意識と無意識

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瞑想遊び。

ある星で、意識ちゃんが生まれました。意識ちゃんは、無意識ちゃんと友達になりました。あるとき、意識ちゃんは、ふと、自分の足元に影のようなものがあることに気が付きました。その影は、かたちを変え、そこからは種々の物語が聞こえてきます。時に、恋愛の物語、イジメの話、挫折の物語、離婚の話、失恋の物語 などです。

意識ちゃんはふと考えました。自分の後ろに無意識ちゃんが現れる時に限って、影も現れ、そこから悲しい物語が聞こえてくるんじゃないか、それはきっと、無意識ちゃんが私を貶めるように意地悪をしているに違いないと。意識ちゃんは、無意識ちゃんが自分に意地悪をしているのだと思い込み、無意識ちゃんのことがキライになりました。

意識ちゃんは、無意識ちゃんを無視しようとがんばりました。がんばって走ったり、気にしないで前だけを見ていきました。しかし、がんばればがんばるほど、影からの声が大きく、つらい内容の物語になっていくのでした。

思いあぐねた意識ちゃんは、ついに後ろを振り返り「やめて!」と怒鳴ってしまいました。
「やめて!いつまでも私をつけまわして、私に悲しい想いばかりさせて、私まで悪い子にしようとおもっているんでしょ」と…

そして、振り返りながら見た無意識ちゃんの姿に、びっくりしたのです。そこにいるのは、自分と同じ姿をして、眼にいっぱい涙を溜めている小さな子供の姿でした。
「ああっ!そーゆーことだったのかぁ…」
全てが飲み込めた意識ちゃんは、無意識ちゃんに駆け寄り、思いっきり泣いちゃいました。

いつも後ばかりついてくると思っていた無意識ちゃんは、もう1人の意識ちゃんだったのです。後ろをついてくるように見えた無意識ちゃんは、いつも前しか見ていない意識ちゃんに、‘ほんとうのこと’を教えようと、影を用いて、物語を聞かせていたのでした。影から聞こえる物語は、意識ちゃんの『無意識』の物語でした。そして、意識ちゃんこそが、無意識ちゃんの分身であり、『意識』だったのです。

無意識ちゃんが付いて来ていたのではなく、意識ちゃんが無意識ちゃんの周りを回っていたのです。
「そうかぁ・・そうゆうことだったのかぁ。。。。。」
それからの意識ちゃんは、自分の影の赴くままに生きていくことにしました。物語の悲しい時には涙し、楽しいドラマには笑い転げ、無意識ちゃんのエネルギーを感じながら、
「この星も、なかなか捨てたもんじゃあないなぁ、」
なんて、ぶつぶついいながら、気の赴くままに、、、あれっ? どこ行ったんだ、、?

さあて、意識ちゃんが見ていた物語は、なんだったんでしょう。意識ちゃんは、どうして泣いちゃったのでしょう。‘ほんとうのこと’とは、一体なんだったんでしょう。無意識ちゃんは、意識ちゃんの、なんだったんでしょう。

ふたりはどこへいったのでしょうか??

意識と記憶

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記憶は無意識の確認材料。

今生の世界が不安なのは、このカラダのこの意識が窮屈なのよ。この世界が狭いのではなくて、この意識が窮屈なのよね。意識にとらわれている間は死が怖くてたまらない。家族や他人への執着に惑う。それにまつわる全ての物語が気になってしょうがない。

天使と悪魔の登場…これを餌にしているのが宗教。幸か不幸かなんて、どうでもいいことよ。ていうか不幸などない。

無意識に尋ねれば、何でも、「うん、そうだった」と木霊する。意識は記憶のタイムマシン…今生での終焉は、確認終了の結果に過ぎない。

五感…そして第六感・第七感・第八感…

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本質真髄への鍵は第七感にあり。

視覚・聴覚・臭覚・触覚の五感は、現代の私たちが日常で使っている感覚機能で、意識で感じ取ることが出来るものです。第六感は、少々説明しにくい意識の世界。五感に比べて潜在的なものに近づいていく感覚。知覚。例えば胸騒ぎ。危険を察知する能力であったり、勘・直感とか、なんとなく…という、自分の本性、自分に相応しいものを選り分けるために働くもの。

エジソンは「発明は99%の努力と1%のインスピレーションである」と言う。それは、努力(知識・経験)が99%あっても、1%の第六感的なひらめきの存在が必要だということだ。そして、そういう経験の積み重ねが、より、インスピレーションの感度を増していくのだろう。
また第六感を動物でいえば、ねずみが地震の時や沈みかけた船からいち早く察知し避難する能力。これは、人類が、文明と引き換えに失ったとも思うもの。

そして、更に意識の奥にある第七感。無意識のレベルの心覚。 第七感・第八感は私達に馴染みの少ない言葉ですが、仏教ではその存在を心理学の発達以前から明らかにしていたようで、特に第八感は、『アラヤ職(なんでもそこに全てあるという意味)』と呼び、悟りを表します。そこには心に浮かぶ種々の感情・感覚、嬉しい・楽しい・恋しい・心地よい・悲しい・憎い・寂しい・怒りなどの全てが並列にここにあり、感情の善悪・優劣は存在しません。それはユングの言う『集合無意識』や、『曼荼羅』と非常に共通した意味を持っているものです。つまり第八感は『本質心髄』であり、そこに到達するのに第七感が重要な鍵をにぎってきます。

さて、第七感について説明してみましょう。 第七感のある環境は無意識の領域で心の感覚のこと。この層は非常に厚く、時にその奥にあるもの(心の本質)をわかりにくくしています。 人間の持つ我執や分別あるいは現代社会全体が善悪・優劣をつけ複雑にしているからです。それゆえに、第八感の本質心髄の境地を体感するためには、あるがまま第七感に導いてもらうことしかないのです。

“食”をテーマにしてみます。
私達は五感をフル活動させ、死ぬまで食事を頂いています。それを第六感の脳(知覚)で受け取り、これが統合されて第七感の心覚で感じ取る、つまりは食べることの精神的安定を得ているのです。

ここが最も重要です。 心が不安定な時、食が進まなかったり、胃腸が異常をきたしたりする事があるでしょう。まさに食は心の安定と絡み合っている。拒食症や過食症などは第七感の世界にあることを物語っている代表例でしょう。つまり、第七感で感じるものは私達の五感に、いえ、頭(脳)・こころ・からだの全てに影響を及ぼします。

本質への境地、またはそのプロセスを表現しようとする時、多くの宗教(特に仏教や道教)・哲学・禅・曼荼羅・インカ文明または、ユング・ロジャーズ・老子などとの共通性に気づかされる、それらの全てが同じ境地へ向かっていることを感じざるを得ません。

何も難しいことではない、自分の本性と会話することで境地の体感が出来るのです。それは第七感に素直に聴きにいくこと、感じること。

そして更に第八感は、その先に待っています。

関連記事…春に連想される五感、第六感、第七感、第八感

必死と必死の間

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人生暇つぶし。

人間の本質は変わらない。何千年前の人間と何も変わらない。生きる意味とか目的とか、1日で死ぬ人間と100年生きる人間と、何十億年も生きてる宇宙とか、その価値に違いなどあるものか。みんなおんなじ、どれもすごい。そしてどれもどうでもいい。

死の瞬間は怖くない。怖いなどと感じる暇も余裕もないのだから。怖いと感じるのは、その瞬間を感じるもう1人が居て味わえること、だから怖くはない。瞬間の真っ只中にいて、怖いと感じる暇はない。あるのは、一様な必死。生まれた時と同じ必死な時が存在するだけ。どの人間も、生きている間にこの二つの瞬間(生まれる瞬間と死ぬ瞬間)ほど必死な瞬間はないだろうね。てことは、万人が同じ必死な時を2回も過ごすんだ、ならその間くらいは好きにしたらいいね。一生懸命生きてもいい、ぐうたら生きてもいいんじゃないか。

記憶ってヤツは、人間ゲームを面白がらせる為に与えられたアイテムね。記憶、つまり、業(カルマ)は過去と今と未来を繋いでいる。ほら、終わってない記憶があれば、遣り甲斐も嘆き甲斐も、何年でも何千年でも繋いでいけるでしょ。だけど過去のその時間に置くことができたら消える。それ、今生で出来る。世の全てはつじつまの合う当然現象。異常も特別もない、ただの経験。

必死と必死の合間にあるもの。『息つく島』ね、生きるって。息をしろ、息をつけ、一休み、暇つぶしかぁ。

心って何?

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どうでもいいがどうでもよくない。

哲学者、野矢茂樹氏は、「心とは、その他 である」と言う。例えば、蛇を見て、白いとか長いという共通の概念以外の、その他、例えば怖いとか面白いという個人的概念が、心だという。私の心に対するイメージは、『ゼロ』即ち『空(くう)』。

ゼロとは、無いのではない、ゼロが在る。無いのだが在る。即ち『空』。0(ゼロ)という意味を持つ数字。正数と負数のあいだ。例えば、十一万千を数字で表すと、111000 と非常に解り易く、0に意味を持つ。どんな数字にゼロを掛けてもゼロだし、ゼロで割ることも出来ない。あってもなくてもよさそうでいて、なければならないもの。ロケット打ち上げのカウントダウンにも重要な役割。

天秤棒の支点のように、両方の振動を行ったり来たり、右に左に揺れながら様々な思いが噴出するところ。愛と憎しみを、自分の目盛りの振れるだけ行ったり来たりする。エネルギーが大きければ、それなりに激しく揺れる。揺れれば揺れるだけ、くたくたに、ボロボロになって、自分の目盛りの分量の全てを思い知る。心を感じ、己を感じ、正体を感じ、ゼロになる。

リラックスして支点(ゼロ)に委ねれば、感じられる。ゆらゆらと、任せるだけ。心とは、落ち着かないもの、揺れるもの。どうでもいいが、どうでもよくない、ゼロのようなもの。そこに在るだけ、感じるだけ、それだけで自分の全てを司る、普遍的なものである。

ほんとうに恐れているもの

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自分を無理やり寝かしつけ。

何が恐ろしいのか。それは、恐ろしいほど強い感情を持っている自分を感じてしまうこと。その感覚が、底知れず、とてつもなく、破格に大きく強く深いものであることを自分が承知しているので、それを感じてしまったら、それが自分の正体であることを自分で認めることが恐ろしくて、それを感じることを許したら、狂ってしまうんじゃないかと思うことが恐ろしくて、それ故に隠す。

恐ろしい程の感覚を有する自分が、正体に目覚めたら、この星で生きられないと思うから。底知れぬ孤独を味わいたくないから。一人ぼっちになりたくないから。だから、自分を誤魔化す。おっかないのは自分、自分の感覚。他から拒否られることではなく、自分が目覚めること。ホントは知っている、だから抑える。自分を無理やり寝かしつけ、その夢の中で自分を演じ、現実を生きようとさせる。

でも、無理やり寝かしつけられたので、うなされる。突然叫んだり、喚いたり、時には飛び起き、その度に落ちその恐怖に縛られ、また眠りにつかされる…自己催眠。そうして、現実を何とかやり過ごそうとしている。無理だよ…自分の正体ちゃんと見て。一番恐れるは、恐れすらなくなること。

自分を知る

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全ての言動は必然、たら・ればはない。

全ての言動は必要・必然、たら・ればはない。過去の言動、この世の中に無駄などない。全ての瞬間に間違いはなく全てが一瞬完結の無意識の反映です。後になって、なんか釈然としない感じがしたり、後悔や反省しても、これ全て意識下での紛れもない選択。根底での想いと欲望が全ての言動を決定付けている。

人間の思考は変化する、感情でさえ、自分に嘘をつく。抑圧してしまうこともあるし意味に気づかないこともある。しかし感覚は知っている、全てを覚えている。だから自分を知るには 感覚をよみがえらせ、思考と感情に繋げる必要がある。

全ての言動は必然です。行動が事実です。それをきちんと理解し、きちんと腑に落とさずして納得はない。真剣に苦しみ、真剣に悩み、その意味に気づく。思考も感情も感覚も、繋がってこそ、『我、ここに在り』ではないだろうか。

笑うべきか泣くべきか

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エゴが本質を牛耳るようになってやしないか。

「笑う」も「泣く」も、ただただ自然に当たり前のようにしていた子供時代は誰にでもある。しかしそれがいつしか、笑った方がいいのか泣く方がいいのかなどと、エゴが本質を牛耳るようになってやしないか。

エゴの意図、それは人間が独りでは生きれない証拠か。エゴとは他人あってのもの、だとしたらエゴの敵は孤独か?孤独とは何ぞや?…その正体とは、自分は何者か解らないことへの不安なのかも痴れない。

笑うべきか泣くべきか、それが問題なのではなく、笑いたいのか泣きたいのか、それが解らない自分が問題なのだ。

二次元空間の住人と三次元空間の住人、そして多次元時空への扉

カタツムリの写真

知性と感性。

私たちの住むこの世界は一般的には三次元の世界と呼ばれていますが、それは三次元空間にある世界という意味。また、この三次元空間に一次元の時間をあわせて、この世は四次元時空の世界という言い方もされます。ちなみにドラえもんの世界は四次元空間で、それを繋ぐのが‘どこでもドア’という時間の扉なのですね。

さて、二次元空間の住人と呼ばれるナメクジ、ミズスマシ、彼らの世界は平面です。目の前に障害物を置いたら行き止まりとなる。三次元空間に住む我々から見ればいかにも滑稽ですが、それはUFOの到来に目を丸くする我々と何ら変わらないのだろうね。

人間の脳はラッキョウみたいな構造になっているという。大雑把にいうと、一番古い中心部分が感覚の機能であり、その上に基本的運動機能、その上に感情、そして一番上の新しい部分が知的判断を司り、その知的な皮をひたすらブ厚く肥大させ続けているという。

でも、地震予知すら知性で成し遂げたいと考える人間だって、船底で異変を感じたネズミがいち早く逃げ出すのと同じように、なんとなく感じた胸騒ぎが、それ以外の何者をも封じ込んでしまう程の最優先的選択権を持っているのを知っている。さあ学校だ、さあ仕事だと玄関をでても、モヤモヤ・ドキドキに襲われて、どうしても先に進めないこともある。こうして感覚は生きている。

そもそも、人間は、この進化した知的判断の中で、得体の知れない未開の心を了解可能な心にしようと「言葉」を生んだ。しかし、今や言葉がひとり歩きして、心を言葉に置き換えるより言葉に心を当てはめ過ぎていないだろうか。

ところでナメクジはカタツムリが引越し中の姿ではなく、カタツムリが環境に適応して進化した姿。クジラやイルカなど海中に住む哺乳類は、何億年もかけて海から陸に這い上がり、エラを肺呼吸に、ヒレを手足にと進化を重ねたのにも拘らずふたたび海に戻っていった。彼らに何があったのか知る由もないが、コトバを創り知性を進化し続けている人間と、コトバや知性以上に超感覚・超能力へと進化しているように見えるイルカと、彼らの方がよほど穏やかで平和そうに見えるのは、私だけではないでしょう。

三次元空間にどっぷりつかる知性人は、いったいどこに向かっているのかね。三次元空間に固執するあまり、大事なものを見失ってないかしらね。

時間の流れ、時空への扉

夜空の写真

さて、イルカの持つであろう超感覚や超能力、人間や動物の第六感からは多次元時空を垣間見れます。つまり、三次元空間の住人の心には多次元空間への扉があり、すでに過去も未来も共有しているのです。

つまらない授業は長い時間、ときめきのデートはアッという間。追突しそうになった時のコマ送りのリアルな時間。なんとなく帰宅を一日早めたら九死に一生を得た。忘れられない出来事からは、その人の時間が止まったまま。忘れたくても忘れられず、忘れたつもりでも内側の無意識の底から浮上してくる何かに怯え続けてしまう。心で引っかかった、思い残したまんまの時間は今も生きている。今が過去を、過去のまま引きずっている。このように、今と共に過去を感じ、今の中に未来もある。

そしてまた、人に流れる時間のテンポは一様ではない。そもそも、地球の一日の時点速度、つまり一日が24時間に対して、ヒトの体内時間は24.8時間なんだと。これは月のリズムと同じであって、ヒトの体液感覚リズムなんですと。人間は、その外側と内側で時間を使い分けている。外側はみんなとの共有時間で、内側は自分固有の時間。そして内側の時間で自分を測り、その時間で自分の一生を終えていくのではないだろうか。

人間をはじめとする生き物は、受精から誕生、そして歩き出すまでの間に、二次元的から三次元的生き物へと進化する。つまり、身動きの出来ない仰向けから、寝返り、平面のハイハイから立体的な立ち歩きと、より自由になっていきます。胎児の顔を最新科学の映像で見ていると、まるで魚類の顔~両生類~ハ虫類~ホ乳類の顔といった具合に進化の過程を経て人間になっていくように見えます。

空間と時間そのものが、すでに‘どこでもドア’を備えています。知性と感覚のどちらも手に入れた人間が言葉を使い、感性を無意識を言葉にする。そうして人間同士が繋がれる。やっぱり人間は素晴らしく面白い。