引きこもり

なぜ引きこもるのか

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職場や学校で何があったかは、きっかけに過ぎない

引きこもるということは、自分の中の我慢が飽和し、頑張りが効かなくなり止まってしまった状態、どうにも身動きできなくなった状態です。

それは、当たり前のようにこなしてきた日常でも、気づかずに無理してた言動があったり、フリや誤魔化していた自分が破綻してしまったということです。多くの場合、気付かずに走り続けた結果ですので、まさかの身動きできない状態に混乱したり戸惑ってしまい、抑うつ状態になられる方も多いでしょう。

職場や学校で何があったかとか友人と何があったかということは、あくまでもきっかけに過ぎません。徐々に、確実に自分の枠を超えた言動が、自分の沸点を超え、どうにも身動きが出来なくなり自分を見失い、社会に適応できなくなってしまった、それが引きこもりです。

現実、世間から見れば躓(つまづ)いたということではありますが、誰が正しいとか、どちらが正しいのかを争うのは無意味です。敢えて言うなれば、親や家庭での影響は多大ですが、それをどうして行くのかを含め、先ずは本人の主体性の回復が先決です。

引きこもり(不登校)の闇

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内面で起きてる事に気付かないまま、自分と世間を責め続ける

引きこもりになられる方の性格は、元来、生真面目で小心な方が多いです。しかし一方では筋を好み頑固な一面もある。だからこそ自分の許容範囲を超え、相手に迎合してしまう。その内側はいつもアップアップ状態なのです。

ところが実際は、自分の枠を超えていることに気付かず日常を送られているので、知らず知らず憤りを増幅させ、いつしか本来の性格に歪みが起き、自分への否定と抑えきれない怒りに溢れてしまうのです。しかし問題は、そういうことが自分の内面で起きていることに気付かないまま、自分と世間を責め続けてしまうことにあります。

引きこもりと一口に言いましても様々です。なんらかのコミュニティを持つ人から、自分の部屋に篭ったまま誰とも口をきかずに殆どの社会生活を維持できない人までいます。年数で言えば20年、いやそれ以上にも及ぶ方まで、それは何らかのきっかけや誰かの介入なしには動けないほど、自分ではどうしようもなく続き得るのです。

引きこもりとは、大きく言えば、社会活動に参加せず社会との接点を持たない状態ですが、その闇とは、そういう人々が自分以外の人間や社会に対して、適応・共存できないことでの劣等感から自分を責め、自分以外を遠ざけ、そしてコンプレックスを膨らましながら怒りも増幅させること。その怒りの中で自分を見失っていくことにあります。

放っておけばいつまでも続く闇の底なし。基を正せば純真な心の持ち主が、孤独の中で自分への価値を見出せずに引きこもるしかない。それはなんとも痛々しい限りです。

引きこもりのⅣステージ

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「急性期」から「回復期」までの道のり

引きこもり(不登校)の初期段階というのは、例えば高熱がでるような、突然の異変に戸惑う「急性期」から始まります。例えるなら、思いっきり頭を叩かれたような状態。とにかくパニックになり放心状態になり、本人も周りも何が起きているのかよく解らないまま、ただ動けくなってしまった状態です。この状況下で有効なのはやはり休息、本人が安心して休めること、周囲は少し落ち着くまで待てることです。

低迷期」…思いっきり叩かれた頭の中では、何かが振り子のように大きく揺れている状態。周囲からは少し落ち着きを取り戻しているようにも見えるのですが、その中ではドロップアウトせざるを得なかった状況に対する憤りと自分への自己否定が渦巻き、絶望と渇望のなかで混乱しています。

引きこもりだしたといっても本人にとっては、戦場に行かずに済んでいるが戦争は続いているようなもの、とても不安定でもろく抑うつ状態な感じは続きます。この時期の周囲は腫れ物にでも触るような対応となってしまいやすいのですが、焦らずに見守れること、聴く姿勢を保てること。と同時にご自分達の振り返りも大事です。子ども一人の問題ではなく、家族の問題として捉えることが大事な鍵となります。

自己対話期」…頭の中で大きく揺れていたものが落ち着いてきた状態。自分の考えや胸の内をいつ話し始めるかが鍵を握ります。この時大事なのは、それを見守り続けてくれる人の存在と、それを客観的に扱ってくれる人の存在の有無。本来は親のなすべきことではあるのですが、その為のサポートサービスがカウンセラーの役目となります。

何度も混乱と気付きを繰り返しながら、一番時間の要するところ。自己の確立と自立を見据えた対話が回復へと導くのです。親子の対峙や本音の話し合いが出来るかどうか、試されるところです。

回復期」…ここまでの道のりを経て辿り着くのが、回復というか、安心できる自分を取り戻せた状態です。自分が考え自分で決めれる、そういう主体的人生の始まりです。

これらの段階、どれを取ってもはっきり言って容易ではありません。ですが解決の鍵は、あなたの手の内にしかない、そして必ず鍵はあるのですよ。

根本から解決するには

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社会の中において自己を確立できること

結論から言えば、等身大の自分を引っ張り出すこと。社会に適応できる人間になるのではなく、自分という人間をきちんと知り、自分に適応して生きること。今までの生き癖を見直し、徹底的に原因と理由を明らかにしながら、自分に不適合な縛りを解く。そうして自分で生きられるようになること即ち、社会の中での自己を確立できるのです。

文章にすれば完結ですが、これが嫌でこれが出来ずに引きこもっているので、そうそう簡単なものではありません。実際には自分の本性を認めざるを得ないところまでいけるかどうかにかかってくるでしょう。

落ちてもOK、弱くてOK、辞めてもOK、自分が好きにしていい。そう感じれたら引きこもりも不登校も関係なくなります。社会も学校も自分との比較確認の場に過ぎないのですが、人間は自分の特異性を感じたとき不安になります。そしてその特異性を扱えないのが社会や学校であり、その性質上、中庸を好みますので、個性が淘汰されてしまうことにもなりかねないのです。

ですが引きこもってしまっている人にとって、社会はもう敵ではなく、実際には自分との勝負のみが鍵となります。自分に勝つというのは、強くなるということではなく、自分を知り自分を認め入れることです。

引きこもりは一夜にしてならず。しかし己を正確に知ることで、人はもれなく社会の中で生きられます。背後にある親子の問題と闇に焦点を当て、自分の縛りを解くのです。社会の中のどの場所でなら、自分が楽に、楽しく生きられるのか、それを獲得していただくために、マザーアースでは、とことんご自身を知っていただくためのナビゲーションに努めます。 

「実際に3年間引きこもっていた僕が思うこと」 … 達郎

自暴自棄

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僕は20代前半頃から約3年間引きこもりました。自分にとってはそれまでの人生、普通・当たり前の生き方をしてきたつもりでしたが、それがどうやら相当「健全」ではなく、様々な感情を抑圧し、僕の心は病みきっていました。その生き方で限界に達した頃、僕は引きこもり始めました。

引きこもっていた期間はすごく自暴自棄でした。まるで廃人のようで、ボタン一つで楽に一瞬で死ねる手段があるなら死にたいとずっと思っていました。

本気で向き合ってくれる相手

そんな廃人のような状態。胸の奥底では「こんな人生どうにかしたい」と思っていても、荒みきった心はそう簡単に前を向けません。むしろ「全てぶっ壊れちまえ」「世の中全員死んじまえ」と思いながら惰性で生きているのですから。

普通そういう人を相手にしたくないですよね、誰だって。そういう自分を相手にする覚悟を持った人、それが本気で自分と向き合ってくれる人ということ。そういう人と出会えた時に初めて「頑張って生きてみようかな」と前を向ける。

上辺だけじゃなく、本気で自分のことを相手してくれる人…。生まれてからそんな相手と出会えなかった人はむしろ、グレない方が不思議だと思いませんか。

「引きこもる自分」を責める必要はない

引きこもってる人は「引きこもってる自分はダメだ」と自分を責めてしまっている人がほとんどだと思いますが、自分を責める必要は全くありません。引きこもるに至った至極当然な理由がありますし、引きこもりという状態を悪・恥と判断するのも偏った価値観の一つに過ぎないからです。なので本質的には、「引きこもりたいだけ引きこもっていていい」ということなのです。まずはそういう安心感がほしいところです。

回復に伴う痛み

「引きこもっててもいい」という風に自分へ許可を出せたとしても、生きてく苦しさが消えるわけじゃない。引きこもるに至った理由が解消されたわけではないから。なので今度は、自分の心がどういう状態なのか、なぜ引きこもるに至ったのかその理由を自分が知り、心に寄り添って行くことをし始めます。

基本的には癒し・セラピー的な要素が主となり回復が進んで行きますが、思い込みや自惚れを指摘され、等身大の未熟な自分を突き付けられる必要も同時に出てきます。それが辛くて辛くて、途中で何度もバックレるんですが、それがなければ結局のところ本物の自分までたどり着けません。そこは本人次第なところです。

本当に何より辛いですが、やればやるほどより広い領域へ行ける感覚がします。

「自分」は変わらなくていい

「こんな自分を変えたい」と思うことは何度もありましたが、そう思う必要はありません。そう思っている感覚はとても辛いです。もちろん、「この苦しさをどうにかしたい」という思いは回復作業の大切な動機ではありますがね。

「こんな自分を変えたい」というよりは、「どんどん“自分”になって行く」という感じです。自分でさえ、自分のことを知らなかった。知らなかった自分を知って行く。「そうか、自分てこんな感じなのか」。そして自分が自分で居られることに誇らしさと愛しさを感じられるようになって行く。

引きこもったのは、「自分じゃなく居ることがもう嫌だ」という意思表示の第一歩だったんですね。そこまでたどり着ければ、あとの人生で自分に課せられたことは「自分を味わうこと」のみ。「変わりたいけど自分なんかが変われる気がしない」という絶望の淵から、きっと来られるから、がんばりましょう。

達郎