いじめの話し合い

またしても、いじめの話し合いに同席。本人と親御さんの依頼で、学校側と加害者達親子を交えての話し合い。

学校、、案の定、がっかり。本音トーク、突っ込んだもの言いなどあるはずはなく、上っ面の何言ってるのか分からないような言葉の羅列で頭痛くなる。加害者に謝罪させ二度としません、と言わせても、全く伝わってこない。

話し合いをしようってのに、どうして言わせないんだろうなといつも思うのは、ほんとうのこと。それを口に出せ言い合えたら、それは既にいじめでなくなる。特にいじめる方の子らの言い分。それが聞けるかどうかで、いじめの解決はかなり進む。

でもそれを引き出すのに大事なのは、善悪を度外視した聞く姿勢。だから教師には難しい。行為を裁きその背景にあるものを理解しようとするとき、ジャッジの立場は「ヤバいことしちゃった子」の口を閉ざさす。

本音で本気で話させなければ、いじめの行為がなくなっても、気まずさやよそよそしさの空気の中でしこりは残り、結局は教室に居づらくなってしまう。そのためには、いじめが発覚したならばそのとき、何度でも正直に話させること。

今回もね、途中から口を挟み続けた私は、やっぱり教師陣には白い目で見られ嫌われ者。だけどさ、それを口に出すことなくして話し合いなんてあり得ないでしょ。

いじめは、やる方が悪い。だけどその解決には、いじめられた子が本気で守られた(特に親から)という実感が持てることと、いじめる子の背景にある気持ちが理解されること。この両方なくしてその子らの心の解放はない。そして学校におけるいじめの中でその教師に対する信頼がなければ、そこで関わる全ての子らは気の毒だ。

はいいろのけむり

ある高校、集団喫煙で捕まった生徒達、お叱りコースの最後に反省文を書かされることになったのですが、1人の生徒が反省文を躊躇し、停学が延びていた。 規則を破ったことは反省しているものの、2度と破らないと約束できないのと、教師の、服従しない者を屈服させようとする態度に反抗した。 当然学校側は、問題ある生徒として停学を延ばした。

教師とは、今や、生徒の人間性を評価する権限を持ってしまっているのだろうか。 成績を評価するのはまだ解るけど、納得しがたいことを真剣に悩んでしまう生徒に対し、教師に素直で従順であれと強要する。 学校というところは、ひとりひとりが主張し合うのではなく、教師に合わせることで、集団の平和が保たれている。 そこで学ばれるものは、『どうしたら自分の‘不利’を免れることができるか』だ。

それをモノにできない人、それに意味を感じない人は、不条理にも危険分子として扱われることがある。 これが教育なんだろうかと思ってしまう。 教師の器量のなさが露呈してるにすぎないんじゃないの? と思ってしまうのですがね。

しかし、この教師の評価を、いとも簡単に真に受けてしまう親もいる。 子供の人間性を、多数派か特異か の基準で判断してしまう教師に委ねる親がいる。 ・・・っと、話を学校に戻して、 教師と生徒、この立場からの見方・感じ方、どちらが悪いと言いたいのではない。 個人的には、ヤナ学校ヤナ教師達とは思うけど、でもそれが学校。 規則を破れば処罰され、罰則に従えば解除され、それが、例え表面的な形でも通る世界。世間、社会の縮図。 それらを思い知らされ、その中で自分がどうするのかどうしたいのか、だけだろうと思うからだ。

生き方を突きつけられ、納得を探す、大きな意味あるチャンスに、どう向かいたいか試される一場面。 はいいろのけむりは、一体どこにあり、どう流れ、どうなっていくのか、自分の眼で確かめ、それを次の布石にすればいい。 戦う、或いは 篭ることで自分を貫くもよし、学校(世間)を見切り、内心で舌を出しながら流れに乗るもよし、孤高にそこにいるもよし、である。