カウンセラー 浅野順子

CEO

カウンセリング暦
19年(2017年現在)
取得資格
教育カウンセラー 産業カウンセラー 心理相談員 交流分析士
実績
私立高校スクールカウンセラー SBS学苑講師 各種講演・セミナー ラジオ出演

自分は宇宙人?

1959年静岡県沼津市生まれ。物心ついた頃から自分と周りに違和感を感じてきました。幼稚園から中学頃まで優等生だった私は、与えられる役割を消化しながら、やらされている不快な感覚がいつも心の中を占めていました。恥ずかしがりやで引っ込み思案、積極性も明るさもないのに先頭に立たされることに躊躇しつつ、はっきりと主張できない自分をもてあます日々でした。

話さなくても相手の気持ちは解るのに、どうして私の気持ちは伝わらないんだろう?それが私の疑問であり違和感でした。

中途半端なヤンキー

私は両親と弟、祖父母の6人家族の中で育ち、父は私が小さい頃は漁師で母は専業主婦、何の変哲もない平凡な家庭で育ちました。小学校時代、大人のする評価に疑問を感じ、中学校時代、友人達との言動を通して自分との感覚の違いを感じ、高校に入り、社会に違和感を覚え、反抗するように中途半端なヤンキーを装っていました。世間の中では無口でしたが、かなり客観的に観察しながらいつも自分と対話していました。

ずっと胃が痛くて胃薬が離れなかったことを覚えています。本は好きではありませんでしたが、中学時代に読んだ松下幸之助の本からは私自身の哲学の原型「道(タオ)」「無策」「悩んだら止まる」「迷ったらやる」などを確認できた事、藤田田(ふじたでん)からは漠然と成功法則の原型のようなものを感じさせてもらいました。ただ当たり前のことを自然に書いてあった本だったと今は納得しています。

考えるより感じること

26歳で結婚、1男、1女を儲けました。特異な経験や体験こそありませんでしたが、自分の考えること・感じることにはかなり忠実であったと思います。疑問にはとことん質問し、それで切れる関係もありそこから始まる関係もあり、それでいいと思っていました。

子育てを楽しんでいた私は30代半ばにカウンセリング養成講座を知り、私の30数年が直結しました。心理を学んでいくうちに、必要なのは学問ではなく体感すること。その作業自体がカウンセリングであること、私そのまんまでいいのだということを確認させてもらいました。頂いた資格はどれも実践の役には立ちませんでしたが。

私の知る歴代のセラピストの中で共感したのはユング。彼の立体的、宇宙的な感覚は私と通ずるものがあります。それ以外では、仏陀、老子。共通して感じるのは、『考えるより感じる境地』、どこかブルースリーの言葉と同じですね。また、物理学者ホーキングの宇宙論や、アインシュタイン、ニュートンらの物理や科学が、人の心理と何ら変わらない法則があること、自然生命体が、宇宙であり心なのだと体感しました。

エジプトやインカで空を見ながら大地と対話していたように、禅や瞑想と同じように、自分の心に聴きにいく。そんな自然な境地は、生きている全ての生命体が平等になしえる行為であり、それが生きるということだと感じながら今を生きている私です。

自分の道しか歩けない

また、私生活でいえば、2009年の9月に離婚し、23年間の生活にピリオドを打ちました。理由は、ある男性と出会ってしまったから それだけでした。感性が響きあうというか、深く理解しあえ、ただどこまでも対等に本音で話せる人との出会いで、自分を誤魔化すことはできず自分に正直な結論に至りました。

立場・枠・常識・しがらみの外(そと)、23歳年下の男性(浅野達郎)と自然にこの先の人生を共に生きたいと感じたため、今までの生活にけじめをつけ、二人の生活を始めました。私自身、全く予測していたわけでもなく、素直に今に生きる延長でした。自然に流れたらこうなった、自分に逆らえなかった。今までもそうして生きてきて、その時々に納得してきました。

私にとって生きるとは 本能のガチバトル。つくづく自分の流れに逆らえず、嫌でも味わう妙味です。人に出会い、人と関わりながら、自分の道を突き進む時、人を傷つけてしまうことを避けては通れない。それでも私は自分の道しか歩けない。

私自身の人生がどうだったかは、私が死ぬときに知れるかも知れない。それまで、やっぱり自分を辞められそうにありません。もう少し生きてたい と心から思うようになりました。


カウンセラー浅野達郎 (Wカウンセラーカウンセリングのみ対応)

CEO

1982年生まれ、既婚(妻:浅野順子)、カウンセリング歴6年(2017年現在)、経験した症状は対人恐怖症、うつ、神経症、過食など。

 

僕の両親

僕の父は田舎出身の勉強以外何もできないエリートで、母は世間知らずの箱入り娘。僕はそんな両親の下、経済的には裕福な家庭で育ちました。

父は自分の都合の良い現実にしか興味を持てない人でした。唯一勉強の成績だけは良かったものですから、ひたすらそれに逃げてきたのでしょう。そしてそれ以外の現実からは目を背けてきた。何もできない、自分でもそれを分かってない、むしろ有能だと思っている、無自覚な暴君が僕の父でした。

そんな父が母と出会ったのはお見合いですが、それまで女性と交際した経験があるはずもない父が母との夫婦生活をうまくやって行けるはずもなく、父は常に不機嫌でした。

上っ面な家族

話し合い・対話のできない二人…。それなら別れてくれれば良かったのに、別れることなく夫婦を続けたことが不幸の始まり。子どもに興味のない不機嫌な父親と、その父親をどう扱ったらいいのか分からず機嫌をとろうとするだけの母…。人として当り前であるはずの対話ができず、本当に不自然な夫婦のやりとりが日常でした。

家庭の中は常にそういう雰囲気。「嫌だ」「怖いよ」「やりたくない」「これが欲しい」「これがやりたい」「ムカつく」といった屈託のない本音や感情が飛び交うことはなく、上っ面の無機質な家庭がそこにはありました。僕の家族は、周りから見ればとっても仲が良さそうに見えたと思います。でもそれは全て、偽物でした。

イジメられないために

自分をキチンと表現できない僕は、周囲からからかわれることもよくありました。小学校5~6年の頃は周囲から相当舐められていて、深刻なイジメに発展する一歩前くらいでした。「このままじゃマズイ」と強い危機感を抱いた僕は、中学から始まる部活動で強くならねばと思いました。

選んだのはソフトテニス部。「ここの中でテニスが上手くなれば舐められずにすむ」。僕は真剣そのものでした。結果はギリギリ県大会に出場できた程度で、それが自分なりの“イジメられないためのお守り”でした。ただ、それ以降、高校・大学でのソフトテニスは結果を残せず、大きな挫折を味わいました。

教室にいるのが苦痛

朝教室に入る時、ドアを開けたくない。教室に入りたくない。でも他に選択肢はない。自分の意識を一時的にマヒさせて教室に入っていました。そして休み時間。話す友達がいない・孤立している姿を見られることがものすごく怖くて、孤立しないように頑張ったり周りの視線に神経をすり減らし、学校が終わる頃にはヘトヘトでした。

高校を卒業する時は、「やっとこの地獄が終わるのか」と安堵していました。周りのみんなのように、泣いたり笑ったりする気持ちには到底なれませんでした。大学は、最初の方は何とか授業に出ていましたが、やはり怖くて教室に入れなくなり、単位が足りなくなり、2年の終わり頃に退学しました。

続かない仕事、引きこもり

大学を中退してからは、牧場や車の工場などで働きましたがどれも長続きせず、地球村やシュタイナー教育などの精神的なジャンルに入れ込んだこともありました。それでも自分の苦しさは変わらず。仕事も上手く行かないし、生きてても漠然と虚しいだけ…。僕は引きこもり始めました。23歳の頃です。

引きこもってる間は近所の心療内科や自助グループに参加したりするものの、基本的にはインターネット、タバコ、酒、食って寝る、の繰り返し。部屋の中はゴミだらけ、壁には傷と穴がたくさん。親はそんな僕に頭を悩ませてはいたようですが、どう接したらいいのか分からず、ただ時間だけが過ぎて行きました。

マザーアース

引きこもって3年。自分にできることを自分なりにやってたつもりでしたが、苦しさは無くなりませんでした。「僕の人生これでいいんだ」とごまかし続けるのももう限界。意を決して電話をかけたのが、以前からHPだけは知っていたマザーアースでした。

それまでもいくつか心療内科やカウンセリングを受けてきましたが、僕が感情を出せたのはマザーアースのカウンセリングが初めてでした。「あなたは傷だらけで血だらけで立っているようなものですよ」僕が最初のカウンセリングで言われた言葉です。

結婚

マザーアースの田尻順子(現・浅野順子)は、ありのままの自分でいられる、どんな感情も自然に出せるという、僕にとっては生まれて初めての相手でした。そして幸運にも僕は、彼女を人生のパートナーとして共に歩むこととなりました。

二人で居ることがただ心地良く、二人が一緒に居られれば他に何も必要ではない。対等に感情をぶつけ合え、助け合える。互いを思いやり、協力して生きて行ける。不信感の上に成り立っていた僕の両親とは間逆のものでした。

お客様へ

僕がお客様と関わる機会は、現在、Wカウンセラーカウンセリングや各種セミナーとなりますが、その際には僕の経験してきたことを少しでも還元できればと思っております。特に男女・夫婦問題、子供の立ち居地からの視点・アドバイズ、引きこもり等でお悩みの方には、より共感できるかと思います。

皆様のご利用お待ちしております。

達郎