という不安があるということは、 もうその時点で、そのものに対して恐怖を感じている。 もうその時点で、それを怖がっている。 だから、その不安、恐怖がある時点で 安心して、そのものに向かえる筈はない。

従って、成功などするはずも無く、 ~だったらどうしよう と思っている通りになってしまい易い。 それをなくすには、不安や恐怖を克服するのではなく、 不安や恐怖があるということを認めること。 そして、自分は不安だ、自分は怖い、という事実から逃げないこと。 逃げない と決めることだ。

つまり、『~だったらどうしよう』 『~なってしまったらどうしよう』 と、 ~ならないことを願ったり、~ならないことを目的にしても意味がなく ~なってしまっても 自分はその事態・その事実を受け入れる。 そういう覚悟を持つことが、自分から逃げないということであり、 責任ある一人の人間として生きていく唯一の方法だ。

ミスするのが怖い → ミスしないようにしたい → ミスしないためには  という思考回路ではなく ミスするのが怖いが、ミスしたらそれは自分の責任で、 その事実を受け止める覚悟があるかどうか。 大事なのは、ミスするか成功するかではなく 自分の成すことがどういう結果になろうと、そのことに胸を張って 『自分がやりました』 と 言い切れることである。

心配は自分のためにある

心配は自分のためにある。 他人のためにするというのは、言い訳、すり替えでしかありません。 例えば、遅くまで帰ってこない家族が心配なのは、事故しやしないか、 悪いことしてないか、事件に巻き込まれてないか・・ なんて、そうなったら嫌だと思う自分の不安な感情です。

心配というのは、自分が巻き込まれてしまうことや自分が困ってしまうこと、 自分が責任を負うことになることを恐れる不安な気持ち。 自分ごとではないのでどうすることもできないジレンマです。

例えば不登校の子供を心配する親。 卒業できるかしら、将来どうなってしまうんだろう・・という心配は親のもの。 世間体や自分の期待を裏切られたくない不安な感情。 安心感のなさから生まれるザワツキを放っておけない、自分の気持ちです。 特に、家族や親しい人などに対し、期待や依存があれば、自分の思いが乗っかり 心配は増幅されます。

また、状態や状況に優劣や善悪感情が強い方ほど、時にはその相手に心配を 押し付けてしまいます。 しかし、私が言いたいのは、心配するな ということではなく、その心配が 自分のものだということを理解せよということ。 それを相手に押し付けるなということ。 相手の人生は相手のものです。 相手の責任は相手のものです。 それが少しずつ理解できると、自分と相手が少しずつ切り離せ、 心配をする必要性も減ってくるということです。