寂しさについて

寂しさとは

「寂しい」という感情をあなたはご存知ですか?…当たり前、と答えたあなたはこのページに用はないかもしれません。

私のところに来られる方がたの多くはこの「寂しい」という感情を知りません。よくわからないのです。分かるとすれば「むなしい」という気持ち。これは寂しいを通り越した感情です。

寂しさの領域を越えたところにあるのが「むなしさ」です。「虚しさ・空しさ」どちらにせよ心が空っぽの状態です。

さて、ここで扱う寂しさとは、「個性を認められなかったことから生まれた傷ついた心の様(さま)」と定義し、それについて書いていきます。

寂しさの欠落

人間の根幹は寂しさでできていると言っても過言ではありません。人間は生まれ落ちたその時から、否応なしに「ひとり」になります。寂しさとは、その「ひとり」になった瞬間から他を意識したとき、他の眼の中に自分が映し出されず受け止められないこと。自分の存在が揺らぎ、自分で居ることに安心感を持てなくなること。
「分離不安」と言うのですが、シンプルに言えば「ひとりぼっち」の状態で、その多くは母子から始まります。

「他」とは、多くは母親あるいは親を指すのですが、寂しさの有無は、その親の接し方の「正しさ」の是非ではなく、子供の心を見ているかどうかで決まってきます。

例えば赤ちゃんは、オシッコ出た、お腹すいた、気分が悪いよと泣く。その対応が「やっつけ」だったり「ぞんざい」な扱いでは、赤子であっても伝わるのです。

「やっつけ」「ぞんざい」とは、何も、「いい加減・適当・乱暴なやり方」というだけでなく、忙しくて手がまわらなかったり、他のことに気をとられていても同じこと。忙しいんだから仕方ない、親子なんだから分かってくれるだろうという甘さが親自身の罪悪感を消し、子供の心を無視してしまうのです。

子供の心に寄り添うことなく通り一遍の作業さえ滞らなければ良しとされ、それどころか「それが家族のため、しいては子供のため」というような大義名分を作ってしまいます。その繰り返しがどれ程の寂しさを膨らませていても、それは大事なことではないのでしょうね。

寂しさの慢性化

人は寂しさが慢性的になるとそれを感じなくなります。それは鈍くなるというのではなく、寂しい状態がスタンダードとなればその状況のなかに適応しようとして、何というか、丸く収まるような言動を取るのです。

例えば自分の気持ちや欲求を訴えたとき、親の不機嫌さや困った顔を見せられれば、それはもう迷惑なんだと学習し、欲求を我慢したり、親の機嫌を損なわないようにする。そうすることで周りからも受け入れられるので、ホッとしたり、良いことをしたような気分にもなり、自覚として寂しさは感じていないようにもなるのです。ひとりぼっちや孤立には耐え難いですからね。

家族の中においては癒着や共依存を生み、親の忙しさや心配事、それから親の価値観が自分(子供)にも大きくのしかかります。

船で例えるなら、親は船長であり子供はこぎ手の一員として扱われ、「家族という船」をみんなで支えている状態。しかし家族という船は親のものであり、子供に個性や尊厳は与えられない。船が沈まないよう一致団結を強いられ、そこには寂しさに取って代わった変な一体感が生まれる。これが癒着であり共依存です。

このような構図において、子供の個性は摘まれ心が閉ざされていくのに時間は掛かりません。

寂しさと怯え

上記のような、一見、寂しさの押さえ込みに成功したような適応方法は、学校生活や社会に踏み出したときには万能ではなく、しだいに苦しくなっていきます。苦しさは不安を生み、恐怖を生み、それは殆どの人間関係についてまわります。

またその源が「寂しさ」であることに気づかないまま自分の意志や欲求にうとく、既に周りについていけてない自分、戦えない自分を感じ、自分はみんなより下だと思うようになり、それが「劣等感」となり「怯え」を生みます。

よく言われる「見捨てられ不安」「承認欲求」という概念は、寂しさと劣意識からなる「怯え」からできています。
その闇は果てしなく深く、以後それを埋めるだけの人生となります。

寂しさを埋めるのにすること

寂しさを埋めるのに手っ取り早いのは、その昔、家族にしてきたような物や人に依存したり寄生したりすることです。何かのアディクションにふけるか、他人に迎合することで共依存関係となり、一体化します。

また、何かに秀でようとしたり上を目指そうとしがちです。勉強やスポーツを頑張ったり、人気者になろうとしたり、はたまた人の話を聞いてあげられる優しく頼もしい存在になろうとします。その成果によっては自分の価値や喜びを感じられるのでエンドレスになりがちですが、どこか不全感が付きまとうのは皆さんもよくご存知でしょう。

それは上記にあるように、表面的な自覚としておきる強い劣意識から「自己否定感」や「無価値感」に襲われ、それを払拭しようと必死に埋めるための言動、努力。なのでたとえ埋まったように見えても安心できる筈はなく、いつでも危機が迫っているような心境です。

怒りと寂しさの関係

根底にある寂しさの上には、もれなく「怒り」の感情があります。「寂しいのヤダ」と感じるのは人間としてあたり前なことだからです。
また、自分の個性や存在を認められなかったことによって生まれた傷を、「自分のこととして感じれること」が寂しさであるのに対し、「相手に対して傷つけられたーと感じる」のが怒りです。

さて、怒りについては「怒りのページ」をご覧いただくとして、怒りの感情が強すぎたり或いは怒りそのものを抑圧しているうちは、怒りの理解が先決になってくるのですが、寂しさに怒りが加わりそのどちらも行き場を失ってしまったら、それはもう、自暴自棄にならない筈はないと思いませんか?

では今一度、寂しさのやり場と怒りについて何通りかの流れを書いてみます。

1、人に迎合したり嫌われないように振舞う

従順に振舞ったり、親切にしたり世話を焼いたりする。その中でエンドレスに続く我慢、しかし自分がしてもらう番は来ない。
隅っこにでも居られればいい。或いは援助者なら好かれると頑張っても、自分に向けられる眼差しはない。
ほんとうは怒りたい、でも怒れない。

2、人より秀でようと頑張る

資格や地位・名誉・経済力の向上に励む。
上には上がある。落ちることの恐怖が付きまとい、だからこそ止められない。
上でいればみんなはついてくる、これなら離れない嫌われないと思う一方で、思うような関係は築けず、しかも自分より出来ていない人がみんなと仲良く楽しそうにしている状況には、許せない怒りが沸く。

3、思い通りにならない状況や人を排除する

正論を盾に自分の正義を通そうとする。ストーカーや訴訟魔、或いは支配者となり自分を正当化して相手を攻め込む。
寂しさに絶望していく中で、自分でも扱えないほどの怒りを溜めてしまった末の顛末。
とにかく怒りたい。自分は悪くないと主張し、悪いのは奴だと、それを認めさせようとする。

このどれもが自分の存在価値を認めさせようとする戦いであり、裏返せば、何かと戦えてさえいれば寂しさに触れずにいられるのです。

怒りが沈静化しにくいのは、寂しさは生きるエネルギーを奪うのに比べて、怒りのエネルギーは生きるモチベーションにもなり得るからです。何かと戦うことでしか生きられなくなってしまうとも言えましょう。

もともと寂しさと抱き合わせのようにある怒りですが、寂しさが大きいだけ怒りもあるというのも頷けるでしょう。

寂しさを取り戻す

さて、怒りは自分でも本当に厄介ですが、その怒りを牛耳っているのが寂しさだということが少しお分かりになられたでしょうか?

寂しさは上述の通り、自覚としては怒りだったり、自己否定感や劣意識に取って代わっています。それゆえそれに執着したり、克服しようと躍起になるのです。

根底の寂しさは全てを狂わせます。だからこそ寂しさを、基ある場所に取り戻すのです。

「寂しいな」と感じれることは、「寂しくなれ」ということではなく、大切な自分の気持ちとしてそれを受容できることです。

「あぁ俺…寂しかったんだ」と自分を理解してあげること。そこから生まれる言動こそ、かつてのあなたらしさではないでしょうか。

さあ、寂しさについての話を始めませんか?