対人恐怖症とは

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押さえ込まれた自分らしさ

対人恐怖症とは、世間全般にはびこる正論・道徳心、それらに自分本来の行動様式、“自分らしさ”ががんじがらめに押さえ込まれた結果起きる心の癖です。このページでは、対人恐怖症はなぜ発症し、どうすれば緩和されていくのか、私の観点から細かく説明していきます。まずは対人恐怖症を正しく理解しましょう。

対人恐怖症の症状

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その症状は、とにかく人が怖くて、人と接したり関わろうとする瞬間から怖さを感じてしまいます。そして怖さゆえ自分をいつも受け身に、或いは下手(したて)に出るこことでなんとか無難に過ぎようとする。この循環が更に自分をしんどくさせていくのですが、その目的はそれと引き換えに見捨てられないこと、認められることを得ようとするものなので、苦しくても止められないことに対人恐怖の恐ろしさがあるのです。

対人恐怖症になった理由

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そもそも人と関わるのが怖くなるというのは、自分本来の反応が出せないということ。その殆どは幼少期に、親や身近なコミュニティの中で身に付いたものです。例えば親が権力的、支配的だったり子供に無関心な場合、子供は自分の意思を表現するという自由を知らず、ビクビクしながら親の意見を当たり前のように、或いは仕方なく受け入れています。

親だからという建て前で、ああしろ・こうしろ・お前の為だと無自覚なまま理不尽を押し付け子供の自由を奪い、子供が親の威厳や世間体を当たり前のように守り支え続けるために良い子を演出したり迎合してしまうこと、そういう日常が当たり前のように過ぎていくことがどれほど恐ろしいことか。

それはあたかも義務のように、それが自由を奪われていることにも気づかずに巧妙に入り込んでいくから恐ろしい。そうして染み付いた反応パターンは、他の人間関係においても同じく、特に親と似た人に対しては更に色濃く現れます。

また親以外の関係においても、自分の特異な個性に気付き、他との違いにコンプレックスを感じたときにも強烈な対人恐怖症として現れるでしょう。自分の言動を友人や教師などから批判・指摘されたり、それ以上に、それまで親密な関係だったのが希薄な関係に変化していくことには耐えられず、自分の行動様式を抑圧せざるを得ず、結果として対人恐怖に陥ることになってしまうのです。

対人恐怖症の正体

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自分の本性への嫌悪

人と話していてビクっと怯える、自分の意見が言えずありのままでいられない、そういう対人への怖さが増していくと、人と関わること或いは接すること自体が怖くなり、ただ自分の殻に篭りたくなり自己否定の迷路に陥ってしまいます。

それは、本来の自由な自分の気持ちを阻止しているということなのですが、それでも止められないのは上記にあるように、自分の持つ見捨てられたくない気持ちや承認欲求があるから、そして自分の個性を嫌っているからです。

そう、対人恐怖を抱える人は、自分が自分の個性に押しつぶされ、自分をとっても嫌っています。そしてそういう嫌な自分が人と接する時に出てこないように張るアンテナが「怖い!」という反応なのです。「怖い」から自分を引っ込める、「怖い」から下手に出る、そうすることでその奥の自分が顔を出したくなるのを阻止できるのでね。

対人恐怖になられる人々の多くは、本来神経細やかで、自分への拘りと人への思い遣りに溢れています。しかし、忍耐の奥で感じていた違和感は押さえ込んで消えるものではありません。その奥に潜んでいる自分の本性が、今か今かと出番を待っているのですが、何しろずうっと我慢を重ねて来たものですから、出るのが怖くて怖くて、それでいつまでも人が怖いと思い込みます。対人恐怖の本質は、自分を解放させたくない自分との葛藤にあるのです。

解決・緩和方法

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そうでしかなかった自分の発見

解放させるには、自分の感じていた気持ち、或いは感じるべき気持ちを知り、それらが妥当な反応だったと確認していくことです。親との対峙も大事ですが、いくら親に食って掛かっても、例え親が謝罪をしても、自らが解放されなければ本当の自由はありません。

自分をきちんと知ること。好きでも嫌いでもなく、正しいか間違っているかでもなく、ただ自分とはどういう人間なのかを知っていくなかで、今までの自分を、「そうでしかなかった」と自然に感じれたとき、人への恐怖は終焉を迎えます。